第28話 世界樹と魔力

文字数 2,686文字

「ランツ。ねえ、ランツ」
 心地よい響きが、どこか遠くにある。焦りと悲しみ、そして不安の色を含んではいても、やはり美しい。真っ黒な空間に沈むランツには、いつもよりもはっきりと聞き取れた。
 不意に、ランツは目を覚ました。ルカの顔が、ぱっと明るくなる。
「よかった……」
 そう言って、少女は目元を拭った。ずいぶん長い間、名前を呼ばれていたような気がする。
 遠くから聞こえてくると思っていたが、それは勘違いだったようだ。ルカの顔は、すぐ目の前にある。触れそうなほどの距離だ。
 ランツが動こうとしない理由に思い至ったのか、ルカはぱっと体を離した。恥ずかしそうに顔を背ける。ランツは体を起こして頭を()いた。
 周囲を見回して、ようやく異変に気づいた。どうやら自分は、木の枝の上で気を失っていたらしい。視界に映るのは枝と葉だけだった。
 真夜中なのにやけにはっきり見えるのは、地上の方に何か光源があるようだ。葉に隠れて見えないが、広い範囲で淡く輝いている。
「ここは……世界樹の上か?」
 一番あり得そうな可能性を、ランツは言った。覚えている最後の記憶が世界樹に触れたところだったのだから、そう考えるのが普通だ。もっとも、何故教会に捕まっていないのかという疑問はあるが……。
 ランツの疑問に、ルカは複雑な表情で応えた。
「たぶん、そうだと思うんだけど……自分で見た方が、早いと思うわ」
 そう言って下を指さす。たくさんの枝が伸び放題になっていて、下りるのに支障はなさそうだった。
 ランツは枝を伝って進んでいった。思ったよりも高い場所にいたようだ。徐々に、葉の壁が薄くなっていく。
 地上の様子が見えてくると、ランツは眉を寄せた。冒険者にとっては見慣れたものが、地面に敷き詰められている。わずかに光を発している、という点だけは異なっているが、たぶん見間違えではないだろう。
「降りても大丈夫よ。

に、危険は無いみたいだから」
 後ろをついてきていたルカが言った。普通に考えれば、とっても信じられる発言ではなかった。だが、今ここで嘘をつく理由など全く無い。
 やがて一番下の枝にたどり着くと、ランツは意を決して飛び降りた。靴の底に、べちゃり、という粘っこい感触が伝わる。
「魔力溜まり、だよな」
 ランツは呆然と呟いた。見慣れた黒い粘液は、だがいつものように動き出すことはなかった。光を発しながら、静かに(たたず)んでいる。
 いや、よく見ると動いている。とは言っても、単に坂を下る方向に流れているだけだ。動く元に目をやると、世界樹から樹液のようにしみ出しているのが分かった。普通は世界樹が魔力を吸収するのに、これでは逆だ。
 流れる先には、深い森が広がっていた。ここがリレイの街でないことは一目で分かる。魔力溜まりを――いや、もしこれが単なる無害な粘液だとしても、そんなものを吐き出す世界樹の話なんて聞いたことがない。それなりに離れた場所のはずだ。
(聖導具で転移したのか?)
 そういう聖導具の話を聞いたことがある。確か、国宝になっていた。
「見えたよ。やっぱり間違いないね」
 頭上から声が降ってきた。軽やかに着地したローディが、粘液が靴に付くのを見て嫌そうな顔をした。
「そう、ニアの言った通りね。……あのね、ランツ。ここは、王都近くの山の中みたいよ」
 ルカの言葉に、ランツは目を丸くした。王都と言えば、リレイの街から徒歩で十日、川を下っても丸々三日はかかる。国宝の聖導具でも、そんな長距離は飛べないはずだが……。
「ニアはいないのか」
 思い出したようにランツは言った。確か、「あっちで会おう」と言っていた。
「まだ合流できてない。僕が最初に目を覚ましたんだけど、どこにもいなかったよ」
 ローディが暗い表情で言う。彼女のことが心配なのだろう。
「よし、まずは王都へ向かおう」
「そうね。それしか手がかりがない」
 王都にアリエルが連れて行かれそう、というニアの言葉。根拠も何も分からなかったが、今は彼女を信じるしかない。
 一行は、粘液の海の中を歩き出した。歩き辛いことを除けば、平穏な旅だ。周囲に動くものは何もいない。
 だが最初の場所から離れると、状況が変わってきた。粘液の光が弱くなるにつれて、所々で小さく盛り上がり始めたのだ。まだ魔物が生まれるほどではないものの、進めば進むほど動きは大きくなっていく。
 だがその頃には、粘液の下から地面が現れだした。発生元から徐々に広がっているので、相対的に量が減ってきたのだ。明かりを付け、粘液を避けて王都へと向かう。
 ランツはふと後ろを振り返った。先ほどの巨木は、もう森の中に見えなくなっている。目に入るのは、普通の木とその間を這う魔力溜まりだけだ。
「あれは本当に世界樹なのか」
「さあね。見た目はそう見えるけど」
 ローディが肩をすくめた。それ以上のことは、誰にも分からなかった。
 山を下りると同時に森を抜けた。目の前に広がるのは、広大な草原。この世界では滅多に見られない光景だ。ランツは少し見とれていた。
 その向こうには、箱庭のような巨大都市が(そび)えている。深夜でもそれが分かるのは、たくさんの明かりが付いているからだ。国一番の都市、さらに世界樹教の総本山があるとなれば、聖導具がふんだんに利用されているのは当然だろう。
 王都に着いたのは、夜空の色がわずかに変わり始めた頃だった。リレイならまだ街が眠っている時間だが、ここでは違うようだ。ちょうど門が開き、前で待機していた人たちがぞろぞろと集まる。
 ランツたちも列に並んだ。いくつか簡単な質問を受けたあと、あっさりと通される。教会から手配されていたりなんてことも無かったようだ。ニアは分からないが、他の三人は顔を見られていないはずだ。
 さすがに、街中にはほとんど人が歩いていなかった。ただ、今入ってきた旅人たちを狙った客引きが、声をあげている。この時間でも入れる飯屋や、安い宿の宣伝をしていた。
「とりあえず宿を取ろうか?」
 からかうようなローディの言葉に、ランツは素直に頷いた。ランツ自身は、まだ眠らなくても問題ない。だが実は、さっきからずっとルカが寝そうになっていた。徹夜に加えて、運動と緊張で疲れているのだろう。ランツの腕を掴んで、辛うじて意識を保っているような状態だった。
「いい場所知ってるか」
「任せといてよ」
 というローディに連れられ、ルカを振り落とさないようにしながら、ランツは静かに歩き出した。
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