スイゴウ

文字数 1,045文字


 水郷の夜は女たちのもの。この地に生まれ育った女は、家長たる男からある役目を言いつけられる。それは、夜、自宅の裏手で水路脇に立ち、何者かを待つことだ。蚊が刺そうが蛇が這い出て来ようが、暑かろうが寒かろうが、一晩そこで待ち続けなければいけない。いくつかの家は、空の舟を女に任せ運河を廻らせる役目を担う。目に見えるものは何も舟に乗らず、水路からも上がって来ないのだが、郷全体で、昔から何かを待ち続け、迎え続けているのだった。
 わたしもまた、水路に下りる数段の石段の脇に立っている。両親亡きあと家長となった兄から、今夜も役目を務めるよう申しつけられたのだ。さすがに毎晩立たねばならない決まりなどないのだが、風習を利用し兄はわたしを度々家から出す。そして家の中に何人かの男たちを集め密談をする。時々怒鳴り声が響いてくるなど、殺気立ち、恐い雰囲気がある。いったい兄たちは何の企みをしているのだろう。わたしを水路脇に立たせるのは、わたしに聞かせたくない話をしているためもあろうが、水路から何かを迎え入れ助けてもらいたいほど、わが家に凶事がせまっていると兄が感じている(しるし)にも思う。
 闇の中、灯火の光が近づいてきた。女が竿で操る小舟が、かすかな水音を立てて水路を滑り、わたしの傍で止まった。夜に廻る舟は、このようにところどころで止まり、少しの間を経て出立することをくりかえすのだ。わたしは黙って頭を垂れる。そのまましばらく待ち、顔を上げると舟が離れた。竿の操り手の女と視線が合った。猫の目のように、女のそれが一瞬光った気がした。
 舟がどこに止まるかは操り手である女たちの思いつきに任されている。先ほどの彼女は、何をうちに案内してきたのか。ひやりとした空気の塊が、小娘であるわたしになど一瞥もくれず、家の表に向かったように感じた。それは家の中で話されていることに力を貸してくださるのだろうか、あるいはあきれて去ってしまわれるのだろうか。
 ああ、わたしは女であることがたまらなく寂しくなった。この水郷に暮らす女は、女の体を流れる血を誇らしく思って役目を果たすし、他郷へ嫁に行く際にも、水路で迎え入れと送り出しをくりかえしてきた何者かの大きな祝福を受けると聞く。だがおそらくわが家だけでなく水郷全体に何か不吉な大きなことが起ころうとしているのに、わたしたち女は小さな水草のように無力でしかないのだ。
 大昔から女たちが流した涙が、いま水路を満たし静かに揺れているのかもしれなかいと、わたしもひとり泣きながら思った。


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