七十 薬は苦い

文字数 5,987文字

 子猫を拭き終えた門大は、子猫をバスタオルの中から出す前に、泣いていた事に気付かれないようにと、自身の顔を、子猫を包んでいるバスタオルの端で入念に拭き、その途中で自身の髪の毛が、子猫の体から染み出た水で濡れている事に気が付くと、クラちゃんがこれを見たら、きっと心配すると思い、髪の毛もしっかりと拭いた。



「クラちゃん。ありがとう。でも、自分の体を濡らすなんて、無茶は、もう、絶対にしないで欲しい」



 門大は、子猫をバスタオルの中から出すと、抱き上げて、子猫の目を、真正面から見つめて言った。



「ミャム~」



 子猫が、門大の目を見つめ返し、嫌々をするように顔を左右に振りながら、なんとも言えない、不満そうな声で鳴く。



「そんなふうに、見つめて鳴いても、駄目だからね。本当に、心配してるんだから」



「ミャミャム。ミュミュミャン」



 子猫が門大の言葉に抗議するように鳴いた。



「分かりましたわ。もう絶対にしませんわ」



 門大は、クラリスタの口調を真似て言う。



「ミャミャ!? ミュミャミュミャミャン」



 子猫が鳴いて、じとーっとした目を門大に向ける。



「うーん。クラちゃんの視線が実に痛い」



 門大は、言ってから、子猫をホワイトボードの横に下ろす。



「時と場合によりますわ。わたくしがどんなに心配したか。門大はとても苦しそうでしたのよ」



「ごめん。そこは、謝る事しかできない」



「もう。急に、そんなに素直になって。けれど、駄目ですわ。謝っても許しませんわ。わたくしの手をあんなふうに」



 子猫がペンをそこで止める。



「ミャミュミャミャン。ミュフミュフミャフ。ミャフミャフミュフス」



「ええ? なんで? 急に?」



「なんでもないですわ。とにかく、わたくしが、自分を濡らしたのも、全部門大のせいですわ」



「は、はい。ごめんなさい」



 門大は、言って、頭を下げる。



「ミャフ」



 子猫が鳴いたので、門大は顔を上げた。



「分かってもらえたのならいいですわ。この話はこれでお終いですわ。それで、門大は、着ている物を着替えて、それから、もっと寝ていた方がいいと思いますの」



「うん。そうする。でも、その前に、とりあえず、薬を探しみるよ。きっとどこかにあると思う」



「ミャッムン」



 子猫がくしゃみをする。



「クラちゃん。ちょっと、今の、くしゃみだよね? 大丈夫?」



「大丈夫ですわ。薬を探すのなら、わたくしが一人で行きますわ」



「クラちゃんは、ここで寝てた方がいい。薬は俺が探して来る」



 門大は言うと、子猫が今乗っている、まだ誰も寝ていないベッドの掛布団をめくった。



「わたくしが行きますわ」



「クラちゃん。クラちゃんに何かあったら、困るから。クラちゃんは、寝て待ってて」



 子猫がベッドから飛び降りて、寝室から出て行く。



「あっ。クラちゃん。待って」



「ミュスミュス」



 子猫が足を止めると、振り向いてから鳴き、顔の向きを戻して、また、すたすたと歩き出す。



「もう。寝て待ってて、言ってるのに」



 門大は、ホワイトボードとペンを手に取り、走って子猫を追いかけようとした。



「ああ。床が濡れてる。本当にクラちゃんは、無茶するんだから」



 門大は床の上に、体を濡らした後で、子猫が通って来たであろう道筋に沿って、小さな水溜りができているのを見付けると、温かく、優しいけれど、どこか、切なくって、クラリスタに、本当に、悪い事をしてしまっているという、気持ちになりながら、言い、バスタオルを取って、水溜りを拭きつつ、子猫の後を追った。



「ミュミュミャ」



 水溜りの一つを拭いていると、鳴き声が聞こえ、子猫が、門大の方に向かって戻って来る。



「ん? どうしたの?」



 子猫が、ミャフム。と鳴いて、バスタオルの一部に、片方の前足の爪を引っかけて、バスタオルを引っ張り始めた。



「んんー? ああー。いいよ。俺が」



 待てよ。これは、チャンスか? ここで、床が濡れてる事を利用すれば、クラちゃんをベッドに戻せるかも知れない。門大は、そんな考えを、言葉を出している途中で閃くと、すぐに言葉を止めて、大げさに溜息を吐いてみせる。

 

「床を拭くのは、この年だと、大変だなあ。腰が痛いなあ」



 門大は、ホワイトボードとペンを、子猫の斜め前に置き、バスタオルを見つめ、わざとそう言ってみた。



「ミャウー。ミャミャム?」



 子猫が、申し訳のなさそうな、鳴き声を出す。



 門大の心の中を、一瞬にして塗り替えるように、罪悪感が大きく広がり、門大は、すぐには言葉を出す事ができなくなってしまう。



「ミュウミュミャー」



 子猫が鳴きながら、爪を引っ込めて、前足をバスタオルから放すと、門大の腕に体が触れる距離まで来て、その場でお座りをした。



「クラちゃんが、ベッドに戻ってくれたら、腰の痛みも軽くなるんだけどな」



 門大は、くうぅー。もうやめたいけど、やめたいけど、これも、クラちゃんの為なんだ。と思い、言ってから、子猫の方に目を向ける。



「ミューウ」



 子猫が、顔を俯け、しょんぼりとした様子で鳴いた。



 ううぅ。どうしてこんな事をしてしまったんだ。心が痛い。……。けど。けど。と思い、門大は心を鬼にする。



「クラちゃん。お願いだ。ベッドに戻って寝て待ってて。そうすれば、クラちゃんを心配する気持ちが、少しだけ和らいで、腰の痛みが治っちゃうはずなんだ」



 我ながら、滅茶苦茶で、適当で、意味が分からない嘘だけど、こんな精神状態で、まともに何かを考える事なんてできないから、もうこれでいい。門大は言いながらそう思う。



「門大。ごめんなさい。分かりましたわ。寝室に戻って寝ますわ」



 子猫が、ミュミュウ。と消え入るような声で鳴き、ホワイトボードに、文字を書いてから、とぼとぼと、寝室に向かって歩き出す。



「クラちゃん。すぐに戻るから、布団の中で、暖かくして寝てて」



 歩き去って行く子猫の姿を見て、門大は、クラちゃん。ごめん。待って。と言いそうになったが、慌てて口をぎゅっと結び、少しの間を空けてから、喉の奥から絞り出すようにして、別の言葉を出した。



「ミャミュ」



 子猫が足を止めて、振り向き、小さな元気のない声で、鳴いてから頷き、前を向くと、止めていた足を再び動かして歩き出す。



「ごめん」



 門大は、うう。あんなにしょんぼりして、あんなに素直に言う事を聞いてくれるなんて。この手はもう二度と使わないぞ。禁じ手にする。ごめん。ごめんよ。クラちゃん。俺はもう今すぐにでも、君の傍に行って、君に謝りたい。と思いつつ、呟くように言った。



 そのまま、何もする気がなくなって、その場に座り込み、子猫の後ろ姿を見つめていた門大だったが、子猫の姿が寝室の中に消えると、あうー。と呻いてから、ホワイトボードとペンを手に取り、バスタオルで床を拭きつつ移動を始める。点々と続く小さな水溜りは、システムキッチンの流し台に近付くにしたがって、次第に大きくなって行っていた。



「きっと、ここで体を濡らしたんだ」



 システムキッチンの流し台の前で、最後の水溜りを拭き終えた門大は、立ち上がり、水道の蛇口を見て言った。しっかりと閉めたはずの蛇口から、水滴がぽたりぽたりと垂れている。



「ここは、蛇口がレバー式だから、ここを使ったのかも知れないな」



 クラちゃんは、すぐに、ここの蛇口がレバー式だって気が付いたんだろうか。自分でも水が出せそうな所を、探し回ったんだろうか。確か、お風呂場は、レバー式じゃなかったんだよな。もう。まただ。やばい。泣きそうになって来た。いいや。この場に、クラちゃんもいないし、堂々と、泣いちゃおう。と思うと、門大は、泣き出しながら、レバーを動かし、水滴を止めてから、床を拭いたバスタオルで、両目と、両目から流れ出た涙で、濡れている顔を拭く。



「お、おわっ。こ、これ、床拭いたバスタオルだった。おいー。ばい菌とか入って、目とかかゆくなったりしないだろうな」



 クラリスタへの思いと、床を拭いたバスタオルで目と顔を拭いてしまった自分の間抜けさへの思いとで、複雑になってしまっている気持ちを抱えながら、とりあえず、目と顔を洗って、って。そうだ。新しいタオルがないと洗っても意味がない。と思った門大は、台所を離れて、脱衣所まで行き、新しい、今度は、小さなタオルを手に取ると、脱衣所内にある、洗面台で目と顔を洗う。



 これで、目と顔は、まあ、いいな。後は、この、クラちゃんに対する、気持ちがな。この、気持ちも、切り替えていかないといけないよな。こんな気持ちを引きずったまま、クラちゃんとこに戻ったら、俺の事だから、何かしら、情けない事を、また、泣いたりとか、しちゃいそうだもんな。とっとと、気持ちを切り替えて、何もなかったかのように振る舞って、クラちゃんに薬を飲んでもらって、それから、俺も薬を飲んで、早く寝ないとな。その為にも、できるだけ、早く、薬を探さないと。と思いながら、目と顔を拭いた門大は、二枚のタオルを洗濯機の中に入れた。



 んん? ちょっと待てよ。これ、今すぐに、洗濯しといた方がいいか。でも、そうなると、あれか。二枚だけで洗うのもな。何か、洗い忘れてる物はないかな? そう思った門大は、周囲を見た。洗面台の鏡に映っている、自分の姿が、一瞬、視界の中に入る。



 そうだ。着替えが残ってるようだったら、服を着替えちゃおう。まだ、寝汗で湿ってるもんな。ついでにシャワーでも、いやいや。それはやめておくか。薬の事もあるし、変に体を冷やしたりしたら、もっと熱が、って。あれ? あれあれ? ……。熱が出てた事を思い出したら、なんだか、急に体がだるくなって来た。と思うと、門大は、急いで着替えを探す。



 すぐに着替えを見付けた門大は、着替えを済まし、脱いだ物を洗濯機の中に入れて、洗濯機を回してから、脱衣所を出て、そこで足を止めた。ええとええと。薬薬薬。そういえば、薬ってどこに置いてある? 実家にいた頃は、ええっと、台所だったかな? 確か、キッチンの上の収納の中にお袋はしまってたような。俺が風邪をひいた時に、そこから薬を出して、その下にある流しで、コップに水を入れてくれて。そこまで思ったところで、門大は、台所に向かって走り出した。



 台所に着くと、システムキッチンの上にある収納を、真っ先に門大は開ける。



「おお」



 すぐに、それらしい物がいくつか入っている、透明なプラスチック製のケースを見付けた門大は、そのケースを手に取り、テーブルの上に持って来た。



「ええっと、ええと、これか」



 ケースの中から風邪薬を取り出し、箱に書かれている注意書きに目を通す。猫にも使えるとの記述を読んだ門大は、ナイスゼゴット。まずは、クラちゃんからだ。と思い、水と水を入れる為のお皿を用意する。薬が顆粒だと分かると、門大は、食事をした時に、トレイに付いていたが、クラリスタが使わなかった、スプーンを持って来て、それを使って、薬を入れた水をかき混ぜて、薬を水に溶かし、一応味を確認する為に、スプーンを、ぺろっと舐めて、にがっと、顔を顰しかめて言ってから、寝室に向かった。



 寝室の出入り口近くまで行った門大は、クラちゃんも、俺みたいに、熱とか出てないといいけど。やばい。そんな事を思ったら、ちょっと、クラちゃんの様子を見るのが、怖くなって来た。何があっても、俺がしっかりしてないといけないのに。と思い、その場で足を止めてしまう。



「ミャッン!?」



 寝室の中から、子猫の驚いたような鳴き声がし、何やら子猫が走っているような足音も聞こえて来る。



「クラちゃん?」



 門大は言って、止めていた足を動かすと、寝室の中に入った。



「ミャミャフム。ミャフミャフミャ。ミャミュミャン」



 ベッドの上で丸くなっていた子猫が、ゆっくりと、顔を上げてから、鳴いた。



「あれ? さっき、なんか、クラちゃんの鳴き声と、足音が聞こえたが気がしたんだけどな」



 門大は、なんだったんだろう? と不思議に思いながら、言い、ホワイトボードとペンと、薬の溶けている水の入っているお皿を、子猫が乗っているベッドの上に置く。



「ミュミュミャ? ミャウミャムミャフ。ミュミュミャミャムフ」



 子猫が鳴き、お皿の所に行くと、水を舐め始める。



「ミュ!? ミャミャミュミュウ」



 水が苦かったのか、舐めるのをやめて、鳴いてから、子猫が再び水を舐め始めた。



「ごめん。先に苦いって言っておけばよかった」



「ミュミュフス」



 子猫が顔を上げ、門大の方を見て、首を左右に振りながら鳴き、また水を舐め始める。



「全部頑張って飲めたね。クラちゃん。偉い偉い。じゃあ、俺は、もうちょっとだけ、向こうに行って来るから。ちゃんと寝ててね」



「ミャミャミュミュ」



 子猫が鳴いて、頷いてから、体を丸くした。



 そういえば、あの鳴き声と、足音はなんだったんだろう? 門大は、寝室の外に出る時に、そんな事を思う。床の上を、子猫が走っているような、足音が聞こえて来たので、門大は、振り向いて、寝室の出入り口を見た。



「ミャ!? ミュミャ~? ミャウミャミュ~?」



 いつの間にか、出入り口の所まで来ていた、子猫と門大の目が合うと、子猫が鳴いて、急にきょろきょろと周囲を見回し始めた。



「クラちゃん。ちゃんと、寝てないと、駄目でしょ」



 なるほどな。さっきも、きっと、俺の事が気になって、ああやって、見ててくれてたのかもな。まったく。クラちゃんは、俺の言う事を全然聞いてくれないんだから。でも、本当に、優しくて、いい子だよな。門大は、そう思いながら、言って、子猫がベッドの上に戻るのを見守ってから、振り返って、台所に向かった。台所に到着した門大は、お皿と水をかき混ぜるのに使ったスプーンを洗ってから、コップに水を入れ、薬を飲む。



「おおっと。これは、また、かわいいぞ。こんなクラちゃんを見られるなんて。俺は、三国一さんごくいちの、幸せ者だな。って、使ってみたかったから、言ってみたけど、三国一の三国ってどこなんだろ?」



 クラちゃんは、今度は、ちゃんと寝てるかな? と思いつつ、寝室に戻り、ベッドの上で、静かに寝息を立てている、子猫の姿を見て、そんな言葉を、小さな声で呟いてから、門大は、自身の顔が、自然に、綻ぶのを感じた。



 門大は、子猫の姿を見つめたまま、もう一つのベッドの方に行く。寝ようとして、布団が、汗と水で湿っているのに気が付いた。



 そうだった。こっちも湿ってるんだよな。替えの布団とかあるのかな。と思い、部屋の中を見回し、備え付けの収納がいくつかあるのを見付けた門大は、サイズの大きい収納から、扉を開けて、中を見て行った。二番目に開けた収納の中に、布団があるのを見付けた門大は、掛布団と敷き布団とを取り替えると、布団の中に体を潜り込ませる。



 すぐに大きな欠伸あくびが一つ出て、門大は、穏やかな気持ちで、眠りの中に落ちて行った。
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