第5話
文字数 2,313文字
「それはわざわざ恐縮です。ありがたく頂戴します。お祖父さまにも、どうぞよろしくお伝えください」
若月さんは淡々としたようすで紙袋を受け取る。そっと窺った限りでは、彼がどんなふうに感じているのかはわからない。
智兄はちらっとわたしを見遣ると、若月さんに尋ねた。
「野暮を承知で伺いますが、若月さんは桃をどう思っておられますか」
「と、智兄?」
「おまえは黙ってろ」
あっさりと退けられてわたしは黙る。若月さんと目が合った。彼は視線を繋いだまま短く答える。
「好きです」
「それは女として、ですか」
「ええ。もちろんです」
迷いなくはっきりと告げた若月さんに、智兄は深々と頭を下げる。
「それを聞いて安心しました。非礼をお許しください。ふつつかなおぼこ娘ですが、どうぞよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ。若輩者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
わたしはふたたび呆然と立ち尽くす。わたしのことを話しているはずなのに、なぜか当人はそっちのけで話が進行している。
「高村さんは、これからご予定がおありですか」
「ええ、これから東京へ帰って荷物を引き揚げないと。田舎へ戻ることになったので」
「えっ」
驚いて智兄の腕にしがみつく。
「田舎へ戻るって、なんで」
「わしはもうじゅうぶん自由にさしてもろうたけえの。そろそろ家に帰って親父らを安心させんといけん」
智兄はカラッと笑った。
「おまえはまだまだ外の世界でいろんな経験をせんとな。せっかく祖父さんらが外に出してくれたんじゃけえ。祖父さんらのことはわしに任せて、しっかり見聞を広めて来いや」
ぽんぽんとわたしの頭をあやすように軽く叩いて若月さんに向き直る。
「そういうわけで、あわただしくて申し訳ありませんが、これで失礼します。今度ぜひ、桃と田舎へいらしてください。なにもないところですが、食いものだけは旨いんで。一緒に一杯やりましょう」
「ありがとうございます。そのときはぜひ」
そうして、嵐のように智兄は去って行った。
「桜庭さん」
「は、はい」
「今夜、お時間をいただけませんか」
若月さんはまっすぐにわたしを見つめている。もう、目を逸らしたりしない。
「はい」
いろいろなことがありすぎて、午後はもう仕事どころではなかった。
*****
はじめて若月さんの住む部屋に入った。駅にほど近いマンションの一室で、わたしの部屋よりも片付いていた。機能的な印象が強い。
「座っていてください。飲みものはなにがいいですか。温かいものなら珈琲か紅茶、冷たいものならお茶からアルコールまで、だいたい揃っていますが」
「じゃあ、紅茶をお願いします。あの、手伝います」
「すぐにできますから。どうぞお気遣いなく」
所在なくソファに座って室内を眺めていると、壁側に置かれた本棚に目が留まる。きっちりと並べられた背表紙のなかに、わたしも読んだことのある小説が何冊か混ざっていて親近感を覚える。
そうやって、意識をほかに拡散させようとしている自分を感じた。とても緊張している、と思う。
「どうぞ」
テーブルのうえにティーカップが置かれる。
「ありがとうございます」
若月さんはテーブルを挟んで向かい側のソファに腰かける。わたしはうつむいて温かいカップを両手で包み、微かに揺れる水面をぼんやりと眺めた。
「桜庭さん」
「はい」
視線をあげる。若月さんはわずかに苦笑を浮かべてわたしを見ている。
「そんなに怯えないでください。ぼくはあなたがいやがることはしません」
「はい」
「でも、ぼくはあなたのように、見ているだけで満足はできない。もっと近くに行きたいし触れたい。ぼくのことを見てほしいと思う。ぼくはあなたが好きです」
彼はもう笑っていない。
「付き合いたいと思っています。桜庭さんの気持ちが知りたい」
「わたし、は」
カップをソーサーに戻して膝のうえで両手を握る。首からうえはものすごく熱いのに、指先は異様に冷たい。
言葉が出てこない。
「ご迷惑ですか」
若月さんの言葉に驚いてぶんぶんと首を振る。
「迷惑なんてそんなことは。ただ、びっくりして。でも、嬉しい、です」
たったそれだけのことをいうのにすごく時間がかかった。
「でも、あの、わたし、そんなふうに、好きだっていってもらったのははじめてで、信じられなくて。あの、どうして」
「桜庭さんのどこを好きになったのか、ですか?」
若月さんは微かに笑って、でもまっすぐにわたしを見つめてつづけた。
「最初は、そう、ひと目惚れ、というやつです。かわいいひとだなと思った。仕事にも一生懸命で、礼儀正しくて。だれに対しても分け隔てなく接するところとか、そういうのを見ているうちに、気が付いたら落ちていました」
だけど、と彼は困ったような表情をする。
「だけど、桜庭さんはそういうことにあまり免疫がなさそうだったし。へんに怯えさせたり、避けられたりすることになったらいけないと思って、自重していたんです。それなのにあなたは、ずいぶんあっさりとぼくを部屋に招いてくださいましたね。あれからぼくはさんざん悩みましたよ。これは少しは期待してもいいのか、それともまったく男として見られていないのか、どちらだろう、と」
「あ、」
もうこれ以上はない、というくらいにわたしは赤面する。思い当たる節があった。
「今さらぼくがこんなことをいうのもおかしな話ですが、よく知らない男を簡単に部屋にあげてはいけませんよ。今みたいに、無防備に男の部屋についてくるのもとても危険なんです。なにをされるかわからないのに」
若月さんは淡々としたようすで紙袋を受け取る。そっと窺った限りでは、彼がどんなふうに感じているのかはわからない。
智兄はちらっとわたしを見遣ると、若月さんに尋ねた。
「野暮を承知で伺いますが、若月さんは桃をどう思っておられますか」
「と、智兄?」
「おまえは黙ってろ」
あっさりと退けられてわたしは黙る。若月さんと目が合った。彼は視線を繋いだまま短く答える。
「好きです」
「それは女として、ですか」
「ええ。もちろんです」
迷いなくはっきりと告げた若月さんに、智兄は深々と頭を下げる。
「それを聞いて安心しました。非礼をお許しください。ふつつかなおぼこ娘ですが、どうぞよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ。若輩者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
わたしはふたたび呆然と立ち尽くす。わたしのことを話しているはずなのに、なぜか当人はそっちのけで話が進行している。
「高村さんは、これからご予定がおありですか」
「ええ、これから東京へ帰って荷物を引き揚げないと。田舎へ戻ることになったので」
「えっ」
驚いて智兄の腕にしがみつく。
「田舎へ戻るって、なんで」
「わしはもうじゅうぶん自由にさしてもろうたけえの。そろそろ家に帰って親父らを安心させんといけん」
智兄はカラッと笑った。
「おまえはまだまだ外の世界でいろんな経験をせんとな。せっかく祖父さんらが外に出してくれたんじゃけえ。祖父さんらのことはわしに任せて、しっかり見聞を広めて来いや」
ぽんぽんとわたしの頭をあやすように軽く叩いて若月さんに向き直る。
「そういうわけで、あわただしくて申し訳ありませんが、これで失礼します。今度ぜひ、桃と田舎へいらしてください。なにもないところですが、食いものだけは旨いんで。一緒に一杯やりましょう」
「ありがとうございます。そのときはぜひ」
そうして、嵐のように智兄は去って行った。
「桜庭さん」
「は、はい」
「今夜、お時間をいただけませんか」
若月さんはまっすぐにわたしを見つめている。もう、目を逸らしたりしない。
「はい」
いろいろなことがありすぎて、午後はもう仕事どころではなかった。
*****
はじめて若月さんの住む部屋に入った。駅にほど近いマンションの一室で、わたしの部屋よりも片付いていた。機能的な印象が強い。
「座っていてください。飲みものはなにがいいですか。温かいものなら珈琲か紅茶、冷たいものならお茶からアルコールまで、だいたい揃っていますが」
「じゃあ、紅茶をお願いします。あの、手伝います」
「すぐにできますから。どうぞお気遣いなく」
所在なくソファに座って室内を眺めていると、壁側に置かれた本棚に目が留まる。きっちりと並べられた背表紙のなかに、わたしも読んだことのある小説が何冊か混ざっていて親近感を覚える。
そうやって、意識をほかに拡散させようとしている自分を感じた。とても緊張している、と思う。
「どうぞ」
テーブルのうえにティーカップが置かれる。
「ありがとうございます」
若月さんはテーブルを挟んで向かい側のソファに腰かける。わたしはうつむいて温かいカップを両手で包み、微かに揺れる水面をぼんやりと眺めた。
「桜庭さん」
「はい」
視線をあげる。若月さんはわずかに苦笑を浮かべてわたしを見ている。
「そんなに怯えないでください。ぼくはあなたがいやがることはしません」
「はい」
「でも、ぼくはあなたのように、見ているだけで満足はできない。もっと近くに行きたいし触れたい。ぼくのことを見てほしいと思う。ぼくはあなたが好きです」
彼はもう笑っていない。
「付き合いたいと思っています。桜庭さんの気持ちが知りたい」
「わたし、は」
カップをソーサーに戻して膝のうえで両手を握る。首からうえはものすごく熱いのに、指先は異様に冷たい。
言葉が出てこない。
「ご迷惑ですか」
若月さんの言葉に驚いてぶんぶんと首を振る。
「迷惑なんてそんなことは。ただ、びっくりして。でも、嬉しい、です」
たったそれだけのことをいうのにすごく時間がかかった。
「でも、あの、わたし、そんなふうに、好きだっていってもらったのははじめてで、信じられなくて。あの、どうして」
「桜庭さんのどこを好きになったのか、ですか?」
若月さんは微かに笑って、でもまっすぐにわたしを見つめてつづけた。
「最初は、そう、ひと目惚れ、というやつです。かわいいひとだなと思った。仕事にも一生懸命で、礼儀正しくて。だれに対しても分け隔てなく接するところとか、そういうのを見ているうちに、気が付いたら落ちていました」
だけど、と彼は困ったような表情をする。
「だけど、桜庭さんはそういうことにあまり免疫がなさそうだったし。へんに怯えさせたり、避けられたりすることになったらいけないと思って、自重していたんです。それなのにあなたは、ずいぶんあっさりとぼくを部屋に招いてくださいましたね。あれからぼくはさんざん悩みましたよ。これは少しは期待してもいいのか、それともまったく男として見られていないのか、どちらだろう、と」
「あ、」
もうこれ以上はない、というくらいにわたしは赤面する。思い当たる節があった。
「今さらぼくがこんなことをいうのもおかしな話ですが、よく知らない男を簡単に部屋にあげてはいけませんよ。今みたいに、無防備に男の部屋についてくるのもとても危険なんです。なにをされるかわからないのに」