第31話 たゆたう時間の中で

文字数 1,904文字

 その週の週末の土曜日の喫茶店の中は、比較的ゆったりとしていた。愛菜と真一郎は、奥の窓際に面して座っている。店の中では、ヘンリー・マンシーニのメロディーが、たゆたうように空間に溢れ、心地よく心を洗うように流れていた。

 愛菜が、前から憧れていた存在の男性と同じ時間を過ごすには、最高のシチュエーションだった。しかし、来る時と違って、愛菜の気分は少し期待が外れたようである。もし、その話題がなければ、言うことないのだが……だが、そこから話を()らすことはできない。

 母が、この目の前にいる男性と愛を交わしていたということである。愛菜は、この話しをクリアにして前に進まなければならないと思った。それは、これからの自分にとっての心の清算として、新しい出発としてこれから立ち向かう自分の人生の為に……。
 大好きな母の為にも、自分は辛くても真実を知らなくては。

(もし、もしも……自分が母の実の子で無くても良い、真実が知りたい)
「あの、母が、真一郎さんの元から去って行ったと言うことですが」
「ええ」
「なにか、それで思い当たる事は無いのでしょうか?」
「それが、特に私たちが喧嘩をしたということもありませんし、他に思い当たる事は……」
「では、母が心がわりをしたとか、他に好きな人が出来たということはありませんか?」

 愛菜は、心の中では、そんなことを言う自分が嫌だった。
(しかし、真実を知る為には、逃げてはいけない)と自らに言い聞かせていた。
「いや、私には分かりませんが、それはないと思います。でも彼女には何かがあったのでしょう。それしか考えられません」

 そのころ、房江との逢瀬を楽しんでいるとき、浦島愛子との縁談の話しがあったのだがここで言うことは避けた。それは当時の房江には言っていない。母親の房江が知らないことをその娘が知ったらどうなるのか、今それを言うことは得策ではないと真一郎は思っていた。

「そうですか。ではこういう仮定はどうでしょう」
「おや。それは何という仮定でしょう?」
 真一郎は愛菜が意外なことを言ったので驚いた。
「そのとき、そのときですが……母は妊娠はしていませんでしたか?」
「に、妊娠ですか?」
「ええ、ただそう思っただけです。女の勘とでも言うのでしょうか」

 あのころ、真一郎と房江との性交渉では、何度かは避妊をしないで行ったことがある。当時の二人は口には出さなかったが、結婚するつもりだった。その彼女が妊娠をしたということは聞いていないし、そんな素振りをみせなかった。しかし、真一郎に確信は無い。

「さあ、私はそういう感じを受けたことはありません。少なくとも私といたときには」
「そうですか。よけいなことを聞いてごめんなさい。気を悪くしませんでしたか?」
 愛菜は悪戯をした子供のように肩をすくめていた。
「いや。いいんですよ。そういう想像をするとは、やはり女性なんですね」
 そう言って笑いながらいきなり手を指しだし、真一郎は愛菜の手を握った。
(あっ……)その手は温かい。
「貴女がお母さんが大好きなのが良く分かりました。貴女がそんな房江さんの子供で良かった」
「はい。ありがとうございます」

 愛菜は嬉しかった。またここで真一郎と心が近づいた気がする。その時は、二人とも房江の本当の心の苦しみまでは知らなかった。後は、愛菜が自分で母に聞いてみるしかない。これ以上、彼にその話を聞いてもその先の真実は望めないと愛菜は思った。

「分かりました。その事を母が話してくれるかどうかはわかりませんが、いつか聞いてみたいと思います」
「私もそう思います。もし本当のことがわかったらお願いします。前から気になっていたので、私も納得出来ますから」
「はい。そうしますね。でも」
「はい」
「もし、その答えで真一郎さんの心に傷つけることであってもいいのですか?」
「勿論、かまいませんよ。私も真実が知りたいですから」
「分かりました」

 愛菜は真一郎と会って彼から詫びの言葉を聞いたが、重い十字架を背負わされた気がした。
「ところで、その話はもういいですか?」
「え、はい」
「実は、あなたの仕事のことですが、今はアルバイトしているんですよね」
「はい。慣れないお仕事で大変です」
「もし、よろしければ、私の知っている会社があるので紹介しましょうか?」
「えっ?」

「もちろん、貴女が気に入ればの話ですが」
「どのような仕事でしょう?」
「貴女の経験を活かした仕事です。後でその内容を携帯のメールで知らせましょう」
「はい。ありがとうございます」
「さて、ちょうどいい時間になりましたね。そろそろ日本料理店にいきましょうか」
「はい、あら……もうこんな時間になっているのですね」

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