五十九 一人と一匹暮らし

文字数 5,261文字

 自分の顔に纏まとわり付くように、何かしらの、がさがさとした物が、触れた。それから、時折、小さな、鋭く尖った物も触れているようで、ちくりとした、痛みも、感じられる。



 俺は、どうしたんだっけ? 門大は、ふっと、そんな事を考える。そうだ。ゼゴットが生き返らせるって言ってくれて、それで、頭を上げて、立ち上がって……。



「クラちゃん!」



 門大は声を上げながら、目を開け、体を起こした。



「ミャンッ」



 門大の声と動きに反応するように、子猫の驚いたような鳴き声がする。



「クラちゃん?」



 門大は、鳴き声のした方に顔を向けた。



「ミャウ。ミャウー」



 子猫が、大きな声で鳴きながら、大きく頷うなずく。



「クラちゃん。会えてよかった」



 門大は言って、子猫に向かって手を伸ばす。



「ミャウゥゥ」



 子猫が門大に飛び付いた。



「クラちゃん。クラちゃん」



 門大は子猫をぎゅっと抱き締める。



「ミャウ。ミャウミャウ」



 子猫が嬉しそうに鳴き、門大の顔をぺろぺろと舐めた。



「クラちゃん。くすぐったいよ。ちょっと、ほら。やめてってば」



 門大は、そう言いながらも、顔の近くから、子猫を離さない。



「ミャミャミャン」



「やめないなら、俺も舐めちゃうぞー」



 門大は、言って、子猫の、クラリスタの顔を舐めようとした。



「はわわっ。クラちゃん。これって」



 両目をきゅっと瞑つぶった子猫の顔を見た門大は、急に冷静になって、子猫を自分の顔から遠ざける。



「ミャウー?」



 子猫が目を開けて、首を傾かしげる。



「いや、だって、クラちゃん。顔を舐め合うって、ねえ?」



「ミャ!? ミュミュミュ。ミュユーン」



 子猫が鳴き声を上げながら、首を激しく左右に振って、両前足で自分の顔を隠すような仕草をした。



「いやいやいや。クラちゃんが舐めるのは、しょうがないと思う。今は、子猫だし。分からないけど、条件反射みたいなので、舌が出ちゃう的な事があるのかも知れないし。でも、俺は、まずいかなって。相手がただの子猫だったら、かわいさ余って舐めちゃうかも知れないけど、けど、子猫の姿をしてるけど、クラちゃんだし。ま、まあ、クラちゃんがいいなら、あれだよ。クラちゃんも、猫も大好きだから。全然、舐められるけど。って。勝手にここまで喋っちゃったけど、そういう話で、いいんだよね?」



「ミューミュ。ミャミャ? ミュミャウ。ミュミュー」



 子猫が両前足を下ろして頷き、何かを考えているかのような顔をしながら、鳴いて、それから、小さく首をゆっくりと、左右に振り、門大の自分を抱く手に、そっと片方の前足をのせた。



「舐めるのは、やめておいた方が、いいって、事、だよね?」



「ミャミャミュミュウ」



 子猫が、門大の顔を見て、少しだけ、間を空けてから、鳴いて頷く。

 

 門大は、分かった。舐めるのはやめよう。と言ってから、仕切り直すように、そうだ。クラちゃん。と言って、子猫を手の中から下ろそうと、周囲を見た。自分が、ソファの上に座っている事を知ると、門大は、子猫を、ソファの上にそっと下ろす。



「ミャン?」



 子猫がお座りをして、門大の顔を見つめた。



「クラちゃんは、元の姿に、人の姿に」



 門大はそこまで言って言葉を切った。



「ミャウミャウ?」



 子猫が首を傾げる。



「ごめん。急に、黙ったりして。わけが、分からないよね。あのね、クラちゃん。元の姿に、人の姿に、戻りたい? って聞こうと思ったんだけど、えっと、なんか、ちょっと、考えちゃったっていうか、こんなふうに、いきなり言っていいかどうかって、急に、迷ちゃって。クラちゃん。改めて、聞くね。どうかな? 元の姿に、人の姿に、戻りたいって、思う?」



「ミャウン」



 子猫が鳴いて、大きく頷く。



「よかった。これで、大丈夫だ。クラちゃんは、人の姿に戻れる」



 門大は、言ってから、じっと子猫を見つめ、よかった。よかった。これで、もう、戻るんだよな? すぐに戻るのかな? いつ戻るんだろ? と、思った。



「ミャウミャン」



 子猫が鳴いて、顔を動かし、自分の体を見るような仕草をする。



 そのまま、子猫も鳴かず、門大も何も言わず、静かな時間が、門大と子猫の間に流れ始める。



「戻ら、ないね。すぐには、戻らないのかな?」



 時間にして三分くらいが経過した頃に、門大は言葉を出した。



「ミャウン」



 子猫が頷く。



「あれなのかな」



 門大は、まだ、左腕の手首に巻いたままになっていた、腕時計を見た。



「ミャ?」



 子猫が、門大の左腕の傍に来て、腕時計を見ようとする。



「これは、試練の残り時間を、見る時計でね」



「ミュウ?」



 子猫が首を傾げる。



「うん? ああっ。クラちゃんは、試練の事とか、今の、この状況の事とか、何も知らない? 知らないんだったら、全部説明した方が、いいんだよな」



 門大は、言いながら、子猫の姿を見つめた。



「ミャ?」



 子猫が反対側に首を傾げ直す。



「か、かわいい」



 門大は、子猫の仕草のあまりのかわいさに、思わずそう呟いてしまってから、今は、こんな、かわいいなんて思ってる場合じゃないのに。と思った。



「ミャッン」



 子猫がぴょんっと小さく飛び上がる。



「今の、急に、かわいいって言ったから、驚いたの? そんで飛んじゃった?」

 

「ミュー。ンン」   



 子猫が小さな声で鳴いてから頷く。



 うわー。駄目だ。また、こんな、かわいいのを。一度、かわいいって思っちゃったせいか、かわいいが加速してるような気がする。と門大は思った。



「ミャミャミャ。ウウゥゥ」



 子猫がしゃしゃっと走って、門大の背中の後ろに回り込む。



「え? なんて?」



「ミャミャウ。ミュミュミュ」



「照れてるの?」



「ミャス」



「ミャスって。また、これは、なんか、かわいい、変な、鳴き方」



 門大は思わず微笑んでしまう。



 子猫が背中の後ろから出て来ると、門大の見える場所に戻って来た。



「ミャ、ミャンー」



 子猫が、どこか、困ったような顔をして鳴いた。



「今のは、意味が、分かったかも。それに、クラちゃんの表情の変化も、なんとなく、分かるようになって来てるかも知れない。今のは、恥ずかしいから、クラちゃんの一挙一動を見て、あれこれ言うのはやめろって、いうような、事を、言ったんだよね?」



「ミャス」



 子猫が頷く。



「ま、また、ミャスって。かわいい。ああ。ごめん。またこんな事言っちゃった。……。あれ? これって? クラちゃん。今、唐突に思い付いたんだけど、いろんな鳴き声出せるって事は、ひょっとして、それは、あれじゃないか? ちょっと頑張れば、人の言葉みたいなのを、喋れるんじゃないか?」



「ミャウー?」



 子猫が首を傾げた。



「やってみてよ」



「ミャウ。ミャン。ミャス。ウゥゥゥ。フー。シャアアアア」



 子猫が鳴き止むと、しょんぼりとした様子になって、小さく顔を左右に振った。



「ごめん。変な事、言って、本当に、ごめん。でも、クラちゃん。大丈夫だって。いつっていうのは、分からないけど、元に戻れるのは確実なんだから。ちゃんと、その辺の話は、ゼゴットから聞いてるんだ。だから、その時になったら、クラちゃんが人の姿に戻ったら、たくさん話をしよう」



「ミャン」



 子猫が目を輝かせる。



 門大は、クラちゃん。こんなに目を輝かせて。と思うと、子猫を抱っこしたくなり、子猫に向かって手を伸ばす。子猫が、門大の意図を理解したのか、門大の手に近付いた。



「あっ。あれ? えっと、何か、やろうとしてた気がする。ええっと、これから、どうするつもりだったんだっけ? って、そうだった。説明の事だ。クラちゃん。クラちゃんは、今、どうしてこうなってるかとか、分かってる?」



 門大は、子猫を抱き上げつつ、言いながら、子猫の目を、じっと見つめた。



「ミャア」



 子猫の目が、門大の目と合い、束の間、見つめ合うと、子猫が、目を微かに伏せてから、鳴いて、顔を横に向ける。



「クラちゃん? あ、あれかな? こうやって、急に抱いたりするの、やめた方がいいのかな? クラちゃんの体に、思いっ切り、触っちゃってる事に、なるもんね」



「ミュー。ミュミュン」



 子猫が横を向いたまま、何かを考えているかのように、少しだけ間を空けてから、門大の方に顔を向けて、鳴いた。



「ごめん。ちょっと、分からないな。一度、下ろすよ」



「ミュ、ミュフ」



 子猫が鳴いて、門大の手に両方の前足でしがみ付いた。



「抱いても、いいって、事?」



 子猫が両方の前足に、さらに、きゅっと力を込めて、頷く。



「よかった。それなら、いつでも抱っこできる」



  あれ? でも、そうすると、クラちゃんは、なんで、さっき、あんな目を伏せるような仕草をしたんだ? 何か、他に気になる事があったのかな? 門大はそう思うと、何があるのかを聞こうと思い、子猫の姿を改めて見つめる。



「クラちゃん。さっき、俺が、抱っこをしていいかどうか聞いた時に、他に、何があったの? 抱っこの事じゃなくって、何か別の事が気になった?」



「ミュ? ミュミュミューン」



 子猫が、一度、首を傾げてから、首を左右に振る。



「それは、ええっと」



「ミュミュミュ」



 子猫が、何かを考えているような顔してから、鳴いて、両方の前足を門大の手から放すと、こくこくと頷きながら、片方の前足で門大の手をぽふぽふと優しく叩いた。



「ううん? それは、大丈夫、って事?」



「ミュス」



 子猫が頷く。



 うーん。クラちゃんの事だからな。何か、我慢してるのかも知れない。でも、今のままだと、どうしても、クラちゃんの言ってる事が、分からない時があるな。何か、クラちゃんの言いたい事が、分かるようになる方法があればいいんだけど。門大は、そんな事を思うと、何か使える物があったりはしないかと思い、周囲を見回す。



「ミュミュウー?」



 子猫が鳴く。



「どうしたの?」



 言って門大は子猫の方を見た。子猫が門大の顔を見て、傾げていた首を、反対の方向に向かって、また、傾げ直す。



「うわっー。ま、また。クラちゃん。それは、それは反則。反則級に、その仕草はかわいいんだから。ん? んん? クラちゃん。なんか、体が汚れて、ああ! そうだ。クラちゃん。体は、傷は、大丈夫? あのツルギアラシ、あの、変な、体中から剣の生えた奴と、戦ってできた傷」



「ミュ」

 

「平気なの? 痛い所とかない?」



 門大は、子猫の鳴き声も聞こえないほどに必死になって、子猫の体のあちらこちらを見たが、血で汚れてはいるものの、傷らしき物は、どこにも見付ける事ができなかった。



「ミュン」



「ゼゴットが、治してくれたのかな」



「ミュミュミャミャミュウ」



 門大は、言葉を出してから、いや。クラちゃんの事だから、怪我の事を、隠してるって事もあるかも知れない。念の為に、もっとちゃんと見てみよう。と思うと、今度は、子猫の体のあちらこちらの毛を、指でかき分けるようにして、子猫の地肌を見る。



「ミャ、ミャフス」



 子猫が、ぷすっと、片方の前足の爪を、優しく門大の手に刺した。



「いたたたっ。え? なんで? ああー。ごめん。ついつい夢中になっちゃってた。今のは、さすがに、クラちゃんの言いたい事は、分かってると思う。体を、じろじろ、見過ぎだったね」



「ミュス」



 子猫が小さな声で鳴いて頷く。



「でも、クラちゃん。大丈夫なの? 痛い所とか、傷とかは、ない?」



「ミュス」



 子猫が、もう一度、小さな声で鳴いてから頷いた。



「そうか。それはよかった。俺が見ても、傷とかはなかったみたいだし。よかった。本当によかった。でも、まだ、体が汚れて、そうだ。クラちゃん。あれだよ。お風呂だよ。この家にも、お風呂があると思うから、二人でお風呂に入ろう」



 すぐにでも、お風呂に入って、体を洗ってあげた方がいい。そうだ。そうだよ。お風呂に入りながら、さっきの、説明の事も、どこまで知ってるのかとか、聞いたり、知らない事があるんだったら、その事を話せばいい。のんびりと、湯船にでも浸かってる時に、話せばいいんだ。と門大は言ってから思った。



「ミャミャ!? ミャミャミュ!!」



 子猫が、門大の手の中で、何やら慌て出し、四肢をばたばたと動かす。



「あれ? えっと、なんだろ? ああ、あれかな。なんか、誤解、してるのかな? お風呂っていっても、なんていうか、変な意味じゃないよ。クラちゃん、体が、ほら。ツルギアラシの、クラちゃんが戦った、あの変な奴の血で、まだ、汚れてるから。傷は治ってるみたいだけど、体は洗わないと、駄目みたいだから」



「ミュミュミャミ。ミュミャミャン。ミャミュミャミュミュ」



 子猫が、急に、元気のなくなった声で鳴き、顔を俯けてから、小さく頷いた。



「分かって、くれた?」



 門大は、言いながら、クラちゃん、急に元気がなくなったけど、これは、あれ、だよな。やっぱり、クラちゃんが子猫になった事と、俺が死んだりした事で、傷付いてるから、だよな? 失敗した。もっと、血で汚れてる事とかを言う時に、気を使えばよかった。と思った。



「ミュウーウン」



 子猫が、顔を俯けたまま、元気のない声で鳴いてから、もう一度小さく頷いた。
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