第4話
文字数 3,108文字
「えっ」
いきなり矛先が自分に向けられてあわてる。
「い、いません、そんな」
「あら、じゃあ好きなひとは?」
「いません。というか、そういうの、よくわからなくて」
「わからない?なにが?」
「好き、とか、付き合うとか」
小沢さんは驚いたように目を瞠る。
「もしかして、今まで男のひとと付き合ったこと、ない?」
「………、はい」
わたしは耳まで真っ赤になる。自分では見えないけれど、顔じゅうが熱いのでわかる。
小沢さんは目を大きくしたまま、まじまじとわたしを見つめる。
「やっぱりへんですよね。この歳まで、そういう経験したことがないのって」
「へんじゃないわよ。ただ、びっくりしただけ。意外だったから。桜庭さんみたいな素直な子、男が放っておかないと思うのに」
「えっ」
「ほら、そういう反応とか。女のあたしから見てもかわいいと思うもの。男のひと、苦手?」
「少し」
「このひといいなあとか、感じたこともない?」
「あ、それはあります。でも、なんていうか、そのひとを見ているだけで満足なんです。笑ったり、楽しそうにしている姿を見ているだけで、わたしも幸せな気分になれて。だから、付き合うとかそういうの、想像もできなくて」
「自分を見てほしいとか、そういうふうには思わない?」
「わかりません。もしそんなことになったら、どうしていいかわからなくておかしくなりそうです。すみません。へんなこといって」
「謝ることないわよ。へんでもない。なんだかあたし、ひさしぶりにキュンとしたわ。ねえ、もし、あなたを好きだというひとが現れたら、そのときはどうするの?付き合ってほしいっていわれたら」
「え」
「断るの?」
そう問い掛ける小沢さんの目はなんだか妙に真剣で、その場しのぎのいいかげんな答えはしてはいけない気がした。
わたしを好きだといってくれるひとが現れたら。
考え込むわたしを小沢さんは辛抱強く待ってくれている。
口を開こうとしたとき。
コンコン、と音がして声をかけられた。
「お取り込みのところすみません。お茶をいただけますか」
入口に若月さんが立っていた。
「あらやだ。盗み聞きなんて、いい趣味ね」
あまり驚いたようすもなく小沢さんがいう。
「人聞きの悪いことをいわないでください。声をかけそびれて待っていただけです」
しれっとした顔で答える若月さんを見て、わたしはますます赤くなる。今の会話を聞かれていたかもしれないなんて。
「じゃあ、ほかのひとにはあたしが持って行くから、桜庭さんは若月にお茶いれてあげて」
小沢さんはそういってお盆を手に部屋を出て行く。この状況で彼とふたりきりになるのは少し気まずい。わたしはとりあえずお茶をいれようと湯呑みに手を伸ばす。が、手が滑って湯呑みを手放してしまう。
「あっ」
割れる、と思った。けれど、器が割れる音はしなくて。とっさに閉じた目をおそるおそる開けてみると、若月さんが湯呑みを受け止めていた。
「す、すみません」
「いえ」
その湯呑みに彼は自分でお茶をいれる。
「立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「はい」
「そんな顔をされると困ります。ぼくが泣かせているみたいだ」
「すみません。あの、どこから聞いていらっしゃったんですか」
「男と付き合ったことがない、のあたりからです」
ほとんど全部だ。ほんとうに泣きそうになる。
「勝手にひとの話を聞いておきながら、さらに図々しいことを伺いますが」
「はい?」
「小沢さんの最後の質問、あの答えを教えていただけませんか」
そう尋ねる若月さんは、からかったり興味本位というふうではなく。
わたしはうつむいたまま、小沢さんに伝えようとした答えを彼に告げた。
「もしほんとうに、わたしを好きだといってくれるひとがいたら、わたしもそのひとを好きになりたいです。付き合うとか、そういうのはよくわからないけれど、わたしを好きだといってくれる気持ちは嬉しいと思うし、少しでも、その気持ちに応えたい、です」
若月さんはしばらく黙っていた。わたしは目を伏せて、すぐ近くにある彼の靴を眺めた。
彼が尋ねた。
「それは、相手がだれでも?」
「えっと、はい、たぶん」
「そう。たとえばぼくでも?」
「え」
思わず顔をあげると、若月さんの眼差しとぶつかる。わたしは息を呑んだ。彼の瞳には、今まで見たことのない苛立ちのようなものが覗いていた。
「若月さん?」
彼の手がわたしの頬に触れる。
その瞬間、電流が走ったように身体が震えた。すぐに手が離れて、若月さんはわたしに背を向ける。
「失礼しました」
そういって部屋を出て行く。
わたしはずるずるとその場にへたりこんだ。
その翌朝から、若月さんはほんとうに電車のなかでわたしを待っていてくれた。
だけど、以前のように必要最低限の言葉しか話すことはなく、わたしの目を見て笑いかけてくれることはなくなった。
むしろ、視線が合わないように避けられている気がする。なにか、彼の気に障ることをしてしまったのだ。そう思うのだけれど、いったい自分のどんな言動が彼を不快にさせてしまったのかがわからない。若月さん本人に聞くこともできず、わたしはひとりで悶々としていた。
そんなある日。
お昼休みに、来客があると呼び出されて、訪ねてくるような心当たりのないわたしは首を傾げた。驚いたことに、若月さんも一緒に呼ばれたらしい。
わたしと彼は目を見合わせて困惑した。
ロビーへおりて行くと、見知った人物を見付けてわたしは声をあげた。
「智兄!?」
日に焼けたたくましい身体を見慣れないスーツ姿に包んだ智兄は、わたしに気付くと満面の笑みを浮かべて近付いてきた。
「おー、ひさしぶりじゃのう。元気にしとったか」
小さなころからよく面倒を見てくれた近所のお兄さんだ。歳の離れた妹みたいにかわいがってもらったけれど、彼はわたしがまだ田舎で学校に通っていたころに都会へ出て就職した。
「智兄、どうしたん?東京に行っとったんじゃなかったん?」
同郷の相手に会って思わず土地の言葉が飛び出した。そんなわたしの頭をくしゃくしゃに撫でながら智兄は顔を覗き込んでくる。
「まあの。ほれ、顔見してみい。ようべっぴんさんになってから。あんなにチビやったのになあ」
そういって智兄は笑う。そして、わたしのうしろに立ったままの若月さんを見て姿勢を正した。
「お初にお目にかかります。桃の兄貴代わりの高村智といいます。いつもこいつがお世話になりまして」
「ご丁寧に恐れ入ります。若月昴と申します」
目のまえで名刺の交換をするふたりをわたしは呆然と眺めていた。智兄は持っていた紙袋を若月さんへ差し出す。
「これ、つまらんもんですが、田舎の土産と、あと、桃の缶詰がえらいお好きやと伺ったんで、よかったら一緒に召しあがってください」
若月さんは驚いた顔でわたしを見る。わたしもびっくりして智兄に尋ねた。
「えっ、なんで智兄がそんなこと知っとるん?」
「そりゃあ、おまえ、祖父さんに手紙を送ったろうが。おまえの手紙にはじめて男の名前が出てきたうえ、えらい嬉しそうに書いてあったもんじゃけえ、祖父さんが泡食ってのう。桃に男ができたんじゃないかって大騒ぎじゃ」
智兄の説明にわたしは真っ赤になる。たしかに、野菜と桃の缶詰のお礼を書いて手紙を送ったし、若月さんのことも少し書いたけれど、まさかそんなことになっているとは。
こわくて若月さんの顔が見られない。彼はきっとまた不快に思ったに違いない。
いきなり矛先が自分に向けられてあわてる。
「い、いません、そんな」
「あら、じゃあ好きなひとは?」
「いません。というか、そういうの、よくわからなくて」
「わからない?なにが?」
「好き、とか、付き合うとか」
小沢さんは驚いたように目を瞠る。
「もしかして、今まで男のひとと付き合ったこと、ない?」
「………、はい」
わたしは耳まで真っ赤になる。自分では見えないけれど、顔じゅうが熱いのでわかる。
小沢さんは目を大きくしたまま、まじまじとわたしを見つめる。
「やっぱりへんですよね。この歳まで、そういう経験したことがないのって」
「へんじゃないわよ。ただ、びっくりしただけ。意外だったから。桜庭さんみたいな素直な子、男が放っておかないと思うのに」
「えっ」
「ほら、そういう反応とか。女のあたしから見てもかわいいと思うもの。男のひと、苦手?」
「少し」
「このひといいなあとか、感じたこともない?」
「あ、それはあります。でも、なんていうか、そのひとを見ているだけで満足なんです。笑ったり、楽しそうにしている姿を見ているだけで、わたしも幸せな気分になれて。だから、付き合うとかそういうの、想像もできなくて」
「自分を見てほしいとか、そういうふうには思わない?」
「わかりません。もしそんなことになったら、どうしていいかわからなくておかしくなりそうです。すみません。へんなこといって」
「謝ることないわよ。へんでもない。なんだかあたし、ひさしぶりにキュンとしたわ。ねえ、もし、あなたを好きだというひとが現れたら、そのときはどうするの?付き合ってほしいっていわれたら」
「え」
「断るの?」
そう問い掛ける小沢さんの目はなんだか妙に真剣で、その場しのぎのいいかげんな答えはしてはいけない気がした。
わたしを好きだといってくれるひとが現れたら。
考え込むわたしを小沢さんは辛抱強く待ってくれている。
口を開こうとしたとき。
コンコン、と音がして声をかけられた。
「お取り込みのところすみません。お茶をいただけますか」
入口に若月さんが立っていた。
「あらやだ。盗み聞きなんて、いい趣味ね」
あまり驚いたようすもなく小沢さんがいう。
「人聞きの悪いことをいわないでください。声をかけそびれて待っていただけです」
しれっとした顔で答える若月さんを見て、わたしはますます赤くなる。今の会話を聞かれていたかもしれないなんて。
「じゃあ、ほかのひとにはあたしが持って行くから、桜庭さんは若月にお茶いれてあげて」
小沢さんはそういってお盆を手に部屋を出て行く。この状況で彼とふたりきりになるのは少し気まずい。わたしはとりあえずお茶をいれようと湯呑みに手を伸ばす。が、手が滑って湯呑みを手放してしまう。
「あっ」
割れる、と思った。けれど、器が割れる音はしなくて。とっさに閉じた目をおそるおそる開けてみると、若月さんが湯呑みを受け止めていた。
「す、すみません」
「いえ」
その湯呑みに彼は自分でお茶をいれる。
「立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「はい」
「そんな顔をされると困ります。ぼくが泣かせているみたいだ」
「すみません。あの、どこから聞いていらっしゃったんですか」
「男と付き合ったことがない、のあたりからです」
ほとんど全部だ。ほんとうに泣きそうになる。
「勝手にひとの話を聞いておきながら、さらに図々しいことを伺いますが」
「はい?」
「小沢さんの最後の質問、あの答えを教えていただけませんか」
そう尋ねる若月さんは、からかったり興味本位というふうではなく。
わたしはうつむいたまま、小沢さんに伝えようとした答えを彼に告げた。
「もしほんとうに、わたしを好きだといってくれるひとがいたら、わたしもそのひとを好きになりたいです。付き合うとか、そういうのはよくわからないけれど、わたしを好きだといってくれる気持ちは嬉しいと思うし、少しでも、その気持ちに応えたい、です」
若月さんはしばらく黙っていた。わたしは目を伏せて、すぐ近くにある彼の靴を眺めた。
彼が尋ねた。
「それは、相手がだれでも?」
「えっと、はい、たぶん」
「そう。たとえばぼくでも?」
「え」
思わず顔をあげると、若月さんの眼差しとぶつかる。わたしは息を呑んだ。彼の瞳には、今まで見たことのない苛立ちのようなものが覗いていた。
「若月さん?」
彼の手がわたしの頬に触れる。
その瞬間、電流が走ったように身体が震えた。すぐに手が離れて、若月さんはわたしに背を向ける。
「失礼しました」
そういって部屋を出て行く。
わたしはずるずるとその場にへたりこんだ。
その翌朝から、若月さんはほんとうに電車のなかでわたしを待っていてくれた。
だけど、以前のように必要最低限の言葉しか話すことはなく、わたしの目を見て笑いかけてくれることはなくなった。
むしろ、視線が合わないように避けられている気がする。なにか、彼の気に障ることをしてしまったのだ。そう思うのだけれど、いったい自分のどんな言動が彼を不快にさせてしまったのかがわからない。若月さん本人に聞くこともできず、わたしはひとりで悶々としていた。
そんなある日。
お昼休みに、来客があると呼び出されて、訪ねてくるような心当たりのないわたしは首を傾げた。驚いたことに、若月さんも一緒に呼ばれたらしい。
わたしと彼は目を見合わせて困惑した。
ロビーへおりて行くと、見知った人物を見付けてわたしは声をあげた。
「智兄!?」
日に焼けたたくましい身体を見慣れないスーツ姿に包んだ智兄は、わたしに気付くと満面の笑みを浮かべて近付いてきた。
「おー、ひさしぶりじゃのう。元気にしとったか」
小さなころからよく面倒を見てくれた近所のお兄さんだ。歳の離れた妹みたいにかわいがってもらったけれど、彼はわたしがまだ田舎で学校に通っていたころに都会へ出て就職した。
「智兄、どうしたん?東京に行っとったんじゃなかったん?」
同郷の相手に会って思わず土地の言葉が飛び出した。そんなわたしの頭をくしゃくしゃに撫でながら智兄は顔を覗き込んでくる。
「まあの。ほれ、顔見してみい。ようべっぴんさんになってから。あんなにチビやったのになあ」
そういって智兄は笑う。そして、わたしのうしろに立ったままの若月さんを見て姿勢を正した。
「お初にお目にかかります。桃の兄貴代わりの高村智といいます。いつもこいつがお世話になりまして」
「ご丁寧に恐れ入ります。若月昴と申します」
目のまえで名刺の交換をするふたりをわたしは呆然と眺めていた。智兄は持っていた紙袋を若月さんへ差し出す。
「これ、つまらんもんですが、田舎の土産と、あと、桃の缶詰がえらいお好きやと伺ったんで、よかったら一緒に召しあがってください」
若月さんは驚いた顔でわたしを見る。わたしもびっくりして智兄に尋ねた。
「えっ、なんで智兄がそんなこと知っとるん?」
「そりゃあ、おまえ、祖父さんに手紙を送ったろうが。おまえの手紙にはじめて男の名前が出てきたうえ、えらい嬉しそうに書いてあったもんじゃけえ、祖父さんが泡食ってのう。桃に男ができたんじゃないかって大騒ぎじゃ」
智兄の説明にわたしは真っ赤になる。たしかに、野菜と桃の缶詰のお礼を書いて手紙を送ったし、若月さんのことも少し書いたけれど、まさかそんなことになっているとは。
こわくて若月さんの顔が見られない。彼はきっとまた不快に思ったに違いない。