甘いのがお好き 第3話
文字数 2,965文字
わたしはぽかんと立ち尽くす。若月さんがわたしに頭をさげて謝罪する必要なんてない。それなのにどうして。
若月さんはぴしっと腰を折ったまま微動だにしない。
「わ、若月さん、あの、頭をあげてください」
「それは、ぼくを許していただける、ということでしょうか」
許すもなにも。とにかくこの状態をどうにかしないと。
「お願いします。顔をあげてください」
懇願すると、ようやく若月さんは頭をあげてくれた。わたしを見て目を瞠る。ひどい顔を見られた、と狼狽するより先に、若月さんの腕に抱えられた鮮やかな色彩に目を奪われる。
いままで屈んでいたので気づかなかったけれど、若月さんは大きな花束を手にしていた。それが差し出される。
「受け取っていただけますか」
その言葉にわたしは目を見開く。
「わたし、に?」
「そうです。お詫びのしるしと、バレンタインの、愛の告白に」
見たこともないような豪華な花束だった。赤とピンクの薔薇を基調にして束ねられていて、おとなの両手でひと抱えもある。
呆然としたまま、反射的に受け取ってしまう。ずっしりとした重みと、鼻先をくすぐる甘い花の香りに、いったん治まったはずの涙がまたあふれてくる。
若月さんが、わたしに。
「うぅ」
「さ、桜庭さん」
珍しく、若月さんがあわてたような声でわたしを呼ぶ。両手で抱えた花束に顔を埋めて、ふたたび決壊した涙腺を止めることもできず、みっともなくしゃくりあげながら若月さんに会ったらいおうと決めていた言葉を口にした。
「ご、ごめんなさ……、すき、です、若月さんがすき」
すぐそばで、若月さんが息を呑む気配がした。
「お願い、きらいにならないで」
抱えた花束ごと抱きしめられる。
「きらいになんて、なるわけがない」
すぐそばで、若月さんが呻くようにいう。彼の背中の向こうで、支えを失ったドアがゆっくりと閉まる音がした。
「だ、だって、わたし、心配かけたから、若月さん、わたしを、き、きらいに」
「違います。そんなふうに思わせてしまったんですね。すみません。そうじゃない。あなたはなにもわるくない」
「でも」
あんまり強く抱きしめられるので、このままでは花束が押しつぶされてしまうことに気づく。
「若月さん、花束がつぶれます」
遠慮がちに訴えると、耳許で若月さんがため息をついた。
「ぼくと花束と、どっちが大事なんですか」
ちょっと拗ねたようなものいいにびっくりして顔をあげる。若月さんは苦笑いを浮かべていた。
「そんな、だって、せっかく若月さんがくださったものだから」
しどろもどろにいいわけをするわたしの濡れた頬を、若月さんがそっと拭う。
「すみません。あなたの腕に抱かれているのがうらやましくて、すこし嫉妬してしまいました」
「え」
本気とも冗談ともつかない若月さんの言葉に、かあっと顔が赤くなるのがわかる。
そんなのは冗談に決まっている。そもそもこの花束を渡してくれたのは若月さん自身なのだし、いくらなんでも花にやきもちを焼くはずがない。
「か、からかわないでください。わたし、ほんとうに、もう」
こんなふうに若月さんと話せなくなるのだと思っていた。よかった。そうならなくて。安心したら、また涙が込みあげてきた。
わたしの頬を撫でながら若月さんが続きをうながす。
「もう、なんです?」
「おしまい、かも、しれないと」
そう答えたとたん、ぐいっと頭を掴まれ仰向かされて、視界が閉ざされる。唇を塞がれたその感触で、若月さんにキスをされているのだと理解する。驚いて硬直していると、触れあった部分からぬるりとした温かいものが滑り込んできた。
「ん……っ」
泣いていたせいで呼吸が乱れてうまく息ができない。すこしでも酸素を取り込もうと口を開くと、その隙をついて若月さんの舌がさらに深く押し入ってくる。搦 めとられて逃げられない。
擦りあわされる舌先から熱が生まれて、みるみるうちに全身を巡っていく。頭が、身体が痺れたようになって身動きができない。力が抜けていく。
手から滑り落ちた花束がコンクリートにぶつかる音がした。かくんと膝が折れてその場にへたりこみそうになるのを若月さんが支えてくれる。そのままきつく抱きしめられる。
唇が離れた。涙で滲んだ視界にぼんやりと若月さんの顔が映る。
「これだけは覚えていてください。ぼくがあなたをきらいになることはぜったいにありえません。ぼくが自分の意思であなたから離れることはぜったいにない。約束します」
わたしは全身で息をしながら若月さんの声を聞いていた。
「愛しています。たぶんあなたが想像しているよりもずっと遥かに。あなたを泣かせたくない、不安にさせたくない。そう思うのに、好きすぎて、あなたを愛するあまり、ぼくはどんどん臆病になる。大事にしたい。笑っていてほしい。守りたい。失いたくない。ぼくはもう二度と、大事なひとを失いたくない」
ぎゅっと深く胸に抱き込まれる。どくんどくんと脈打つ、若月さんの鼓動を感じる。
――――もう二度と。
あまりに切実なその声音に胸を衝かれる。わたしを掻き抱く腕にさらに力が込められる。
若月さんは、過去に大事なだれかを失ったことがあるのだとわかった。彼には身寄りがない。失ったのは家族かもしれないし、もしかすると、恋人、だったのかもしれない。
そう考えて、心臓が震える。
若月さんの、恋人。
わたしとは違って、若月さんにはお付き合いしていた女性のひとりやふたり、いてもおかしくない。いないわけがない。あたりまえのことなのに、なんだか胸のあたりがざわつく。もやもやする。こんなの不謹慎だ。
若月さんの腕のなかでふるふると頭を振って、得体の知れないよこしまな感情を振り払う。
そんなわたしに若月さんがささやきかける。
「あなたのことになるとぼくは冷静でいられなくなる。余裕がなくて、格好わるいところばかり見せてしまう。情けない。あなたに幻滅されて、あなたが離れていってしまうことが怖い」
「え」
若月さんの言葉にびっくりして顔をあげる。若月さんはわたしの頭を抱え込むようにして、耳許に唇を寄せる。
「あのとき、ぼくはみっともなく狼狽したうえ、あなたの無事な姿を見たとたん、あなたが欲しくて欲しくてたまらなくなった。本能的な衝動に駆られて、思うさまあなたを抱きたくなった。そして思わずそれを口走ってしまった」
なにをいわれているのか、すぐにはわからなかった。
あのとき、というのは、小沢さんと買い物に出かけたあの日の夜のことだろう。そう考えて、思い至る。
『獣のように抱いてしまう。あなたをめちゃくちゃにしてしまう』
あのときは若月さんの剣幕に驚いて、その言葉の意味を考える余裕なんてなかったけれど、たしかにそう、若月さんはいっていた。
あらためて思い出してみるとものすごい台詞だ。いまさらながら赤面してしまう。
「そういう行為に対して、あなたがいまもまだすこし恐怖心を抱いていることは知っています。だから、クリスマスのときはほんとうに嬉しかった。あなたがどれほどの勇気をふり絞ってぼくにプレゼントをしてくださったのか。それが容易でないことはわかっているつもりです。それなのに、そんなあなたに生々しい欲望をさらけ出してしまった。あのとき、ぼくは本気であなたを襲ってしまうところだった」
若月さんはぴしっと腰を折ったまま微動だにしない。
「わ、若月さん、あの、頭をあげてください」
「それは、ぼくを許していただける、ということでしょうか」
許すもなにも。とにかくこの状態をどうにかしないと。
「お願いします。顔をあげてください」
懇願すると、ようやく若月さんは頭をあげてくれた。わたしを見て目を瞠る。ひどい顔を見られた、と狼狽するより先に、若月さんの腕に抱えられた鮮やかな色彩に目を奪われる。
いままで屈んでいたので気づかなかったけれど、若月さんは大きな花束を手にしていた。それが差し出される。
「受け取っていただけますか」
その言葉にわたしは目を見開く。
「わたし、に?」
「そうです。お詫びのしるしと、バレンタインの、愛の告白に」
見たこともないような豪華な花束だった。赤とピンクの薔薇を基調にして束ねられていて、おとなの両手でひと抱えもある。
呆然としたまま、反射的に受け取ってしまう。ずっしりとした重みと、鼻先をくすぐる甘い花の香りに、いったん治まったはずの涙がまたあふれてくる。
若月さんが、わたしに。
「うぅ」
「さ、桜庭さん」
珍しく、若月さんがあわてたような声でわたしを呼ぶ。両手で抱えた花束に顔を埋めて、ふたたび決壊した涙腺を止めることもできず、みっともなくしゃくりあげながら若月さんに会ったらいおうと決めていた言葉を口にした。
「ご、ごめんなさ……、すき、です、若月さんがすき」
すぐそばで、若月さんが息を呑む気配がした。
「お願い、きらいにならないで」
抱えた花束ごと抱きしめられる。
「きらいになんて、なるわけがない」
すぐそばで、若月さんが呻くようにいう。彼の背中の向こうで、支えを失ったドアがゆっくりと閉まる音がした。
「だ、だって、わたし、心配かけたから、若月さん、わたしを、き、きらいに」
「違います。そんなふうに思わせてしまったんですね。すみません。そうじゃない。あなたはなにもわるくない」
「でも」
あんまり強く抱きしめられるので、このままでは花束が押しつぶされてしまうことに気づく。
「若月さん、花束がつぶれます」
遠慮がちに訴えると、耳許で若月さんがため息をついた。
「ぼくと花束と、どっちが大事なんですか」
ちょっと拗ねたようなものいいにびっくりして顔をあげる。若月さんは苦笑いを浮かべていた。
「そんな、だって、せっかく若月さんがくださったものだから」
しどろもどろにいいわけをするわたしの濡れた頬を、若月さんがそっと拭う。
「すみません。あなたの腕に抱かれているのがうらやましくて、すこし嫉妬してしまいました」
「え」
本気とも冗談ともつかない若月さんの言葉に、かあっと顔が赤くなるのがわかる。
そんなのは冗談に決まっている。そもそもこの花束を渡してくれたのは若月さん自身なのだし、いくらなんでも花にやきもちを焼くはずがない。
「か、からかわないでください。わたし、ほんとうに、もう」
こんなふうに若月さんと話せなくなるのだと思っていた。よかった。そうならなくて。安心したら、また涙が込みあげてきた。
わたしの頬を撫でながら若月さんが続きをうながす。
「もう、なんです?」
「おしまい、かも、しれないと」
そう答えたとたん、ぐいっと頭を掴まれ仰向かされて、視界が閉ざされる。唇を塞がれたその感触で、若月さんにキスをされているのだと理解する。驚いて硬直していると、触れあった部分からぬるりとした温かいものが滑り込んできた。
「ん……っ」
泣いていたせいで呼吸が乱れてうまく息ができない。すこしでも酸素を取り込もうと口を開くと、その隙をついて若月さんの舌がさらに深く押し入ってくる。
擦りあわされる舌先から熱が生まれて、みるみるうちに全身を巡っていく。頭が、身体が痺れたようになって身動きができない。力が抜けていく。
手から滑り落ちた花束がコンクリートにぶつかる音がした。かくんと膝が折れてその場にへたりこみそうになるのを若月さんが支えてくれる。そのままきつく抱きしめられる。
唇が離れた。涙で滲んだ視界にぼんやりと若月さんの顔が映る。
「これだけは覚えていてください。ぼくがあなたをきらいになることはぜったいにありえません。ぼくが自分の意思であなたから離れることはぜったいにない。約束します」
わたしは全身で息をしながら若月さんの声を聞いていた。
「愛しています。たぶんあなたが想像しているよりもずっと遥かに。あなたを泣かせたくない、不安にさせたくない。そう思うのに、好きすぎて、あなたを愛するあまり、ぼくはどんどん臆病になる。大事にしたい。笑っていてほしい。守りたい。失いたくない。ぼくはもう二度と、大事なひとを失いたくない」
ぎゅっと深く胸に抱き込まれる。どくんどくんと脈打つ、若月さんの鼓動を感じる。
――――もう二度と。
あまりに切実なその声音に胸を衝かれる。わたしを掻き抱く腕にさらに力が込められる。
若月さんは、過去に大事なだれかを失ったことがあるのだとわかった。彼には身寄りがない。失ったのは家族かもしれないし、もしかすると、恋人、だったのかもしれない。
そう考えて、心臓が震える。
若月さんの、恋人。
わたしとは違って、若月さんにはお付き合いしていた女性のひとりやふたり、いてもおかしくない。いないわけがない。あたりまえのことなのに、なんだか胸のあたりがざわつく。もやもやする。こんなの不謹慎だ。
若月さんの腕のなかでふるふると頭を振って、得体の知れないよこしまな感情を振り払う。
そんなわたしに若月さんがささやきかける。
「あなたのことになるとぼくは冷静でいられなくなる。余裕がなくて、格好わるいところばかり見せてしまう。情けない。あなたに幻滅されて、あなたが離れていってしまうことが怖い」
「え」
若月さんの言葉にびっくりして顔をあげる。若月さんはわたしの頭を抱え込むようにして、耳許に唇を寄せる。
「あのとき、ぼくはみっともなく狼狽したうえ、あなたの無事な姿を見たとたん、あなたが欲しくて欲しくてたまらなくなった。本能的な衝動に駆られて、思うさまあなたを抱きたくなった。そして思わずそれを口走ってしまった」
なにをいわれているのか、すぐにはわからなかった。
あのとき、というのは、小沢さんと買い物に出かけたあの日の夜のことだろう。そう考えて、思い至る。
『獣のように抱いてしまう。あなたをめちゃくちゃにしてしまう』
あのときは若月さんの剣幕に驚いて、その言葉の意味を考える余裕なんてなかったけれど、たしかにそう、若月さんはいっていた。
あらためて思い出してみるとものすごい台詞だ。いまさらながら赤面してしまう。
「そういう行為に対して、あなたがいまもまだすこし恐怖心を抱いていることは知っています。だから、クリスマスのときはほんとうに嬉しかった。あなたがどれほどの勇気をふり絞ってぼくにプレゼントをしてくださったのか。それが容易でないことはわかっているつもりです。それなのに、そんなあなたに生々しい欲望をさらけ出してしまった。あのとき、ぼくは本気であなたを襲ってしまうところだった」