第46話 快楽の後で

文字数 1,746文字

 その時、タクシーの中で真一郎の携帯電話が鳴った。まさか、さっき別れたばかりの愛菜かと思いながら、携帯を見つめる。それは秘書の沙也香だった。

「あっ! 部長、今どこにいるのですか?」 あの冷静な沙也香にしては珍しい。
「いま、タクシーで会社に向かってる。どうした?」
「あの、朝、お伝えすることで漏れていました。申し訳ありません」
「いいから、用件を先に言ってくれ」
「実は、午後の二時からの会議のことです」
「えっ? 二時からの会議? 今日のか?」
「は、はい。申し訳ありません」

 真一郎が腕時計を見ると一時半を過ぎている。時間がない、戻るにしても十五分は掛かる、どうやってもピンチである。さすがの彼も声を荒げた。

「なんで、それを教えてくれなかったんだ!」
「ごめんなさい、部長が昼前には戻ると思っていましたので、つい……」

 いつも冷静な真一郎の、その声を聞くのが沙也香は初めてで辛かった。
 プライベートでは密かに彼に愛され、仕事では彼に信頼される秘書としての自分が生き甲斐だからである。彼女は涙声になっている。こんな彼女も珍しい。

「そうか、わかった。泣くな」
「はい……」
「今、考えてる。そこで待っててくれ」
「はい、わかりました」
(二時だったな、時間がない。どうしようか?)

 携帯電話を持ちながら沙也香は、声を忍んで泣いていた。
(ごめんなさい部長、もしものことがあったら……)
 後から後から出る涙で、沙也香の涙の泉は枯れそうになっていた。
 タクシーの中で、真一郎の顔は青ざめていた。次期の総括事業部長を目指す自分にとってそれは大事な会議だからだ。
 真一郎はいつもの冷静な自分に返り頭で模索していた。そして、携帯電話の秘書に話しかけた。

「沙也香」
「はい。部長」
「君がまとめてくれた書類は?」
「はい、その書類は揃えて、部長の席の前のテーブルの上に置いてあります」
「部数は?」
「五十部ほどです。余裕を含めて用意しました」

「ありがとう。その書類を至急会議室の中で待っている部下に渡してくれないか。会議資料として全員に配るものだ。しかし、それを確認するために、会社についてから目を通す時間がないな。ううむ……そうだ。その原稿は君のパソコンに入っているんだね」

「はい。ファイリングしてあります。このパソコンの中に」
 沙也香も少し冷静さを取り戻していた。

「それだっ! 沙也香、IT機器を使おう。送ってくれないか、今すぐに……」
「えっ、あっ! はい……そういうことですね! 今、部長はカバンの中にアイパッドをお持ちでしたよね」

「そうだ、さすが私の秘書だ。資料に君がまとめてくれた(我が社に於ける防衛産業への挑戦)があるはずだ。その必要なページを今、このアイパッドに送ってくれないか、わかるよな。車の中で読んで、頭の中に叩き込んで会議に臨みたいんだ」

「承知しました。すぐにそのファイルを送ります。少しお待ちください」
「わかった。至急頼む!」

 真一郎はどんな時でも、何かのために情報機器を持っていて、それを最大限に利用している。
 そのレクチャーを受けたのもIT機器に精通している秘書の沙也香からだった。
 真一郎は、鞄からアイパッドを取り出して待った。その時間さえも長く感じる。程なくして、真一郎がアイパッドを開くと、彼が会議の中で発言する内容のファイルが、選別されて送られてあった。それを見ていると、少し時間をおいて彼の携帯電話が鳴った。沙也香からだった。

「沙也香です。部長、送信しました。この資料でよろしいですよね」
「うん、ありがとう。さすが完璧だよ。沙也香ちゃん」
「嬉しいです。部長のお役に立てて……」
 沙也香の声は涙ぐんでいた。

「ありがとう。このお礼はいつか」
「いえ、とんでもないです。これは秘書として私の不注意ですから、気にしないでください。早く書類に目を……」
「わかった」

 真一郎は、昨夜と今朝にかけて激しく愛し合った愛菜のことなど、頭から吹っ飛んでいた。
送信されてきた会議内容のファイルをアイパッドの画面で読み、神経を集中させていた。
 内容は事前に詰めてあり、およそ分かっている、後はそれを頭の中に叩き込んで、そのプレゼンテーションを効果的に発表するのだ。これは自分だけでなく、自分達のグループの創意でもある。


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