第93話 吉岡正志の翻意

文字数 1,063文字

 同じ時。吉岡正志の事務所でも・・・。
「降りる?」
 正志のエージェント兼弁護士の仲道節雄はたったいま正志が言った言葉に思わず聞き返した。
「もうOKしましたよ、向こうに」
「わかってる。だから俺直接謝ってくるよ、鶴岡さんに」
 仲道が慌てる。
「いえいえ、そういう問題じゃないですよ。一旦同意した選挙出馬を断るなんてありえませんよ」
「でも、まだ選挙はされていないだろ?」
「これはビジネスですよ。アイドル同士の口約束じゃない」
「わかってるって。でも俺出ないって決めたんだ」
「本当にわかってますか? N放送局の会長からのご依頼ですよ。あなたにとって大恩人じゃないですか?」
「立石さんにも、俺が直々に行って謝る」
「謝って済む問題じゃないですって。それに、ここまで話を進めてきたエージェントとしての私の立場はどうなります?」
「仲道さんには申し訳ないと思ってる」
「いったい何があったんです?」
 急に正志が民政党や立石会長との約束を反故にするにはなにか余程の理由が起きたに違いない。それを仲道は問わねばならなかった。が、問うても認めるつもりはなかったが。
「さっき、仲道さんアイドル同士の口約束って言ったよね。ビジネスより軽いような感じで」
「言いました。実際軽いし、法的束縛なんてありませんから」
「軽くないんだ、それ」
 仲道は支倉の仕業かと思った。正志に水面下で『笑門来福⤴吉日』再結成の話を嗾けているのではと。
「軽くないんだよ」
「どう軽くないんです? 言っときますが政党と放送局とタレント事務所で取り交わした約束より重いわけがない。しょせんアイドルはアイドルなんですから」
「どういう意味!?
 正志の表情が変わる。
「法の外にある職業です。だから労働基準に合わない就業も看過される。そしてあなたはそんな過酷な仕事から逃げ出す決意をされた」
 正志はこの時、マッキーから先日言われた言葉を思い返していた。
『逃げてるだけだぜ正志。逃げてもおまえに定められた道は閉ざされない。ずっとそこで待っている。なぜだかわかるか? アイドルは、俺とおまえの天職だからだよ』
 正志は言った。
「仲道さん、アイドルは確かに法の外にある仕事だと思うよ。だから重たいんだ。続けることが。誰にでもできる仕事じゃない」
「まさか、あんなに嫌がってた再結成にご同意されたんじゃありますまいな」
「尊敬する人から言われたんだ。究極のアイドルになれって」
「究極のアイドル?」
「政治家より社会を変えられる職業さ」
 明くる日、鶴岡の元に笑原拓海に続き、吉岡正志の参院選公認候補辞退の連絡も届いた。

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