第49話 母と娘の軋轢(あつれき)

文字数 1,340文字

 房江がこの店を出してから、二十年近くになる。愛菜が生まれて数年後のことである。
 その資金は或る事の手切れ金として、実は真一郎の義父の浦島慶次から支払われたと言うことを慶次夫婦と房江以外には誰も知らない。
 今この店の収入が房江と愛菜の二人の生活のすべてだった。店の裏の入口から入った愛菜は、中の母親に声をかけた。

「ただいまぁ」
「あ、お帰り。どうしたの。連絡もしないで」

 房江は煮物をしながら、チラリと愛菜の顔を見て言った。彼女は着物の上に割烹着を着て、かいがいしく動いていた。彼女は当然娘の愛菜が真一郎と会うことは知っていた。電話では真一郎が愛菜に会社のことで謝りたいと言ったのだが、どういう話をしたのだろうか?
 その後、二人は別れたのだろうか、それにしても電話ぐらいしてもよさそうなのに。

 それが気になるのだ。昨夜は心配になって房江はなかなか寝付けなかった。今までにも、愛菜は友達の家に泊まると言って電話で連絡してきたことはある。しかし、無断で家に帰らなかった事は今までに一度もなかった。
 その相手が、よりによって昔の自分の恋人ともなれば話は別である。愛菜は隠すつもりはなかった。聞かれれば答えるつもりだった。

「うん。ちょっとね」
「ちょっとって。あなたはまだ嫁入り前なのよ」
 愛菜は黙っていた、どう答えていいかわからないからである。
「もう、あたしは大人よ。お母さん」

 普段は仲の良い親子なのに、その日に限って違っていた。もし仮に、愛菜の相手が房江の知らない男ならば、これほど(こだわ)ることもなかっただろう。しかし、もし、その相手が真一郎だとすれば話は違う。

「それはわかっているわよ。でもあなたはもう二十歳を過ぎているのよね。何かあったら困るでしょ」
「えっ? 何かってなんのこと?」
「まぁ、男女のこととか、よね」
「でも、今は結婚するまではセックスをしないなんて、そういう時代じゃないのよお母さん」
「ええ……そうね。それはわかっているけれど、でもお母さんは、愛菜に幸せになってほしいからこんなことを言うの」
 房江は煮物が終わりガスを止めて、愛菜と向き合った。二人がこんな話をすることは滅多にない。
「幸せって? 結婚のこと?」
「そうよ。女は結婚するまでに大切にしなければね」
「大切って、身体のこと?」
「ええ、そうね」
「だから、その話は、古いって」
「古くても新らしくても良いの。お母さんは、あなたを心配しているのよ」
「心配って、早い話がセックスのことでしょ」
「え、まぁ、そう言う意味でもあるわね」

 房江は娘の愛菜が珍しく素直でないので驚いていた。ひょっとして、昨夜帰ってこなかったのは、彼と……。

「あたし、もう子供じゃないの、大人よ。セックスだって知っているわ」
「まぁ、そんな、あからさまに言わなくても」
「あたし、昨夜と今朝、真一郎さんに抱かれて一杯セックスしてきちゃった」

 愛菜はわざと母の房江がどういう反応をするか、それを確かめるように母親を見つめながら言った。まるで恋敵に挑戦するような眼差しで……。

「えっ……」
 房江は、一瞬息が止まったような気がした。
 一番恐れていたことを、愛する自分の娘が言った言葉に房江は衝撃を受けた。顔が蒼白になり、体から全身の力が抜けていくような気がした。


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