第2話

文字数 2,675文字

 終業後。
 野菜を受け取るついでに若月さんが家まで送ってくれることになった。恐縮しながら彼の車の助手席に乗り込む。運転席に座った若月さんは腕時計を確認してなにか考えているようすだったけれど、ふいにこちらを見て尋ねた。
「このあと、なにか予定がありますか」
「いえ、なにも」
「よかったらどこかで食事でもしませんか。お礼にご馳走します」
「えっ」
 若月さんはハンドルに手を置いてわたしを見つめている。予想もしない申し出にびっくりして、わたしはしどろもどろに答えた。
「いえ、あの、そんな、お礼をしていただくほどのことはなにも」
 そういいかけて、これでは彼の誘いを断っているように聞こえることに気付く。若月さんの言葉に驚いたのはたしかだけど、そういってくれた厚意は素直に嬉しかった。でも、ご馳走してもらうには抵抗がある。
 そう考えて、閃いた。
「あ、じゃあ、うちで一緒にお鍋しませんか。ちょうど野菜もいっぱいありますし」
 今度はなぜか若月さんが絶句した。レンズの向こうの瞳が驚いたように見開かれる。
 わたし、なにかへんなこといったかな。
 不安になったわたしに、妙に硬い声で彼は聞き返した。
「桜庭さんのお宅で、ですか」
「はい。あの、なにか問題がありますか。あ、もしかしてお鍋、お好きじゃありませんか?」
「いえ、鍋は好きですが、そういう問題ではなく」
 若月さんはふうっと息を吐くと、なにかを諦めたように力を抜いてつぶやいた。
「わかりました。そうしましょう」
 彼の反応の意味が気になったけれど、尋ねても「なんでもありません」としか答えてくれないので、わたしはそれ以上追求するのをやめた。
 いつもわたしが利用しているスーパーで野菜以外の材料を仕入れてアパートへ向かう。
「狭いところですがどうぞ」
「お邪魔します」
「部屋が暖まるまで少し時間がかかるので、よかったら炬燵に入っていてください」
「いえ、手伝います」
 やけにきっぱりというと若月さんは上着を脱いでシャツの袖を捲りはじめた。わたしはハンガーを手にその上着を受け取る。スーツの形を整えて振り向くと若月さんがこちらを見ていた。
「どうかされましたか?」
 いえ、と首を振ると、若月さんは台所の隅を占領する大きな段ボール箱を見てふたたび絶句した。
「これはたしかに、かなりの量ですね」
「はい。宅配便のお兄さんも運ぶのが大変そうでした」
 しかもそれが二箱。
 若月さんはそのなかから、まるごとの白菜やきのこなど、鍋に使う野菜を選んでいく。
「こちらはぼくがやります。桜庭さんは鍋や食器の用意をお願いしてもいいですか」
「あっ、はい」
 若月さんは危なげない、どころか、とても慣れた手付きで野菜を切り分けていく。包丁を扱うのに慣れているのがわかる。
「若月さん、ふだんからご自分で料理をなさるんですか」
「ええ。ひとり暮らしですから」
「そうなんですか。あ、じゃあひょっとしてお弁当も手作りで?」
「そうです」
「すごいですね」
 同じひとり暮らしをする身として、なんだか負けたと思った。

 鍋は水炊きになった。
 炬燵のうえに卓上コンロを置いて土鍋を火にかける。野菜が煮えるまでのあいだ、若月さんは控えめに部屋のなかに視線を巡らせて感心したようにいう。
「片付いていますね。いつもこうなんですか」
「あ、おじ、祖父が厳しいひとなので、ものをほったらかしにしているとすごく怒られるんです。それで片付けるくせがついて」
「桜庭さんはお祖父ちゃん子?」
「はい。わたしは祖父母に育てられたので」
「そうなんですか」
「そうなんです。小さなころから祖母にまとわりついて、ひととおり家事は教えてもらったんですけど、どうしても料理だけは苦手で。今の生活が祖父にばれたら絶対に怒られます」
 わたしの言葉に若月さんは小さく笑った。
「まあたしかに、自分ひとりのために毎日料理をするのは、正直いえば面倒なときもありますね」
「若月さんでも、そう思われることがあるんですか」
「もちろんあります」
「今、ものすごく親近感を覚えました」
 若月さんは笑いながら土鍋の蓋を開ける。湯気が立ちのぼり、そのなかではいい具合にグツグツと野菜が煮えている。
「そろそろいいでしょう」
「はい。いただきます」
 手を合わせて箸を取る。こうしてだれかと一緒に食事をするのはずいぶんひさしぶりのことだった。職場の飲み会ならたびたびあるけれど、それとはまた違う。
 今朝までほとんど親しく話したことがなかったひとと、こうして自分の部屋で鍋をつついている状況が不思議に思える。自分から誘ったんだけど。
 若月さんはさすがというか、とても落ち着いていて、さりげなく会話をリードしてくれる。沈黙がおりてもへんに気まずくならない雰囲気があって、このひとは女性から人気があるだろうなと、そういう方面にはまるで疎いわたしでさえ感じられるほどだった。
「若月さんは、ご実家はどちらですか」
「ああ、ぼくは子どものころから親戚の家を転々としてきたので、実家はないんです」
「すみません。立ち入ったことを伺ってしまって」
「いえ、謝っていただく必要はありません。どうぞお気になさらず」
 わたしの迂闊な発言に気を悪くしたふうもなく、彼は淡々と答える。そして、しょんぼりとうなだれるわたしを逆に気遣うように彼はつづけた。
「桜庭さんと同じように、寝込んだときに桃の缶詰を食べさせてくれるひともいたので、たぶんあなたが思っているほど、不遇な子ども時代を送ったわけではありません。安心してください」
「はい」
「でも、こうしてだれかと食卓を囲むことはひさしくなかったので、誘ってくださって感謝しています」
 そういって若月さんはふわりと笑う。
「いえそんな、わたしのほうこそ」
「今度こそ、お礼にご馳走させてください。またこちらから食事に誘ってもいいですか」
 若月さんはまっすぐにわたしを見つめていう。どうしていいかわからなくて、わたしは小さくうなずいた。
 そのあと、片付けを終えると、若月さんは暇を告げてさっと上着に袖を通した。わたしは野菜を見繕って袋に詰め、桃缶と一緒に彼に手渡す。
「ありがとうございます。見送りはけっこうですから、ぼくが出たらすぐに戸締まりをしてください」
「は、はい」
「どうもご馳走さまでした。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 若月さんが帰ったあと、いつもの見慣れた部屋が妙にがらんとして見えた。
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