甘いのがお好き 第1話

文字数 2,847文字

 2月に入ると、どこのお店もすっかりバレンタイン仕様になってきた。
 わたしの故郷の田舎ではそこまで浸透していなかったけれど、都会に出てきて、いままでいた職場では男性陣にチョコレートを配る習慣があったので、この行事のことは知っている。
 だけど。
 好きなひとにチョコレートを用意したことも、あげたこともなくて。
 例のごとく、小沢さんに相談することにした。

 お昼休みの給湯室。
 お茶の用意をしながら、傍らの小沢さんに切り出した。
「あの、ちょっとご相談があるんですけど」
「あら、なあに?」
「バ、バレンタインのことで」
 とたんに、小沢さんはいたずらっぽい目をして笑顔になる。からかわれるのかな、とどきどきしていると、小沢さんはふっと真顔になって声をひそめた。
「ひょっとして、バレンタインを知らない、とか」
「あ、いえ、それはいちおう知っています。まえにいた職場で、女性陣から男性にチョコレートを配る習慣があったので」
 あわてて首を振って答えると、小沢さんはふたたびいたずらっ子のような顔をして笑った。

「そう。あ、ちなみに、ここでは義理チョコは禁止だから」
「え」
「圧倒的に男性のほうが多いでしょう? 女性陣も大変だし、お返しがあること前提で義理チョコを配るなんて、結局、男性側に負担がかかるだけ。まあ、それでもかまわないっていう男性もいるけどね」
「はあ」
 そういわれてみるとたしかに、小沢さんのいうことはもっともだと思う。
 いままでは、この時期になると当然のように女性陣で特設売場へ行っていたから、それがあたりまえなのだと思っていたけれど。
「かといって、なにもないのも味気ないでしょ。だから、お茶の時間にちょっと甘いものを添えて出すの。それでじゅうぶんに喜んでもらえるわ」
そういって小沢さんはにっこりと笑う。
「もちろん、本命はべつよ。そこまでは会社が口を出すことじゃないもの」
 本命、という言葉に思わず顔が赤くなるのがわかる。
「若月にあげるんでしょう。相談ってそのことかしら」
「は、はい」
 小沢さんは鋭い。
「なにをあげたらいいのか悩んでる、というわけじゃないわよね」
 わたしはこくこくとうなずく。クリスマスのときとは異なり、今回は、あげるもの自体に頭を悩ませる必要はない。けれど。
「あの、やっぱり、手作りのものをあげたほうがいいんでしょうか」
 それが問題だった。
「そうねえ。付き合ってるのなら、手作りのほうが愛情が込められてると思われやすいし、若月にあげるなら断然、手作りしたほうが喜ぶわよ」
「そ、そうでしょうか」
「あたりまえじゃない。あの若月よ? 桜庭さんからもらえるならなんでも喜ぶだろうけど、それが手作りだったらなおのこと。ありがたがって、食べずに飾っておくかもしれないわね」
「そ、そんなことは」
「やりかねないわよ」

 クリスマスのときといい、小沢さんのなかで、若月さんはいったいどんなふうに思われているんだろう。
 そんなことを考えていると、小沢さんがふいに合点がいったというようにわたしを見つめる。
「あ、そうか、桜庭さん、手作りのチョコを贈るのははじめて?」
「はい」
「大丈夫よ。簡単にできるから。本格的な手作りでなくても、ちょっと手を加えるだけで失敗せずに作れるものも市販されているし。よかったら、いっしょにお店に行ってみる?」
「えっ、いいんですか」
 ぱっと顔をあげると、小沢さんはにこにこしながら快くうなずいてくれた。

 通勤帰宅時は、若月さんといっしょというのがお互いに暗黙の了解のようになっているので、その日の終業後、わたしは若月さんにそっと伝えた。
「すみません。今日は、小沢さんといっしょに買い物をして帰ります」
 若月さんはすこし驚いた顔をしたけれど、あっさりとうなずいてくれた。
「わかりました。夜道にはじゅうぶんに気をつけてくださいね」
「はい。あの、すみません」
「謝る必要はありませんよ。夜に、電話してもかまいませんか」
「あ、はい、もちろんです」
「じゃあ、またあとで」

 ***

 小沢さんとふたりで駅前のデパートに向かい、女の子たちで賑わうバレンタイン特設売場を、時間をかけて見て回った。ふつうのチョコレートからちょっとお洒落なトリュフや生チョコなど、いろいろな種類のものが勢揃いで目移りしてしまう。
 さんざん迷ったあげく、やっぱりはじめてで不安なので、いちばんシンプルで失敗の恐れのないスタンダードなものに決めて必要なものを購入した。

 若月さんに喜んでもらいたい。けれど、若月さんはなんでもできるし、料理だって、わたしなんか比べものにならないくらい上手で。
 たぶん、小沢さんのいうように、どんなにいびつなものができあがっても、若月さんはきっといやな顔をせずに受け取ってくれると思う。
 だけど。
 なんだろう。
 がっかりさせたくない。
 がっかりされたくない。
 いいところを見せたい、というわけじゃなくて。なんだろう。若月さんのことを思うと胸が苦しくてそわそわして落ち着かない。
 好き、なのに。
 好き、だから。
 きらわれたくない。

 そんなことを考えていたせいか。
 バレンタインまではまだあと一週間ほどあるので、そこまで混雑はしていなかったけれど、人混みが苦手なわたしは熱気にあてられて、すこし気分がわるくなってしまった。せっかく付き合ってくれた小沢さんに心配をかけたくないので、気づかれないように我慢してアパートに戻ったあと、布団にもぐり込んでそのまま寝てしまって。

 来訪を告げるチャイムの音で目を覚ました。

 真っ暗でなにも見えない。
 控えめに鳴り続けていたチャイムがしだいに間隔を狭めて切迫したものに変わっていく。
 わたしはあわてて起きあがると、明かりをつけて玄関へ向かう。すこしふらついたけれど、さっきよりはだいぶ気分が落ち着いていた。
「は、はい」
「桜庭さん? 若月です」
「えっ」
 驚いて、急いで鍵を外してドアを押す。
 ほんとうに、若月さんが立っていた。
「え、あの、どうして」
 若月さんは怖い顔をしたまま玄関に入ってくると、とまどうわたしを引き寄せて顔を覗き込んでくる。
 若月さんの手も身体も冷たい。

「どうして、じゃありませんよ。何度、電話をかけても出ないし、手が離せないのかと思って一時間待ってみたけどやっぱり出ない。心配になって小沢さんに連絡したら、もうとっくに帰ったはずだという。なにかあったのかと思って来てみたら、真っ暗で返事もなくて」

 ひと息にそういう若月さんはいつもの冷静な彼ではなくて。
 怖いほど真剣な顔でわたしを見据えている。動揺しながらも、なにかとんでもないことをしてしまったのだということだけははっきりとわかった。
「ご、ごめんなさい、あの、具合がわるくなって、そのまま寝てしまって」
 若月さんは無言でわたしを凝視したあと、痛いほどの力でわたしを抱きしめた。苦しい。でも、振りほどけないし、そうしてはいけない気がして、わたしは若月さんの胸に抱き込まれたまま、ただじっとしていた。
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