第30話 母の本当のこころ

文字数 2,195文字

 愛菜はそういえばここ数日の間、母の態度が少しおかしいとはと思っていた。
 週末に自分が、真一郎に会うとわかってからは妙によそよそしいからだ。何を言っても「そうね」とか、「それでいいんじゃない」とか、まるで他人事のような空返事なのである。それが今、その意味が愛菜にはようやくわかってきたような気がした。

 母も母なりに、悩んでいたのだろう。その母が昔、愛した人に娘が会いに行くのだから。しかし、母は自分が昔の母の恋人に会うのに、なんで自分に本当のことを言ってくれなかったのだろうか?

(愛菜がこれから会おうとしている人は、私が昔愛し合った人なのよ)となぜ言ってくれないのだろうか? 一言で良い、そうすれば自分の心も少しは対応出来たはずなのに。本当に私が真一郎さんと合うのが嫌だったら、止めてくれても良いのだ。しかし、それもしなかった。

 ずっと胸中に秘めていたことを、娘にはそのことを言えなかったのだろうか? 本当に、相手の真一郎から(深く愛し合っていた)と聞く前に本当は母の口から言って欲しかった。今はそう思っていても、後で母の本当の気持ちがわかれば、自分なりに納得することが出来るのだろう。

 そんな母の気持ちを知りたい……。
「あの、真一郎さん」
「はい、愛菜さん」
「今まで母は、真一郎さんのことを一度も口にすることがありませんでした」
「そうですか」
「真一郎さんは、なぜだと思いますか?」
「さあ……そうですね。おそらく言いにくかったのではないでしょうか」
「母が、貴方と愛し合っていたからですか?」

 愛菜が真一郎を見る目は真剣だった。その目に真一郎は愛菜の気迫を感じていた。
「そうかもしれません」
「こんなことを、真一郎さんに聞いていいかどうかわかりませんが。もしよければ教えて欲しいのです」
「はい。私で話せることであれは……」
「おそらく今までのことを考えてみると、母からは何も教えてくれないと思いますので」
「なるほど。どんなことでしょうか?」
「お二人が別れられた理由です」

「ええ。ここで私が言ってもいいのかどうかですが、愛菜さん。貴女には母親の房江さんの娘として知る権利があるのでしょう。では私のわかっている範囲でお教えしましょう」
「はい。お願いします」
「別れる話をする前に、私たちが知り合ったころからのお話からしなければなりません。私が若かったころですが、私は営業していたので、その関係でいろいろな会社を訪問していました。そのとき、私は取引先の会社の受付係をしていた貴女のお母さんの房江さんと出会いました」
「はい」

「私は何度も仕事でその会社に足を運ぶ度に、感じが良くて美しい彼女に一目ぼれしてしまったのです。そんな私に彼女も私に好感を持ってくれたらしく、何回か目でようやく私は彼女をデートに誘うことができました」
「そうですか」
「それから、私たちは付き合い始めたのです。そのうちに二人の恋は深まって行ったのです。私は彼女と結婚するつもりでしたから」
「あの、こんなことを聞いたら失礼なのでしょうか?」
「いえ、どうぞなんでも聞いて下さい。あなたのお母さんとの事ですから、聞きたいことはたくさんあるでしょうし」

 真一郎が愛菜を見る眼は優しかった。まるで自分の子供に話しかけているようである。
「ありがとうございます。それほど愛し合っていたのならば、身体の関係もあったのでしょうか?」
「あはは、愛菜さん。ズバリ聞いて来ますね。そうですね。愛し合っている恋人同士なら当然でしょう。深く愛し合いました。彼女の部屋の中でね……何度も何度も激しく。裸で。貴女のお母さん私を欲しがりましたから。あっ、いや! こんな話は貴女には毒だったかな」

 真一郎は愛菜に語りかけながら、激しく愛し合ったあのころを思い出していた。忘れようとしても忘れられないあの人。いまでもあのころの白く眩しいような房江の裸身を思い出す。その娘が目の前にいる。愛菜をみながら一瞬、彼は房江によく似ている愛菜をみて錯覚していた。
 愛菜を見つめている真一郎の残像には房江がいる。目の前に房江がいて自分を見つめているような気がした。思わず洩らした本音、その心を……。

「房江……逢いたかったよ」
「えっ!?」
 愛菜は真一郎が言っているその意味が始めは分からなかった。愛菜のその驚く顔を見て我に返った真一郎自身も驚いている。
「あっ! あ……こ、これは失礼!」
「は、はい……」

 愛菜は真一郎の言葉にどう返していいのか分からなかった。
「あまりに貴女が房江さんに似ているので、我を忘れてしまいました。ごめんなさい」
 いつも冷静な真一郎にしては珍しく額には脂汗が滲んでいる。
 しかし、愛菜は嬉しかった。過去の話だとしても、彼が今でも大好きな母のことを想っていることを知り嬉しかった。

「いいんです。真一郎さんが母を好きだったということが分かりましたから」
「そうですか。有り難う」
「母が真一郎さんと……今でも信じられない気持ちです。でも、嬉しいです。母を愛してくれたのですから」
「安心しましたよ。でもそれからあとがあるんです」
「えっ?」

 それで終わりと思っていた続きがあるなんて、愛菜には想像できなかった。
「それから、或る日を境にして、房江さんは急に私のところから去っていったのです」
「えっ?」
「その理由を告げずに、いまだに私には分かりません。彼女の本当の心が」
「そんな……」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み