甘いのがお好き? 第1話

文字数 2,776文字

 甘いものは嫌いじゃない。
 ましてや恋人が――桃が、自分のためにわざわざ手作りしてくれたものならば。それを思うだけで、若月は頬が緩むのを止められなかった。

 チョコレートの甘い匂いが漂う部屋で。

 玄関先から移動したあと、花束を抱えておろおろする桃を背後から抱きしめる。とたんに、腕のなかで身体を強張らせる彼女の耳許に若月はささやいた。
「あなたが欲しい。いますぐに」
 びくんと震える桃の耳朶が、みるみるうちに赤く染まる。うつむいた頬も同じように赤い。彼女の腕に抱えられた薔薇の花のように。
「よ、用意、してきます」
 か細い声でつぶやくと、桃はうつむいたまま、ぎこちない足取りで奥へと向かう。
「なにかお手伝いできることがありますか」
 若月がそう尋ねると、立ち止まり、ふるふるとかぶりを振る。
「だ、大丈夫、です」
 ぎくしゃくとした動きで寝室へ向かう後ろ姿を見守る。
たとえわずかなあいだでさえ桃を離したくはなかったが、恋人といえども、女性の寝室に無遠慮に踏み込むような真似はできない。
 若月はおとなしく待つことにした。

 こうして桃の部屋にあがるのは、ずいぶんひさしぶりのことだった。彼女が風邪を引いて、その見舞いに訪れたとき以来だ。
 いつも、アパートの前まで桃を送るのが日課だが、ドアの内側に足を踏み入れることはほとんどない。「よかったらお茶でも」と誘われるたび、丁重に断り、後ろ髪を引かれる思いで帰途につく。
 他人の目が届かない場所でふたりきりになって、理性を保つ自信がなかった。許されるなら、毎日でも桃に触れたい。その柔らかな髪に口づけて、可愛らしい唇をついばみ、華奢な身体を抱きしめて、そして。
「――――、」
 意識的に息を吐いて熱を逃がす。
 まったくどうかしていると思う。桃がそばにいるだけで、若月の意識はすべて彼女に引き寄せられてしまう。引力のように、抗えないほどの力で。
 傍らで、無邪気に笑う桃を見つめながら、若月がいつもなにを思っているのか。それを知ったら彼女は目を見開いて、怯えた顔をするに違いない。

 恋情と呼ぶにはあまりに生々しく、欲情という言葉ではとても足りない。これが愛だというのなら、この愛は桃をおびやかす危険性を孕んでいる。彼女の心を、身体を、求める気持ちが大きすぎて、ときに制御しきれなくなる。
 あの夜のように。

 すっと、寝室を隔てる襖が開いて桃が姿を見せた。
 自らの内側に沈んでいた若月は、はっと我にかえる。桃は襖に手をかけてうつむいたたまま、小さな声で、用意が調ったことを告げた。
「お待たせ、しました」
 その言葉に吸い寄せられるように、若月はゆっくりと、だがまっすぐに近づいていく。反射的にだろう、びくんと身を退きかけた桃の肩を抱き寄せる。腕のなかで桃が息を呑む気配がした。柔らかな髪に口づける。甘い匂い。くらくらする。
 彼女を抱きしめたまま、室内に目を向ける。四畳半ほどの和室の壁際に布団が敷かれている。おそらく、夜以外にはきちんと畳まれているのだろう。
 休日の午後。ぴたりと閉じられたカーテンの外側はまだ明るく、対照的に薄暗い部屋のなかは、なにやら淫靡な雰囲気すらしてくる。

 これを、桃はいったいどんな気持ちで用意したのか。そう考えると愛しさが込みあげてきて、おとなしく抱かれている桃のおとがいをそっと持ちあげ、唇を重ねた。
「あ、あの」
 桃を抱きあげて移動し、布団のうえにそっとおろす。そうしてふたたびキスをしようとすると、意を決したように桃が口を開いた。薄暗いなかでも、その顔が真っ赤になっているのがわかる。
「どう、しました?」
 癖のない髪を指に絡めとりながら尋ねる。泣いたあとのためか、いつもより潤んだ瞳が若月を見あげたかと思うと、またすぐにうつむいてしまう。ぽつりと、つぶやいた。
「服、を」
「え?」
「脱いで、ください」
 驚いた。
 思いがけない言葉に驚いてまじまじと桃を見つめる。まさか、彼女からそんな台詞を聞くことがあるとは夢にも思わなかった。
 はっとしたように顔をあげて、桃はあわてたようにふるふると首を振る。
「あっ、あの、違うんですっ、若月さんのスーツが皺になるといけないと思って」
 ようやく自分の発言の意味に気づいたらしい。ここまで狼狽する彼女は見たことがない、というくらいにあわてふためきながら、しどろもどろに説明する。湯気が立ちそうなほど真っ赤になった顔が泣き出しそうにくしゃりと歪む。
「桃さん」
 名前を呼ぶと、桃はびくっと肩を揺らす。
「あなたという人は、」
 なにからなにまで可愛すぎてたまらない。どうしてこうも若月を刺激するのか。ざわつく胸を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐く。すると、それを呆れたため息と勘違いしたのか、桃はますます身を縮めて涙声で謝った。
「す、すみません」
 若月は無言で桃を布団に押し倒すと唇を塞いだ。
「っん、」
 驚いたように顎を引こうとする桃を制してキスを施す。はじめのうち、抵抗を示すように若月の胸を押しやろうとしていた手がしだいに緩み、ためらいがちにうろうろとさまよう。いつもなら若月の服を掴んで縋りついているところだ。
 唇を離して桃の目を覗き込む。
 水を湛えたように潤んだ瞳に怯えや非難の色はない。そのことに安堵しつつ、シーツに無造作に広がった黒髪を撫でる。
「いいんですよ、服なんか、いくら皺になっても」
 そうささやくと、濁りのない澄んだ瞳が不安そうに揺らぐ。
「でも」
 いつもならこんなやりとりはしない。いままでの桃は若月のうながすまま、ひたすら受動的に彼に身をゆだねていた。それはたぶん、行為に及ぶ場所が若月の部屋だったという理由もあるのだろう。
 そのことに、いま、若月は気づいた。
 桃とこういう関係になるまえ、まだただの先輩後輩だったころ。はじめてこの部屋に招かれたときのことが蘇る。

 呆れるほど無防備に若月を招き入れた彼女は、調理のために上着を脱いだ若月からあたりまえのようにそれを受け取ると、形を整えてハンガーにかけた。そういう気遣いが無意識に身についているところを見て、このひとはきっといい家庭で育ったのだろうとますます好感を抱くと同時に、ひょっとして、こんなふうに部屋を訪れる親しい相手がいるのだろうかと勘ぐったことを思い出す。幸い、後者はまったくの杞憂にすぎなかったが。
 お互いにいつもとは勝手が違う。
 若月はいま、桃のテリトリーを侵している。
 ふだん、心配になるほど無防備で、そのくせ小動物のように臆病で繊細なところのある彼女が、こうしてごく私的な場所に自分を招き入れてくれたことがとても嬉しい。桃の言動のひとつひとつに愛しさが込みあげてくる。言葉ひとつ、眼差しひとつでこれほどまでに若月を幸福にさせ、また不安にさせる人間はほかには存在しない。
 この存在が愛おしい。
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