第108話 ちゃんと撃てるのか?

文字数 1,196文字

 舞台稽古を終えた來嶋詩郎が赤坂に向かう。愛車ポルシェは置いたまま、彼はワインバーに向かう。稽古場からでも徒歩15分ほどの距離だった。東京のくすんだ夜空を見上げ彼は呟く。
(お芝居なら変えてあげられるんだがな・・・)
 彼の心の中には病床に伏す飯倉の予断ならぬ容体がある。変えられるものなら変えてあげたい。脚本を書き換えるように。しかし、梶から言われた。飯倉を助けたければ、彼が一番望んでいたことをやってあげるしかないと。
(そっちなのか・・・? 快復を祈る前に)
 詩郎の葛藤は、飯倉不在のいま、自分たちが何を紐帯にして元いた場所に臨めばよいのかということだった。ただの十二指腸潰瘍だと教えられている他のメンバーはまだ余白の時間があると思っている。飯倉が戻ってからでも再結成は遅くないと。そうではない。存命しているうちに果たさなければ、再結成などなんの意味があろうか。詩郎にはそう思えてきた。
(急がなければならん)
 先行きを焦る詩郎の脚が自然と速まった。頭上には三日月より細い二日月が鋭利な刃物のような鈍い光を留めている。もう一度見上げて彼は重苦しく呟く。
(薄気味悪い夜だ・・・)
 杜日将がこの日を指定したのには訳がある。それは月の満ち欠けも計算に入れてのことだった。來嶋詩郎が通うAneecaは彼が隠れ家的に使うだけあって表通りから離れた狭い路地にある。街灯の明かり乏しく閉店後照明落とした店の連なりを歩くと街中とは思えぬほど足元すらおぼつかない。二日月でどうにか数十メートル先がわかる程度である。だから杜日将は『この日この場所』を指定した。つまり、ぎりぎり射撃手が闇にまみれて標的を狙える条件を。
 Aneecaからふた筋離れた通りの空き店舗に一人の女と二人の男が忍び込む。暗い店内の3階からは窓を半分ほど開けると闇に沈んだ路地が見下ろせた。そこからAneecaまでおよそ80メートル。クレー射撃の射程からすると倍以上距離がある。しかし、的が直径11cmの陶器でできた飛んでいる皿と、身長175cm時速3kmほどの人間では命中率はどちらが上か? 断然後者の方確率が高い。
 男が女に囁く。
「莉夢さん、もうすぐお皿が飛んできます。さあ、構えて! しっかり撃ち落とすのですよ」
 スナイパーライフルを手にする莉夢の耳ともで囁くのはさきほどまで運転手だった男。名を初瀬という。初瀬の指示通り莉夢はライフルを肩の位置まで掲げる。それを見て、もう一人の男が不安げに囁く。
「こんなに暗くて、ちゃんと撃てるのか?」
 曽我の問いかけに初瀬はさらに小さな声で囁く。
「場所も、明るさも、持っているモノも、彼女が昔練習していた環境を彼女の頭の中で完全に再現していますから大丈夫です。いま彼女は昼間のクレー射撃練習場にいます」
「そうなのか、なら大丈夫だな」
 曽我は昂ぶる興奮をどうにか押し込めた。脳裏で娘の顔が浮かんでくる。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み