第26話 母親は彼の愛人だった人 

文字数 1,453文字

 真一郎はその日、愛菜の家に電話した。
 愛菜はアルバイトに出掛けていなかったが、母親の房江が出た。
「もしもし、私は愛菜さんが、もと働いていた会社の浦島と申します。愛菜さんはおられますか?」
「いえ、愛菜は今仕事に行っております。どのようなご用件でしょうか?」
「実は、もうご存知だと思いますが、会社の不祥事の件につきまして、愛菜さんには、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。それでどうしてもお詫びしたいと思いまして」
「それはご丁寧に、ありがとうございます」

「それで、直接私が愛菜さんにお会いして、お詫びしたいのですが、連絡が取れますでしょうか?」
「では、愛菜の携帯の電話番号をお教えすれば、よろしいのですね?」
「そうして頂けると、有り難いのですが」
「では、少しお待ち下さい」
「はい」
 こうして愛菜の電話番号を真一郎は知ることになった。
「ありがとうございます。助かりました」
「こちらこそ、わざわざありがとうございました。真一郎さん」
「えっ?」

 真一郎は愛菜の母親に、まだ自分の名前を言っていないのに、なぜ彼女はそれを知っているのだろうか?
「お懐かしゅうございます。鮎川房江です。今は東堂になっていますが」
「えっ! あ……貴女が房江さん? ですか」
 一瞬、真一郎は息を止めた。とっさのことに時間が止まったような気がしたのだ。
「はい。お久しぶりです」
「いやぁ、驚きました。愛菜さんのお母さんが貴女とは……」

 真一郎が驚いたのは無理もない、二人はかつて深く愛し合った仲だからである。それは不思議な再会だった。真一郎はまさかここで彼女の声を聞くとは思っていなかった。あれはいつのことだったか……。
 そして、房江もあの懐かしい思い出を振り返るように、黒い受話器を握りしめていた。
 その手は震え眼に涙を溜めながら、むかし激しく愛し合ったかつての愛しい人の声を聞いていた。

 あのころ真一郎は営業課長として、関連会社の営業活動をしていた。そのときに或る会社の受付嬢をしていた房江と出会ったのだ。
 彼女は感じがよく気さくであり、真一郎はそれから何かと彼女を連れ出して食事に誘ったり、絵の展示会などを二人で鑑賞しているうちに、お互いが惹かれ合っていた。
 彼の旧姓は正木真一郎と言い、そのときには独身だったが、浦島慶次からの縁談の話もあり迷っていた時期でもある。慶次は業界では顔が広く、彼と近づきになれば仕事上でも有利になり、伸び悩んでいた彼の会社での地位も確保されると聞いていて、その魅力にも惹かれていた。

 具体的には、慶次の娘との結婚であり、その婿養子となることだった。その話しに真一郎の会社の社長は乗り気であり、そうなれば彼に会社を譲りたいというように、慶次とは話が進んでいたようだった。もし、真一郎が房江と出会っていなければ、すんなりとその話は進んだだろう。

 そのなかで、彼は慶次の娘の愛子と見合いをした。愛子は取り立てて特徴が無い女性だったが、可も無く不可も無いという感じだったが、愛子の取り巻きはその話しに乗り気だった。
 真一郎は母子家庭であり、母の正木咲江も乗り気だったが、彼自身はあまり気乗りがしなかった。
 その話がある前から真一郎は鮎川房江とデートを重ねているときだったからであり、それを真一郎は母親の咲江には言っていなかった。
 真一郎が社長の佐野敬一からその話をされた時、彼は悩んでいた。それは、彼の上司でもあり、恩になっている佐野の面子(めんつ)を立てる義理もあるからだ。


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