四 気高くも悲しき者

文字数 3,480文字

 水面を斬り裂くように突き進んで来る背鰭の下に、黒い大きな魚影が見え始める。その大きさは、先ほど見た魚の物よりもはるかに大きいように思われた。



【チャンスかも知れませんわ】



 クラリスタが言って立ち上がる。



「何を言ってるんだ? 逃げた方がいい。俺、前にテレビか何かで見た事がある。シャチか何かが、岸にいる生き物を襲うんだけど、その時に、ああやって、勢い良く突っ込んで来て、岸に体を乗り上げさせてた」



【門大。何があってもあなたの事はわたくしが守りますわ。ですから、わたくしを信じて下さいまし】



 クラリスタが言って、両手を前に向かって伸ばすと、両手の掌を上に向ける。



【魔法剣。召喚】



 クラリスタの両手の掌の上に一振りずつ、諸刃の巨大な剣が現れる。その二振りの剣の刀身部分の形状は、通常の剣の刀身部分の形状とはかなり異なっていた。その形状は矢じりの平根と呼ばれる物のような形状をしており、その横幅は人を一人守るのに十分な大きさを持っている。刀身や柄の色も独特で、右手の剣はすべてが黄金色、左手の剣はすべてが紅蓮の炎を彷彿とさせる色をしていた。クラリスタは剣の柄を手で掴むと、二振りの剣の切っ先を魚の方に向けた。



「お、おい。本当に戦うのか?」



【門大。そうでしたわ。一つ言い忘れていた事がありましたわ】



 魚が岸に到達し、クラリスタの言葉がそこで途切れる。水飛沫と、岸を形作っている砂礫とを巻き散らしながら、凄まじい勢いで岸に乗り上げて来た魚の、鋭い牙が生えている大きな顎が、クラリスタを襲う。



 一つの剣は、盾となり、クラリスタの身を守る。一つの剣は文字通り剣となって、魚の頭頂部に叩き込まれる。魚の頭頂部と剣が接触した瞬間、火花が散り、金属と金属が打ち合った時になる音が、大音量で周囲に響き渡る。魚がその身を捻るようにして、頭部を大きく上下に振ると、クラリスタの体が後ろに向かって弾き飛ばされる。



「クラリスタ」



【随分と硬いですわね。侮っていましたわ。流刑地の魚ですものね。普通の魚ではないようですわ】



 剣を持っている両腕を顔の前で交差させながら、空中で一回後方宙返りをし、地面の上に片膝を突いて着地したクラリスタが、門大の言葉に応えるように言う。



「クラリスタは凄いな。でも、もういい。逃げよう」



【門大。大丈夫ですわ。わたくしは、本当は、自分でこんな事は言いたくないのですけれど、強いのですわ。国中の誰よりも強く、そして、その強さの所為で、時に化物と呼ばれ、忌み嫌われている者ですのよ】



 クラリスタを弾き飛ばした後、水の中に戻っていっていた魚が再び岸に向かって突進して来る。水面に立つ白波が、その勢いが先ほどよりも凄まじい事を物語る。クラリスタが魚に向かって走り出す。



「クラリスタ」



 門大は、クラリスタの言葉を聞き、胸の中に去来した思いを、言葉にする事もできず、クラリスタの為に何かをする事もできず、ただ、クラリスタの名を呼ぶ事しかできない。



 岸に乗り上げて来た魚の鋭い牙の生えている顎と、クラリスタが抜き胴の要領で、魚の頭部の横に走り抜けながら、振り抜いた両手の二振りの剣が接触し、金属同士が激しく打ち合う音が鳴り、火花が舞う。魚の頭部の側面にいるクラリスタが素早く体勢を整えると、魚の頭部を打ち据えようと二振りの剣を振り上げる。その瞬間、ありえない事が起こった。魚の体の下部から人の物と同じような形状をした一つの腕が、クラリスタに向かって伸びて来たのだった。



【こんなの、ありですの?】



 クラリスタの片足を魚の手が掴む。クラリスタが、魚の頭部を狙って振り下ろしていた、二振りの剣の軌道を変え、自分の足を掴んでいる腕に向かって、二振りの剣を振り下ろす。腕に当たった刀身から火花が散る。



「斬れないのか?」



【この魚、全身を覆っている鱗が金属でできているようですわ】



 魚が身を翻し、足を引っ張られたクラリスタの体勢が崩れる。咄嗟にクラリスタが、地面に二振りの剣を突き刺し、体を支えるが、魚の力は強く、二振りの剣は地面から抜けてしまい、地面の上に倒れたクラリスタの体が、水面に向かって地面の上を滑り始める。



「クラリスタ。大丈夫か?」



【門大。心配はいりませんわ。まだ、本気は出していませんわ。けれど、できれば、もう少しの間、この力は使いたくはありませんでしたわ。わたくしはバカですわね。どうせ、時間の問題でしたのに。この力を使わなければ、この状況下では、わたくし達は生きてはいけないのですもの。けれど、本当に、残念ですわ。もう少し、あともう少しだけ、あなたとこういう楽しい関係を続けていたかったですわ】



 クラリスタがそこで一度言葉を切る。



【我が身に宿りし神よ。顕現し、この世界にあるあまねく物を打ち据える雷いかづちの力をもって、我の助けとなれ。雷神。来い】



 再び出したクラリスタの声とともに右手の剣が雷を纏う。



【我が身に宿りし古の龍よ。顕現し、世界を三度焼き尽くしたその炎の力をもって、我に勝利をもたらせ。炎龍。来い】



 続けてクラリスタがそう言うと、今度は左手の剣が紅蓮の炎でその身を覆う。



「ぐがああああああああああああああああああああああああああああああ」



 クラリスタの喉から悲鳴のような唸りのような声が漏れ出る。



「クラリスタ? どうした? 大丈夫なのか?」



 門大はクラリスタの喉を使わずに、自分の中に呼びかけるように言ってみる。だが、クラリスタからの返事はなく、クラリスタの喉は震え続け、悲鳴のような唸りのような声を出し続ける。右半身と左半身の手の指の先から、明らかに地面を引きずられている事から来る物ではない痛みが走り始め、やがて、その痛みが全身に広がって行き、門大は声にならない悲鳴を上げた。痛みに続くようにして、全身の皮膚が裂けるような感覚が襲って来たと思うと、皮膚の下、体の内側から、何かが盛り上がって来る感覚がそれに続く。痛みはどんどん酷くなり、門大は意識を失いそうになる。



【なんて事ですの。門大。あなたも痛みを感じていますの? わたくしの所為ですわ。あの時、キャスリーカに胸を突かれた時、わたくしは何も感じてはいなかったので、あなたも平気だと思っていましたのに】



 クラリスタの声がする。



 クラリスタ。俺の事なんて心配しなくていい。この魚もこの状況も、元はと言えば、すべては俺の所為なんだ。門大はそう思うと、歯を食い縛る。



「大丈夫だ。クラリスタこそ、平気か?」



 いつの間にか、クラリスタの喉は悲鳴のような唸りのような声を発しなくなっていて、門大の声が出るようになっていた。



【大丈夫ですわ。門大、あなたこそ大丈夫ですの?】



 クラリスタの言葉を聞きながら、門大は、体の痛みが引いて行っている事に気が付いた。



「俺の方は平気だ。なんともない」



【門大。本当にごめんなさい】



 魚に引きずられているクラリスタの体が、湖の水の中に引きずり込まれて行く。頭が完全に水没する前に、クラリスタが両手に持っている剣を魚に向かって振るった。黄金色の雷いかづちと紅蓮の炎が魚に襲いかかり、魚の動きが止まると、魚の体の水の中から出ている部分から煙が上がり始め、魚の体が湖面に浮かび上がった。



「凄いな。本当に、倒したのか」



 クラリスタが湖の水の中からゆっくりと立ち上がると、門大はそう言葉を漏らす。



【ごめんなさい。わたくしは門大の事をちゃんと守れていませんでしたわ】



「そんな事ない。俺はなんともないし、クラリスタのお陰であの魚を倒せて、食料を得られたんだ。だからクラリスタは、何も気にしなくていい。それより、あの、体中が凄く痛くなったのはなんだったんだ? 大丈夫なのか? 凄い声出してただろ? あれは、地面の上を滑った所為で感じた痛みじゃないよな?」



 門大は言って、怪我の有無を知る為に、クラリスタの姿を見ようと思い、膝の少し上まで浸かっている湖の水面に、クラリスタの目を向ける。



「なんだよ、これ」



 門大は、水面に映っていたクラリスタの姿を見て、呟くように言う。



 【驚きますわよね。この姿だけは、門大に見せたくなかったのですけれど、生きる為ですもの。しょうがないですわ。この姿が、この身に宿る神と龍の力を使っている時の、わたくしの姿ですわ】 



 水面には、顔の右半分までをヘルメットで覆い隠す、重厚な黄金色の板金鎧を右半身に纏っていて、左半身が、頭の先から足の先まで、紅蓮の炎を彷彿とさせる色の鱗と皮膚に覆われた龍が、人と融合しているような恰好をしている、左右の体がちぐはぐな、人非ざる者の姿が映っていた。

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