第1話

文字数 2,622文字

 田舎の祖父から畑で採れた野菜と大量の桃の缶詰が送られてきた。
 毎度のことだけど、それはけっこうな量で。いくら缶詰で長持ちするといっても、前回送られてきた缶詰もまだ残っているわけで。
 結局、缶詰は幾つか職場へ持って行くことにした。
「あら、桃缶じゃない。そんなにたくさんどうしたの」
 先輩の小沢さんが尋ねてきたので事情を説明する。
 姐御肌の小沢さんは同性のわたしから見てもものすごい美人で、それなのに近付き難い雰囲気などはまったくなく、気さくで面倒見のいい、すてきな先輩だ。
 わたしの話を聞き終えるとにっこりと笑って缶詰をひとつ手に取った。
「いいお祖父さんじゃない、うらやましい。子どものころよく食べたわ。懐かしい。ほんとうにいただいていいの?」
「はい。まだまだたくさんあるので、よかったら何個でもどうぞ」
「嬉しい。ありがとう。さっそくお昼にいただくわ」
 喜んでもらえてわたしも嬉しい。缶詰を抱えていそいそと給湯室へ向かう。
 するとそこには先客があった。
「あっ、おはようございます」
 両手に缶詰を抱えてぺこりと頭を下げるわたしを見て、若月さんは訝しげな顔のまま「おはようございます」と挨拶を返してくれた。
「それはなにごとですか」
 そう尋ねられて、さっき小沢さんにしたように簡単にことの成り行きを説明する。若月さんは納得したように小さくうなずくと、無言でわたしの腕から缶詰を取りあげて棚にのせてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 かなり重たかったので助かった。若月さんは無表情のまま缶詰を眺めていたけれど、眼鏡越しにわたしを見ると「ひとついただいてもいいですか」とぶっきらぼうな口調で許可を求めた。
「もちろんです。ひとつといわず、いくらでもどうぞ」
「いや、とりあえずひとつでいいです」
 そういうと彼は言葉どおり缶詰をひとつ手にして、引き出しから缶切りを取り出した。旧型の缶詰なので缶切りがないと開けられないのだ。
「あの、今から召しあがるんですか」
 驚いてわたしは思わずそういってしまった。若月さんは手を止めてわたしを見た。
「いけませんか」
「い、いえっ、とんでもないです。すみません。あ、わたしが開けます」
 缶詰を受け取ろうと手を伸ばすと「自分でやります」と断られた。
 立ち去るタイミングを掴み損ねて、わたしはぼうっとその場に立ち尽くしていた。
 若月さんは長い指で器用に缶切りをあやつり封を開けると、立ったまま缶にフォークを刺して切り分けた桃を口に運ぶ。スーツ姿で桃の缶詰を食べる男のひとを見るのははじめてで、ついまじまじと見つめてしまった。わたしの視線に気付くと彼は缶詰を差し出した。
「食べますか」
「えっ、いえ、けっこうです。桃、お好きなんですか」
「わりと好きです」
 なんだか不思議な人だなと思った。

 わたしは半年ほどまえに、この職場に中途採用で入社した。だから年齢はさておき、いちばん下っ端の立場だった。雑用などは自分から積極的に引き受けるように意識している。
 お昼の休憩時間になるとわたしはふたたび給湯室へ向かい、社内で食事を摂る人のためにお茶と例の桃缶を用意することにした。小沢さんをはじめ、桃缶を食べたいといってくれるひとが意外といて嬉しい。
 缶切りを手にしたわたしはそこでようやく大変なことに気付いた。家で使う缶切りとは違う。
 途方に暮れていると背後から声をかけられた。
「桜庭さん、どうしたんですか」
 振り返ると若月さんが立っていた。わたしはいたずらを見咎められた子どもみたいに動揺して返事ができない。若月さんはわたしの顔と手許を交互に見ると、こちらに近付いて来た。
「貸して」
 うながされるまま缶切りを手渡す。若月さんはあっという間に缶詰を開けていく。わたしは目を見開いて彼の横顔を見あげた。
「あの、」
「ここには左利き用の缶切りはないから不便でしょう」
 さらっといわれてびっくりする。気付かれていたのだ。わたしが右利き用の缶切りを使えないことを。
「はい、若月さんのおかげで助かりました。ありがとうございます」
「お礼をいわれるほどのことはしていません。それに、桃をいただいたのはこちらですから」
 礼儀正しいひとだなと思った。今まであまり話す機会はなかったけれど、彼に対する好感度が一気に上昇する。
「桜庭さんは、桃がお好きなんですか」
「え」
「お祖父さんが定期的に大量に送ってくるんでしょう?よほどの好物なのかと思って」
 若月さんの指摘にわたしは笑う。
「好き、といえばもちろん好きなんですけど。わたし、子どものころから熱を出して寝込むことが多くて、そのたびにご飯が食べられなくなるんです。でもどうしてか桃の缶詰だけは喉を通るんです。それでいまだに祖父が心配して送ってくれて」
「ああ、わかります。ぼくも同じです。桜庭さん、大事にされているんですね」
 若月さんは微かに笑った。いつもは少し冷たい感じを与える顔立ちが、笑うとぐっと柔らかな印象になる。
 思わず見惚れていると、彼はふいと目を逸らした。
 わたしはふと思い付いて尋ねた。
「そういえば、若月さんはいつもお弁当ですよね」
「はい?」
「あの、缶詰と一緒に野菜もいっぱい送られてきて。もしよかったらいかがですか。ご迷惑でなければ」
 若月さんは少し驚いた顔をしてわたしを見下ろした。わたしはあわてていいわけをする。
「わたし、ひとり暮らしなのでそんなに食べきれなくて。恥ずかしいんですけど、あまりまじめに料理もしないので、毎回持て余してしまって」
「いただけるのなら遠慮なく、ありがたくいただきますが」
 若月さんの返事にぱっと顔をあげる。
「ほんとうですか。ご迷惑じゃありませんか」
「いえ、むしろありがたいです。いいんですか?」
「もちろんです。えっと、どうしましょう。けっこう嵩張ると思うんですけど、明日ここに持ってきても大丈夫ですか」
「ぼくはかまいませんが、桜庭さん、電車通勤でしょう。ぼく、今日は車で来ているので、もし差し支えなければこちらから伺いますけど」
「え、いいんですか?」
「それはこちらの台詞です」
 若月さんがぽつりとつぶやくようにいったので、わたしは聞き返した。
 彼は「いえ、気にしないでください」というと、わたしの手からお盆を受け取って運んでくれた。
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