第6話

文字数 3,199文字

 いくら鈍いわたしでも、彼の言葉の意味するところは理解できる。
「すみません。でも、若月さんは、そんなことはなさらないと思います。それに、もし若月さん以外のひとだったら、わたしは」
 そういいかけてはっとする。今わたしはなにを。
「ぼく以外だったら、なんです?」
「あの、いえ」
「ぼく以外の男だったら部屋に入れたりしない、という、ぼくにとっては非常に都合のいい意味にも取れる言葉ですが?」
「……、はい」
「それとも、ぼくを男として意識していない、ということでしょうか」
「そんなことは、」
「それは、期待してもいい、ということですか」
 若月さんの口調はふだんと同じ淡々としたものなのに、なんだかいつもと違うふうに感じられて、わたしは戸惑う。
 もうすでに、まともにものを考えられるような冷静さはなくて。だけど若月さんの気持ちを聞いて、動揺しつつも嬉しいと感じている自分がたしかにいて。
「あの、わたし、ほんとうに、付き合うっていうのがどういうことなのか、わからないんですけど」
「はい」
「それでもいいんでしょうか」
 つかの間、沈黙がおりた。
 やっぱりそんなことではいけないんだ、とおろおろするわたしに彼は聞き返した。
「それは、承諾の言葉と受け取ってもいいのですか」
「………はい」
 若月さんはゆっくりと息を吐くとわたしに尋ねた。
「隣に行ってもいいですか」
「えっ、あ、はい」
 移動してきた若月さんが隣に座る。少し手を伸ばせば触れるほどの距離に彼がいる。
「触ってもいいですか」
「え、」
「いやなら、遠慮せずにそういってください。あなたがいやがることはしません」
「いや、じゃないです」
 彼は息を吐くように笑うとわたしの頬に触れる。
 次の瞬間、わたしは彼の腕のなかにいた。驚いて目を見開く。背中に回された腕に力が入り、身体が密着するほど抱きしめられる。
 苦しくはない、けれど。
「ずっと、こうして触れたいと思っていた。好きです」
 耳許でささやかれて身体がびくんと震える。心臓がドクドクと早鐘を打つ。すぐそばで聞く彼の声はわずかに熱を帯びていて、いつもの彼じゃないような気がする。
「震えていますね。こわい、ですか」
「すこし。いつもの若月さんじゃないみたいで」
「そうですね。少し、暴走しているかもしれません。あのとき、もし自分を好きだというひとが現れたら自分もそのひとを好きになりたい、というあなたの言葉を聞いて、ぼくは身動きが取れなくなりました。それを聞いたあとでぼくが告白したら、あなたの言葉に付け込むみたいだし、かといってなにもしないでいたら、いつほかの男があなたをさらっていくかもわからない。だけど、高村さんにあなたをどう思っているのかと聞かれたときに、ぼくは覚悟を決めました。どうしたってもう、ぼくはあなたが好きなんです。あなたが欲しい。それなら、自分から動かなくてはなにも始まらない。もう、待つのはやめました」
 半年待ちましたからね、とつぶやいて若月さんはわたしの髪に鼻先を埋める。熱い吐息を感じてわたしは痺れたように動けない。
 男の人に抱きしめられるのも甘い言葉をささやかれるのももちろんはじめてで。
 おかしくなりそうだった。
 そんなわたしに彼はさらにとんでもないことをささやいた。
「キスをしてもいいですか」
「!?」
 こうして抱きしめられているだけでもいっぱいいっぱいなのに、これ以上触れられたらほんとうにどうにかなってしまいそうだ。固まったわたしの髪を撫でながら彼は尋ねる。
「いやですか」
 小さく首を振る。いや、じゃない。そうじゃないけれど。
「いやなら抵抗してください。そうでなければ」
 わたしの頭を撫でていた手が頬に触れる。彼が顔を覗き込んでくる。そんな目で見つめられたら抵抗なんてできない。
「三秒間だけ待ちます。それ以上はもう待てません」
 え、と思っているうちに三秒なんてあっというまに過ぎて。
 宣言した通りに若月さんはわたしの唇に触れた。
 軽く触れるだけのキスを何度か繰り返して、最後に彼はわたしの唇をすっと舐めた。びっくりして身を退くと、彼は唇を離した。そのままわたしを抱きしめる。
「すみません。もう少しこのままで」
 なんだか苦しそうな声でそういう彼に、わたしは小さくうなずいて、その胸に額を押し付けた。
「好きです」
 もう何度めかわからないその言葉を彼は惜しみなくささやく。わたしはなにもいえなくて、黙ったまま彼の背中におずおずと両手を回した。すると、わたしを抱きしめる彼の腕に力が入る。
「桜庭さんから触れてくださるのははじめてですね。嬉しいです」
 思わずぱっと手を離しかけると「そのままで」と制される。
 それからしばらくのあいだ、無言で抱き合っていた。そのあいだも、若月さんは熱い吐息や仕草で気持ちを伝えてくる。その熱が伝わってきて、わたしの身体も指の先まで熱くなり、なんだかぼうっとしてくる。
 だけど、沈黙を破った若月さんの言葉に一気に正気づく。
「桜庭さんのお祖父さんにご挨拶に伺わなくてはいけませんね」
「えっ」
「大事な孫娘に悪い虫が付いたのではと心配なさっているのでしょう?」
「あれは、智兄がいっていただけで」
「それだけではないと思いますよ。その高村さんだって、おそらくはぼくの品定めにわざわざいらしたのでしょうから」
「え」
「どうやら幸い、お眼鏡にかなったようですが」
 なんでもないことのように若月さんはいうけれど、もしそれがほんとうなら、彼には失礼な話だ。
「すみません」
「どうして謝るんです?高村さんのおかげで、ぼくはこうしてあなたに触れていられるのだから、感謝しています。それに、お祖父さんにぼくのことを話してくださったと聞いて嬉しかった」
「すみません、勝手に」
「すぐに謝るんですね。もっと甘えてください。ぼくはたぶん、あなたをめちゃくちゃに甘やかしますよ」
 若月さんの口からそんな台詞が飛び出すなんて想像すらしたことがなくて。今日の彼はやっぱりいつもの、わたしが知っている彼とは別人みたいで。
 やさしいのは変わらないんだけど、ドキドキする。
 若月さんだよね、とあたりまえのことを確認するために顔をあげると、わたしを見下ろす瞳とぶつかる。
「そんな顔をされると、これ以上、我慢できなくなります」
 え?と聞き返すわたしにふうっと短く息を吐いて、彼はわたしを抱いていた手を離す。身体を包み込んでいた温もりがなくなり、肌寒さを感じる。名残惜しい、と思った自分に驚く。
「さて、簡単ですが夕食を作ります。よかったら召しあがってください」
「あ、ありがとうございます。お手伝いします」
「いえ。そこにいらしてください。なにか本でも読んでいてくだされば」
「ご迷惑ですか」
「そうではなくて。今あなたが近くにいらしたら、ぼくは自分を抑える自信がない。おわかりですか?」
 わたしはようやく彼の言葉の意味を理解した。
「す、すみません」
「また謝る。次に必要以外でぼくに謝ったらほんとうに襲いますよ」
「えっ」
「ですから、そこでおとなしくしていてください」
「………、はい」
 若月さんって。
 言葉遣いが丁寧だからふだんはあまり意識しないけれど、よくよく聞いてみると、自分の意見をかなりはっきりというひとだ。
 わたしは優柔不断なほうなので、そういうひとに憧れる傾向がある。身近なひとなら小沢さんとか。

 *****

 後日、恋人ができたという報告の手紙を田舎に送ると、数日して祖母から電話があった。
 乱心のあまり祖父が寝込んだという。豪快な性格の祖母は「心配いらんけ、そのひといっぺん連れてきんさい」と楽しそうに笑っていた。

 おじいちゃん、ごめんなさい。
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