恋におちて 第2話
文字数 2,159文字
桃はとまどったように身じろぎをしながらも、抵抗はせず、おとなしく彼の胸に身をゆだねている。病人相手になにをしている、と理性が警告を発するが、この温もりを離したくないという感情がそれをあっさりと振り払う。
桃の顎を掴み、その唇に口づける。触れるだけのキスを繰り返すうちに、彼女の身体から力が抜けてくる。
こうしてキスをするたび、最初は緊張して身体を強張らせる彼女が、しだいにとろけるように身をもたれかけてくる。それがたまらなく愛おしい。
唇を離すと、桃は耳まで赤くなった顔を伏せてつぶやく。
「風邪が、うつります」
「うつしてください。ひとにうつすと早く治るらしいですよ」
「そんな」
「悪さをするなといわれたのに、我慢できませんでした」
「え?」
「小沢さんに叱られますね」
若月の言葉を理解したらしく、桃は困ったようにうつむいた。その頭を撫でて、名残惜しいけれど彼女を布団に寝かせる。
「邪魔をしてすみませんでした。ゆっくり休んでください。なにか欲しいものがありますか」
肩まで布団をかけてそう尋ねると、桃はちいさくかぶりを振る。だが、なにかいいたそうな目をして彼を見あげてくる。
「どうしました?」
「いえ、あの」
「遠慮はいりません。なんでもおっしゃってください」
「……もうすこし」
「はい?」
「あの、もうすこしだけ、ここにいてください」
最後は消え入りそうな声でそういうと、彼女は布団のなかにもぐりこむ。
ふいを突かれて若月はすぐに反応ができなかった。
「ほんとうに、あなたというひとは」
「すみません。あの、気にしないでください」
「どうして謝るんです。あなたはいつもそうやって、ぼくの理性をあっさり吹き飛ばすんですね。どうしてくれるんです?」
「え」
「そばにいます。いくらでも。だからもっと甘えてください」
「あ、ありがとうございます」
桃の額を撫でながらささやくと、彼女はほっとしたように息をついて目を閉じる。すこし苦しげな浅い息遣いでさえも愛おしい。
クレイジーだ、と彼は思う。
まったくいかれている。
どうしてこれほどまでに桃が愛しくてたまらないのだろう。自分のなかにこんな感情があったなんて知らなかったし、こんなふうにひとを愛せるなんて思わなかった。ひとに甘えたり甘えられることが、これほど甘美なものだとは夢にも思わなかった。
失いたくない。彼女が自分のもとから離れていくなんて、想像するのも耐えがたい。自分だけを見て、自分だけを愛してほしい。ほかのだれにも渡したくないし、ほんとうは、彼女の兄代わりである高村にさえ、ときどき嫉妬することがある。
先日、職場で、同僚の男性が桃を食事に誘っている場面に出くわした。
若月はちょうど階段をあがってきたところで、桃と相手の男は彼に気付いていなかった。桃はそのアプローチに驚いたらしく、しどろもどろに断ろうとしていたが、相手に強引に押されてひどく狼狽していた。
盗み聞きなんて最低な真似だ。
ふたりのあいだに割って入ろうとしたとき、第三者の声が聞こえた。
「桜庭さんは彼氏がいるんだから困らせちゃダメよ」
小沢だった。
結局、彼女によってその場は収拾され、若月はなんともいいがたい複雑な気持ちになった。そして、目敏い小沢は若月の存在にも気づいていたらしく、ふたりが去ったあと、彼のもとへとやって来た。
「あんたも苦労するわねえ」
すべてを見透かされたようでいたたまれない気分になり、若月はため息をついた。小沢はおかしそうに笑った。
「若月と付き合いはじめて、彼女、どんどんきれいになってきたもの。ほかの男が寄ってくるのも無理はないわ」
そうなのだ。それが若月の心配の種だった。ふつうならば喜ばしいことだが、そうもいっていられない。
「桜庭さん自身にその自覚がないのがまた厄介よね」
「それが彼女ですから」
「あらやだ、あんたでものろけたりするのね」
笑いごとではない。自分でも仏頂面になっているのがわかったが、いまさら取り繕う気もなかった。
「社内の男どもは蹴散らしてあげるわ。でも、あんたもしっかり彼女を守りなさいよ」
複雑な心境だが、小沢の言葉はありがたかった。それに、桃は彼女を慕っている。小沢に任せておけば間違いはない。
若月は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません。よろしくお願いします」
「任せて。あんたには桜庭さんみたいな子がぴったりよ。結婚式には呼んでね。スピーチしてあげるから」
それだけは御免蒙 りたいところだが、若月は渋々うなずいた。
小沢のようなタイプは嫌いではないが、苦手だった。自分と似ているからだ。他人を観察する能力に長けている。どうにもやりづらい。
若月がそう思っていることも彼女には筒抜けだろうが。
そういった背景があって、若月の心中は穏やかとはいいがたい。なにかを得ることは、いつそれを失うかという恐れをつねに抱くことだと彼は知った。そんな醜い自分を桃には知られたくない。彼女はきっと失望するだろう。
若月は決してやさしい人間ではない。それは自分がいちばんよくわかっている。
それでも、彼女を愛している。
そんな自分を彼女も愛してくれる。
この奇跡を失いたくない。
静かに寝息を立てはじめた桃のうえに身を屈め、唇を重ねる。
「愛しています」
懺悔 のように、そうささやいた。
桃の顎を掴み、その唇に口づける。触れるだけのキスを繰り返すうちに、彼女の身体から力が抜けてくる。
こうしてキスをするたび、最初は緊張して身体を強張らせる彼女が、しだいにとろけるように身をもたれかけてくる。それがたまらなく愛おしい。
唇を離すと、桃は耳まで赤くなった顔を伏せてつぶやく。
「風邪が、うつります」
「うつしてください。ひとにうつすと早く治るらしいですよ」
「そんな」
「悪さをするなといわれたのに、我慢できませんでした」
「え?」
「小沢さんに叱られますね」
若月の言葉を理解したらしく、桃は困ったようにうつむいた。その頭を撫でて、名残惜しいけれど彼女を布団に寝かせる。
「邪魔をしてすみませんでした。ゆっくり休んでください。なにか欲しいものがありますか」
肩まで布団をかけてそう尋ねると、桃はちいさくかぶりを振る。だが、なにかいいたそうな目をして彼を見あげてくる。
「どうしました?」
「いえ、あの」
「遠慮はいりません。なんでもおっしゃってください」
「……もうすこし」
「はい?」
「あの、もうすこしだけ、ここにいてください」
最後は消え入りそうな声でそういうと、彼女は布団のなかにもぐりこむ。
ふいを突かれて若月はすぐに反応ができなかった。
「ほんとうに、あなたというひとは」
「すみません。あの、気にしないでください」
「どうして謝るんです。あなたはいつもそうやって、ぼくの理性をあっさり吹き飛ばすんですね。どうしてくれるんです?」
「え」
「そばにいます。いくらでも。だからもっと甘えてください」
「あ、ありがとうございます」
桃の額を撫でながらささやくと、彼女はほっとしたように息をついて目を閉じる。すこし苦しげな浅い息遣いでさえも愛おしい。
クレイジーだ、と彼は思う。
まったくいかれている。
どうしてこれほどまでに桃が愛しくてたまらないのだろう。自分のなかにこんな感情があったなんて知らなかったし、こんなふうにひとを愛せるなんて思わなかった。ひとに甘えたり甘えられることが、これほど甘美なものだとは夢にも思わなかった。
失いたくない。彼女が自分のもとから離れていくなんて、想像するのも耐えがたい。自分だけを見て、自分だけを愛してほしい。ほかのだれにも渡したくないし、ほんとうは、彼女の兄代わりである高村にさえ、ときどき嫉妬することがある。
先日、職場で、同僚の男性が桃を食事に誘っている場面に出くわした。
若月はちょうど階段をあがってきたところで、桃と相手の男は彼に気付いていなかった。桃はそのアプローチに驚いたらしく、しどろもどろに断ろうとしていたが、相手に強引に押されてひどく狼狽していた。
盗み聞きなんて最低な真似だ。
ふたりのあいだに割って入ろうとしたとき、第三者の声が聞こえた。
「桜庭さんは彼氏がいるんだから困らせちゃダメよ」
小沢だった。
結局、彼女によってその場は収拾され、若月はなんともいいがたい複雑な気持ちになった。そして、目敏い小沢は若月の存在にも気づいていたらしく、ふたりが去ったあと、彼のもとへとやって来た。
「あんたも苦労するわねえ」
すべてを見透かされたようでいたたまれない気分になり、若月はため息をついた。小沢はおかしそうに笑った。
「若月と付き合いはじめて、彼女、どんどんきれいになってきたもの。ほかの男が寄ってくるのも無理はないわ」
そうなのだ。それが若月の心配の種だった。ふつうならば喜ばしいことだが、そうもいっていられない。
「桜庭さん自身にその自覚がないのがまた厄介よね」
「それが彼女ですから」
「あらやだ、あんたでものろけたりするのね」
笑いごとではない。自分でも仏頂面になっているのがわかったが、いまさら取り繕う気もなかった。
「社内の男どもは蹴散らしてあげるわ。でも、あんたもしっかり彼女を守りなさいよ」
複雑な心境だが、小沢の言葉はありがたかった。それに、桃は彼女を慕っている。小沢に任せておけば間違いはない。
若月は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません。よろしくお願いします」
「任せて。あんたには桜庭さんみたいな子がぴったりよ。結婚式には呼んでね。スピーチしてあげるから」
それだけは
小沢のようなタイプは嫌いではないが、苦手だった。自分と似ているからだ。他人を観察する能力に長けている。どうにもやりづらい。
若月がそう思っていることも彼女には筒抜けだろうが。
そういった背景があって、若月の心中は穏やかとはいいがたい。なにかを得ることは、いつそれを失うかという恐れをつねに抱くことだと彼は知った。そんな醜い自分を桃には知られたくない。彼女はきっと失望するだろう。
若月は決してやさしい人間ではない。それは自分がいちばんよくわかっている。
それでも、彼女を愛している。
そんな自分を彼女も愛してくれる。
この奇跡を失いたくない。
静かに寝息を立てはじめた桃のうえに身を屈め、唇を重ねる。
「愛しています」