三週間後 第2話

文字数 4,523文字

 完全に酔い潰れた祖父と智兄をそれぞれ布団に寝かせて、後片付けをしようとするわたしと若月さんに祖母はいった。
「片付けはええから、今日はもう休みんさい。お風呂は明日の朝のほうがええね」
 そして台所から追い出された。
 若月さんを客間へ案内しながらわたしは尋ねる。
「若月さん、大丈夫ですか」
「なにがです?」
「ものすごい量のお酒、飲まれていましたよね」
若月さんは笑った。
「大丈夫です。ぼくはアルコールには強い体質のようで、いくら飲んでも酔わないんです」
 たしかに、そういう彼の表情も話しかたもいつもと少しも変わらない。足許もしっかりしている。
「だからふだんはあまり飲まないようにしています。酔わないのに飲んでも虚しいだけですから」
「すみません」
「どうして謝るんです?」
「だって、祖父が調子に乗って次から次へとお酒を飲ませてしまって」
「いえ。今夜はとても楽しい酒でした。今まででいちばん気分がいい」
「そうおっしゃっていただけると」
「ぼくはあなたのほうが心配ですが」
「え」
「さっきから足許がふらついていますよ。少し呂律も怪しい」
「そんなことは」
「ほら、危ない」
 よろけたわたしを若月さんが支えてくれる。自分ではそんなに飲んだつもりはなかったけれど、祖父と智兄に注がれるままお酒を飲んだのは事実で。思ったより酔いが回っているみたいだ。
「先にあなたの部屋を教えてください。こんな状態でひとりで行かせられません」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう。少しくらい甘えてください」
 若月さんの腕がわたしの身体を支えている。わたしはなんだか頭がぼうっとしてきて、彼の身体に縋り付くようにしてその胸に顔を埋める。
「桜庭さん?」
「もう少し、一緒にいたいです」
 あやすようにわたしの背中を撫でていた手が止まる。ゆるゆると顔をあげると、驚いた表情をした彼がわたしを見下ろしている。ゆっくりと息を吐くと、わたしの身体を抱き寄せて彼はささやく。
「今、その台詞をいうのは反則ですよ」
「だめ、ですか?」
「だから、そんなかわいい顔でかわいいことをいわないでください。理性が飛びそうです」
「好き、です」
 わたしはもう自分がなにをいっているのかわからなくて。ただ、このまま若月さんと離れるのが寂しいような気がして。
「もう、知りませんよ」
 低い、怒ったような声がして身体が宙に浮く。若月さんがわたしを抱きあげているのだ、と理解したときにはわたしは布団のうえに寝かされていた。
 若月さんが覆いかぶさってきて、唇に柔らかい感触があった。すぐに、ぬるりとしたものが口のなかに入ってきて、びっくりしたわたしはそれを退けようと頭を振る。だけど顎を掴まれて動けなくなる。
 お酒の味がしたけれど、それが自分のものなのか若月さんのものなのかわからない。
「っん、うぅ」
 彼が口づけの角度を変えるたびに、わたしの喉からへんな声が漏れる。苦しいけれど、いやじゃない。頭に血がのぼる。全身が火照ったように熱くてたまらない。
 だんだん気持ち良くなってきて、わたしはそのまま意識を手放した。

 翌朝。
 目が覚めるとわたしは自分の部屋で寝ていた。記憶がない。よく寝たせいか頭はすっきりしているけれど、なにか忘れている気がする。
 お風呂に入って着替えて居間へ行くと、若月さんと智兄がいた。
「おはようさん。よう寝れたか」
「うん。おはようございます」
 智兄にうなずいてから若月さんに挨拶をする。昨日と打って変わってラフな服装をした彼はちらりとわたしを見ると「おはようございます」といってすぐに目を逸らした。
 智兄がおや、というふうに眉をあげる。
 わたしは昨夜のできごとを思い出した。酔っていたけれど、自分がなにをしたか、記憶はちゃんと残っている。一瞬で顔に火が点いたように真っ赤になる。
「どうした桃、顔が赤いぞ」
「なんでもない」
 わたしは回れ右をして自分の部屋に駆け戻る。
「どうしよう」
 わたしが酔っ払ってわがままをいったから、若月さん気を悪くしたんだ。ドアに背中を預けたままわたしは動けなくなる。どうしよう。泣きたい。
 すぐ後ろでコンコンとドアが叩かれた。
「桃? 開けてええか」
「智兄っ」
 わたしはドアを開けて智兄に縋り付く。びっくりした顔の智兄が反射的にわたしの頭を撫でてくれる。小さなころからそうだった。わたしが泣き付くたびに、しかたないなと苦い顔をしながらも助けてくれた。
「どうしよう、若月さんに嫌われちゃうよ」
「なにがあったんじゃ」
 わたしは昨夜の顛末を話した。もちろん、キスをしたという部分だけは省いて。
 話を聞き終えた智兄は呆れたようにため息をついた。
「それは怒っとるんと違うと思うで」
「え」
「なんちゅうか、おまえも女になったんじゃのう」
 しみじみといわれてなんだか恥ずかしくなる。
「どういうこと?」
「おおかた、今の話にはつづきがあるんじゃろうが。キスぐらいされたんじゃないんか?」
「なっ」
 なんでばれてるんだろう。智兄は苦笑を浮かべる。
「図星か。そりゃあ間違いないわ。若月さんは怒っとりゃあせん。ちいとばかしばつが悪いだけじゃろう」
「え?」
「男心っちゅうもんをちいとは考えてみい。好きなおなごに抱きつかれて好きやといわれて、そこで手を出したくなるんがふつうじゃろうが。でもおまえは酔っ払っとるし場所が場所やし、その気にさせるだけさせといて生殺しやで。そりゃあたまらんわ。気の毒やで」
 智兄の言葉にさすがのわたしも事態を理解した。
「どうしよう」
「考えてもしゃあないわ。あっちに帰ったらまたなるようになるじゃろ。まあ覚悟だけはしとけ」
「覚悟って」
「わしにそこまでいわすなや」
 苦い顔をして智兄はわたしの額を小突く。半泣き状態のわたしを見兼ねてか、やれやれと肩を竦めて宥めるようにつづけた。
「大丈夫じゃ。若月さんはおまえがいやがるようなことはせん。あんだけ大事にしてくれとるんじゃから、信じてええ」
「智兄」
 なんで智兄はそんなにひとの気持ちがわかるんだろう。
「智兄は、若月さんの家のこととか知っとるん?」
「なんの話や」
「ううん、知らないならいい」
「ようわからんが、あのひとが苦労人じゃいうんはわかる。わしも東京に出てから実感したが、ひとの立ち居振る舞いにはそのひとの過去が表れる。だれにでも触れられたくない部分はある。田舎やと、みんな顔見知りっちゅう気安さから、そういう面に鈍感なところがあるけえの。迂闊に家庭の話とかせんほうがええ場合もある」
「うん」
「かといって、気にし過ぎるんもよくはない。難しいのう」
「智兄はすごいね」
「なんじゃおまえ、今ごろ気付いたんか」
 智兄はフフンと笑ってわたしの髪をくしゃくしゃにする。わたしは智兄に抱きついた。
「ありがとう。智兄がおってくれてよかった」
「嬉しいが、彼氏以外の男に抱きつくんはやめたほうがええな。若月さん、ヤキモチ焼くで」
「えっ」
「桃は中身は子どものまんまじゃのう。せっかくええひとに好いてもろうたんじゃけえ、おまえも若月さんを大事にせえよ」
「うん」
「ほれ。わかったんなら早う行って謝って来い。おまえに逃げられて若月さんショック受けとったで」
「うそ」
 半信半疑で居間に顔を出すと、若月さんの姿はなかった。台所で朝食の支度をしている祖母に聞くと、散歩に出掛けたという。
 わたしは靴を履いて坂道を降りて行く。途中で若月さんの姿を見付けて、走って追いかけていくと加速が付いて止まれなくなった。つまずいて転びそうになったわたしを若月さんが受け止めてくれる。
「なにをしているんですか」
「すみません」
 呆れた声でいわれて小さくなる。若月さんはすぐにわたしから離れようとしたけれど、わたしは彼の上着を掴んで縋り付く。
「ごめんなさい。怒らないで」
「怒ってはいません。あなたが謝る必要はない」
「でも」
「あなたは悪くない。ぼくの我慢が足りなかっただけです」
「そんなことは」
「今だって、懲りずにあなたにキスをしたいと思っているくらいです」
「して、ください」
「まだ酔っていらっしゃるのですか」
「酔っていません。正気です」
「ご自分がなにをいっているのか、わかっていますか?」
「わかっています」
「ほんとうに?」
「わたし、若月さんが好きです」
 少しの沈黙のあと、若月さんはわたしを抱きしめた。
「あなたはどうしてそう、ぼくを煽ることばかりいうのですか」
「すみません」
「また謝る。お忘れですか? 必要以外でぼくに謝ると襲うといったでしょう」
 若月さんの手がわたしの頭を掴んで上向かせる。彼は身体を傾けてわたしにキスをする。いつもと違う、昨夜みたいな深い口づけを。もう酔っていないはずなのに、だんだん身体が火照って頭がぼうっとしてくる。若月さんのキスもどんどん激しくなってきて、息ができないほどに荒々しいものになっていく。
 食べられてしまいそうで少しこわくなる。
「んっ」
 わたしが顎を引くと彼は唇を離した。そのままわたしの髪に唇を滑らせてささやく。
「好きです。愛しています」
 背中に回された腕に力が込められる。わたしも彼の身体に手を伸ばしてぴたりとくっつく。
「もっとあなたに触れたい。帰ったら、キスのつづきをしてもいいですか」
 びくっと肩を震わせたわたしを安心させるように若月さんはいう。
「あなたがいやなら、それ以上のことはしません」
 うつむいたままわたしはうなずく。
「それは、肯定の意味と取ってもいいのですか」
「はい」
 頭のうえで若月さんが長い息を吐く。
「もうひとつ、わがままをいってもいいですか」
「はい」
「ぼく以外の男のまえで酒を飲まないでください」
「え」
「あんなにかわいいあなたをほかの男に見せたくない。職場の飲み会では、あなたはほとんどソフトドリンクを飲まれていたから、あんなふうになるなんて知りませんでした」
「すみません。もうお酒は飲みません」
「それはだめです。ぼくのまえでは飲んでください。もっといろいろなあなたを見てみたい」
「そんな」
「楽しみですね」
 若月さんの含み笑いが聞こえて、なんだかいやな予感がした。おそるおそる上目遣いで彼を窺うと、言葉どおり、とても楽しそうな顔をしている。
「さあ、そろそろ戻りましょうか。さっきから、坂のうえで高村さんが気を遣って待ってくださっているようですから」
「えっ?」
 ぎょっとして振り返ると、坂のうえで智兄が所在なげなようすで立っていた。
「いつから」
「キスの途中あたりでしょうか」
「まさか若月さん、気付いてて」
「どうでしょうね」
 若月さんって。

 結局その日は二日酔いで寝込んで見送りができなかった祖父から、後日、若月さんのところへ桃の缶詰と地元の日本酒が送られて来たらしい。なかには一筆したためた便箋が同封されていて、ただひとこと
『次は負けん』
と書かれていたという。
 どうやら若月さんの飲みっぷりは、負けず嫌いの祖父の闘争心に火をつけてしまったらしい。
 そして日本酒はあっというまに若月さんの胃に吸収、されることはなく、晩酌にちびりちびりと味わって飲まれている。
 もちろんその傍らで、わたしも飲まされている。
 最近わかったこと。
 若月さんってけっこう意地悪だ。
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