六十三 会話

文字数 4,404文字

 門大はホワイトボードとペンを手に取ると、急いで寝室から外に出る。



「クラちゃん。クラちゃん。大変だ。あった。あったんだ。ごめん。最初に探せばよかった」



 門大は声を上げ、お風呂場の中に入った。



「ミャーミャー」



 子猫が鳴いたので、門大は洗面器を見たが、洗面器の中には子猫の姿はない。



「あれ? クラちゃん?」



 門大は、クラちゃんはどこに行ったんだ? と、思うと、慌てて、子猫の姿を探し始める。



「ミュミャ」



 浴槽の縁に両方の前足をかけて、浴槽の中から、顔をひょこっと出した子猫を見た門大は、自分の血の気が、凄まじい勢いで引いていくのを感じた。 



「ク、クラちゃん? な、何してんの?」 



 門大はホワイトボードとペンを投げ捨てると、声をこわばらせて言いながら、子猫の傍に行き、子猫を抱き上げた。



「ミャミャミュ?」



 子猫が門大の手の中で首を傾げる。



「クラちゃん。自分で、お風呂の中に入ったの?」



「ミュ」



 子猫が頷く。



「寒かった?」



「ミュミュ」



 子猫が首を左右に振る。



「じゃあ、どうして?」



「ミャミャミャミュミュミャ」



「そうだ。ちょっと待って」



 門大は、ホワイトボードとペンを拾って来ると、子猫に見せる。



「これで、書いてみて」



 門大は言って、子猫を、お風呂場のタイルの床の上に下ろす。



「ミュミュミュン?」



 タイルの上にお座りをした子猫が、ホワイトボードとペンを見つめ、目を輝かせて、嬉しそうに鳴いたが、すぐに自分の両方の前足を見て、難しそうな顔をする。



「うまく、持てないかな?」



 門大は、ペンのキャップを外そうとしていた手を、止めて言った。



「ミュミュ」



 子猫が鳴いて、首を左右に振る。



「うーん。ごめん。なんだろ? こういう時こそ、このホワイトボードとペンの出番なんだけど、どうしよう」



「ミュミャス」



 子猫が、片方の前足を、ぷるっ、ぷるっと振る。濡れている子猫の前足の毛から、水滴が、飛んで、門大の顔に当たる。



「え? ええ? 何? どうしたの?」



「ミュミュミャ」



 子猫が片方の前足で、もう片方の前足をぎゅっと押す。押された方の前足の毛が絞られて、ぬるくなったお湯が流れ出る。



「ミャッミュミュウ」



 子猫が流れ出たぬるま湯を、片方の前足の先でつんつんと突つつく。



「んん? ごめん。分からない」



 門大は、言い終えてから、鏡の事を思い出すと、そうだ。こっち。と言い、子猫を抱き上げて、鏡の前に子猫を持って行った。



「わたくしの体が濡れているから、その持って来てもらった物を使う前に、乾かしてからの方がいいのではないでしょうか? と言っていたのですわ」



「ああ。なるほど。そう言われると、あのクラちゃんの動きの意味が、分かるような気がして来た。どうしよっか? もう、お風呂から出てもいい?」



「もう少し、こうして、門大とゆっくりした時間を、もう出ますわ」



 子猫が、束の間、迷うような間を空けてから、爪で鏡に文字を書き始めたが、もう少し、こうして、門大とゆっくりとした時間を、と書いたところで、ミャ。と小さな声で鳴き、文字を書くのを一度やめ、そこまでの部分を、すぐに足の裏で消すと、もう出ますわ。という部分を改めて書いた。



「あれ? ごめん。さっきの、最初の時の、話は、なんの話をしてたんだっけ?」



「わたくしが、どうして、お風呂の中に入ったのか、という話をしていたのですわ」



「そうだ。そうだった」



 門大は、子猫を抱いたまま、お風呂場の出入り口の所まで行くと、ホワイトボードとペンを脱衣所の乾いている床の上に置いた。



「その話は、また、後にして、冷えて来ちゃったから、もう一度お湯に浸かろう」



 門大は言って、子猫と一緒に浴槽の中に入る。



「ミャミャミュミュミュ」



 子猫が鳴き、眩しい物でも見ているかのように、目を細め、門大の顔を見つめる。



「ん? どうしたの?」



「ミュッミュ」



 子猫が、鳴いて、首を左右に振ってから、お湯の中に顎の部分まで浸ると、ミャーフィー。と、唸るように鳴きつつ、気持ちよさそうな顔をした。



「ねえ、そういえば、クラちゃん。さっき、一人で、この、浴槽の中に、入ってた時、どうやって入ってたの? 足、とどかなかったでしょ?」



 門大は、子猫の気持ちのよさそうな顔を見つめながら、言葉を出す。



「ミャン。ミュミュミャ」



 子猫が、両方の前足で、お湯をかいて、泳いでいるかのような動きをする。



「え? まさか、クラちゃん、泳いでたの?」



「ミュス」



 子猫が頷いた。



「クラちゃん」



 門大は、これは、やっぱり、注意した方がいいよな? 万が一溺れたりしたら大変だもんな。でも、なんか、タイミング外しちゃったからな。最初、クラちゃんが、お風呂の中にいるのを見た時は、注意できそうなテンションだったけど、なんか、もう、今更って気がするしな。門大は、子猫の顔を見つめながら、そんな事を考える。



「ミュウー」



 子猫が門大の手の中から出ようとしはじめた。



「お風呂から出る?」



「ミュ」



 子猫が顔を左右に振り、また、両方の前足で、お湯をかくような動きをする。



「泳ぐの?」



「ミュフ」



子猫が頷く。



「まあ、今だったら、何かあっても、平気か。分かった。じゃあ、手を放すよ?」



「ミュッス」



子猫が頷いたので、門大は手を開く。



「ミュ~ミュ~ミャ~ミャ~」



 子猫が、歌うように、鳴きながら、犬かきで優雅に、浴槽の中を泳ぎまわり始める。



「凄い凄い。意外と速いし」



「ミャミャ」



 子猫が、浴槽の縁に、両前足で掴まってから鳴いた。



「そっか。さっきもやってたけど、そこにもそうやって掴まれるんだ。なるほど」



 門大は、これが、ただの子猫だったら、きっと、こんな事はできないんだろうな。子猫か、クラちゃんか、どっちを基準にして考えればいいのかが、難しいところなんだな。クラちゃんを基準にして、考えれば、大抵の事は大丈夫って事になるんだもんな。と思う。



「ミャーミャーミュ」



 子猫が、両方の後足で、自身が両前足で掴まっている、浴槽の縁の下の部分を蹴ると、両前足と全身を勢いよく動かして、浴槽の縁に上がった。



「おお。クラちゃん、それは、また、凄い」



「ミュフン」



 子猫が浴槽の縁の上から、タイルの床の上に飛び下りる。



「ミュウ」



 子猫が、今度は、浴槽の縁の上に飛び乗ってみせたが、片方の前足が滑ってしまい、浴槽の中に落ちそうになった。



「危ない」



 門大は咄嗟に子猫の体を手で支える。



「ミャミャミャ」



 子猫が、門大の手に両方の前足をかけると、しょんぼりとした顔をする。



「足を滑らせた時の、クラちゃんの顔、かわいかった」



 門大は言って、子猫の頭を撫でた。



「ミャミュ」



 子猫が、困ったような、拗すねたような、顔をする。



「これまたかわいい」



 門大は言って、子猫の頭をもう一度撫でる。



「ミュフーウ」



 子猫が、鳴き、門大の口に片方の前足を、そっと当てた。



「ごめん。ごめん」



 それから、しばらくの間、また、二人して、のんびりと、お湯に浸かる。



「ミュミャミュ」



 門大の手に掴まって、お湯に浸かっていた子猫が鳴き、泳いで、浴槽の縁の所まで行くと、縁に上がる。



「お風呂から出る?」



「ミュン」



 子猫が鳴いて、頷き、縁の上でお座りをした。



「じゃあ、すぐに体を拭いちゃおう」



 門大は、子猫を抱いてお風呂場から出ると、バスタオルを取り行き、子猫の体をバスタオルで包くるむ。



「俺が拭いちゃうけどいい?」



「ミュミュン」



 子猫が頷いたので、門大は、じゃあ、ちょっとごめんね。と言ってから、子猫の体を拭いていく。



「あ。ドライヤーとかってないのかな?」



 門大は、子猫をバスタオルに包くるんだまま、言いながら、脱衣所の中を見回した。



「ボディソープが兼用だったから、猫用のドライヤーとかもあるかなって、思ったけど、そういうのはないみたいだ」



「ミャミャミュ。ミュッミャ?」



「えーっと、なんだろう」



 門大は、しばしの間考えてから言い、まだ濡れてるから、もう少し拭いてから、クラちゃんに文字を書いてもらおう。と思う。



「クラちゃん。もう少し拭いたら、さっきの、ホワイトボードとペンを渡すからね」



「ミュフン」



 子猫が頷き、門大は、子猫の体を拭く。



「よし。ここまで乾けば、大丈夫かな。クラちゃん。どこか拭いて欲しい所とかある?」



 門大は言い、子猫の顔を見る。



「ミュミュス」



 子猫が首を左右に振る。



「じゃあ、はい。これ。これが、ペンでって、そういえば、こっちの世界には、こういう形の筆記用具はなかったよな。これはね。こうやって、蓋を外してから、この部分で書くんだ」



 門大は、子猫を床の上に下ろして、ホワイトボードとペンを手に取り、ペンのキャップを外してから、ホワイトボードに、猫、という文字を書いてみせる。



「ミュー。ミャミャッミャ」



「やってみる?」



「ミュフ」



 子猫が頷いたので、門大はペンを子猫に渡す。



「そうやって、両方の前足でペンを持って、書くとなると、ホワイトボードは、下に置いた方が書きやすいかな」



 門大は、ホワイトボードを子猫の足元に置いた。



「ミャミャミャン」



 子猫がホワイトボードの上に乗り、文字を書き始める。



「書けましたわ。先ほどのお風呂の件なのですけれども、ごめんなさい。門大の言いたい事を途中で理解しましたの。門大が浴槽の中のわたくしを見て、慌てていた時には、門大がどうして慌てているのかが、理解できていなかったのですわ。門大がいない時に、お風呂の中に入ったのは、軽率でしたわ。門大が心配するのは当たり前ですわ。本当に、ごめんなさい。ちょっと前のは、ドライヤーとはなんですの? と聞いたのですわ」



 子猫がペンの動きを止め、ミャフッと鳴いたので、門大はホワイボードに書かれている文字を読んだ。



「ええっと、クラちゃん。お風呂の事は、なんていうか、言い方が難しいんだけど、クラちゃんの中では平気だったのかも、知れないし、俺も、クラちゃんが泳いだり縁に上がったりしてるの見てたら、平気なような気がして来てたけど、どうしても、今のクラちゃんの体の大きさの事とかを考えると、心配になっちゃって。それで、ドライヤーっていうのは、風を出して、髪の毛とかを乾かす機械の事で、髪の長い人とか動物とかの毛を乾かすの使うと、早く乾かせる物なんだ」



 門大の言葉を聞いた子猫が、また文字を書き始める。



「そんな機械があるのですのね。それはまた、凄く便利そうですわ。門大。お風呂の事、心配してくれて嬉しいですわ。わたくしのせいでこんな事になっているのに。門大には本当に迷惑をかけていますわ」



「迷惑だなんて、全然思ってない、ふぇっくしょーい、から」



 門大は言葉の途中でくしゃみをしてしまう。



「門大。自分の体を拭いた方がいいですわ。お風呂から出たままなので、濡れていますわ」



「すっかり忘れてた」



 門大は、鼻がちょっとぐずぐずして来たぞ。と思いながら、バスタオルを手にすると、自分の体を拭いた。
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