恋におちて 第1話

文字数 2,914文字

 このひと月というもの、若月はそれはそれは幸せな日々を過ごしている。

 ずっとひそかに想いを寄せていた桜庭桃と恋人という関係になり、彼女の実家へも招かれ(そう仕向けたともいえるが)交際を認められた。
 そして、桃と身も心も結ばれて、これまで生きてきたなかで間違いなく、いまがいちばん幸せな日々だといえる。
 だが。
 そんな彼の心を惑わす不安要素があるのもまた事実だった。

「ちょっと、若月」
 仕事が片付くや否や、いつになく素早く帰り支度をはじめた若月を呼び止める声があった。
 先輩の小沢だ。
「はい。なんでしょうか」
「ちょっと来て」
 連れていかれた先は給湯室だった。小沢は冷蔵庫から洋菓子店のちいさな箱を取り出すと若月に手渡す。
「いまから桜庭さんのお見舞いに行くんでしょ」
 ずばりといいあてられて若月は一瞬返事に詰まる。めったにない彼の反応をまえに、小沢は呆れたように笑う。
「彼女のようすが気になって仕事もろくに手がつかない。違う?今日みたいに、やけに時計を気にする若月を見たのははじめてね」
 すべてお見通しといわんばかりの小沢に、返す言葉もない。若月は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝ることないわよ。いつも隙のないあんたが妙にそわそわしてる姿なんて、めったに拝めないもの。いいもの見せてもらったわ。はい、これ。口溶けのいいプリンだから、もし桜庭さんが食べられそうなら渡してあげて。駄目ならあんたが食べていいわ」
「はい。お預かりします」
「そんなに症状はひどくないって聞いたけど。悪さするんじゃないわよ」
 そう釘を刺されて若月はふたたび返事に窮する。
 まったく、小沢には敵わない。
 若月が桃に好意を寄せていたことも、この小沢にはとっくに見抜かれていた。そんな素振りを見せた覚えはないのに。桃と付き合いはじめたことも、なぜか彼女にはすぐにばれて「よかったわね」と背中を叩かれたことは記憶に新しい。

 若月と桃との関係は職場では伏せたままで、知っているのは小沢だけだ。若月としては公にすることに抵抗はないのだが、桃はそうではないようで、はっきりとはいわないが、できるなら公表はしたくない、という思いが感じられる。もちろん、職場にそういった恋愛ごとを持ち込むのは誉められたことではないし、あえて公言する必要もない。
 だが、若月には複雑にならざるを得ない理由があり、それが彼の幸せに影を落としていた。

 今朝、桃は風邪を引いて欠勤した。若月は毎朝彼女と電車で落ち合い出勤している。家を出るまえに彼女から電話がかかってきて、風邪を引いてしまったので今日は休むと告げられた。
 巷でインフルエンザが流行っていることもあり、若月たちの勤める会社でも、風邪だからと軽視せずに大事を取って休むことをすすめている。無理をして出勤しても本人がつらいだけでなく、他人に感染する可能性があるからだ。
 桃は午前中に病院へ行ったらしく、インフルエンザではなく一般的な風邪だと診断されたとメールが届いた。熱はあまりなく、身体が怠いだけだから大丈夫と書かれていたが、彼女のいう「大丈夫」を若月はあまり信用していない。
 自分にもその傾向があるが、桃はとにかく我慢をするくせがある。良くいえば我慢強い。悪くいえば他人に甘えない。
 病気のときくらいは遠慮せずに甘えてほしいと若月は思う。
 恋人なのだから。

 仕事帰りにようすを見に立ち寄るとメールで伝えてあったためか、若月が訪ねていくと桃はすぐに姿を見せた。パジャマのうえに大きめのカーディガンを羽織った彼女は、少し顔が赤くてほわんとした表情をしていたが、思ったより症状はひどくないようで若月はわずかに安堵した。

 桃を布団に寝かしつけてから台所でお粥を作る。
 以前、彼女は体調を崩したときには桃の缶詰しか口にできないという話を聞いていたが、尋ねてみると「少しなら」という返事が返ってきたので、あとで温めるだけで食べられるように作っておくことにした。
 茶碗に軽く盛ったお粥と小沢から預かったプリン、そして桃を盆にのせて彼女のもとへ向かう。おとなしく横になっていた桃はゆっくりと身体を起こすと頭を下げた。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「迷惑なんかじゃありませんよ。ぼくがしたくてやっているんです」
「でも、若月さんに風邪がうつったら大変です」
「かまいません。もしそうなったら、あなたに看病していただきますから」
 若月の言葉に桃は真っ赤な顔をして「はい」と応える。そのようすがあまりに可愛らしくて思わず抱き寄せたい衝動に駆られるが、ぐっとこらえて彼女の額に触れる。桃はびくっと身体を固くしたが、熱を計るためだと気付くと力を抜いて彼に身をゆだねた。
「まだ少し熱がありますね。食べて薬を飲んだら休んでください」
 こくりと素直にうなずく桃の口許にお粥をすくった(さじ)を運ぶ。驚いたように目を見開く彼女に「口を開けて」とうながす。ふだんの彼女なら「自分でやります」と断るだろう行為だが、熱のためか、わずかなためらいのあとそっと唇を開いて匙を受け入れた。
 こんなふうに、だれかにものを食べさせるのははじめての経験だった。

 幼いころから親戚の家を転々としてきた彼は、だれかの看病をするほどその家の人間たちとは打ち解けられなかったし、恐らく向こうもそれを望んではいなかった。
 だから、たとえ若月自身が具合が悪くてもじっと我慢をするくせがついていて、「可愛いげのないこどもだ」といわれることも少なくなかった。
 ひとりだけ、幼い若月にやさしくしてくれた女性がいた。その女性のおかげで若月はひとを看病することを覚えたのだが、彼の手を必要とするより先に、彼女は事故で世を去ってしまった。
 成長した若月は、何人かの女性と付き合う機会があったけれど、どの相手とも長続きすることはなく、彼がこうして世話を焼くのは桃がはじめてだった。

 自分は要領のいい人間だと若月は思う。無意識のうちに周囲を観察するくせがついているため、たいていの場合、他人がなにを考えているのか、その微妙な心理状態を彼は察することができる。
 社会に出て、その感覚は大いに役立った。
 意識的に自分をコントロールし、良くも悪くも目立つことのないよう、可もなく不可もなく、フラットな状態に自分を保ち続ける。必要以上に他人と親しくなることも無駄に波風を立てることも、彼の望むところではない。
 ただ穏やかに暮らしたい。
 そう思っていたのに。
 若月のまえに現れた桃が、彼の平常心を大きく揺さぶった。

 彼女はお粥とプリンと桃をそれぞれすこしずつ胃に収めると「ご馳走さまです」と手を合わせて、若月にうながされるまま、病院で処方された薬を飲み下した。
「わたし、祖父母以外のひとにこうしてお世話をしてもらうの、はじめてです」
 布団のうえで握りしめた両手を見つめて桃がいう。熱のせいかそうでないのか、まだ顔が赤い。その頬に触れて、そのまま彼女を抱きしめる。腕の中でびくっと震えた熱い身体が愛おしい。
「若月さん?」
 あわてたような桃の声。いつもと違う鼻声で、頼りなげな弱々しい響きが彼の胸をくすぐる。
 どうしてこんなに。
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