第90話 憧れの先輩

文字数 1,134文字

 照明が落とされたバーカウンターの一角。世俗から潜むように一人の男性がギムレットをちびりちびり飲んでいる。そこに背後から歩み寄るものが・・・。
「ファンに見つからないのか? こんな場所で飲んでても?」
 振り返ると、そこに久遠の眩しい記憶にある人物がにこやかな笑顔を振りまいている。
「マ、マッキーさん!」
 一緒に活動したのは自分が小学5年生の時からマッキーが『テイクプレジャー』を離れるまでの間、トータルでも4年しかない。大勢のバックダンサーの一員として自分も『テイクプレジャー』の背中を見て育った。マッキーは笑原拓海にとって憧れの先輩だった。
「どうして、あなたがここに?」
 憧れの人が突然自分の目の前に現れて拓海は狼狽した。
「ギムレットか。久しぶりに俺も飲んでみっかな。マスターおんなじの頂戴」
 そう言ってマッキーは拓海の隣に腰掛けた。その動作があまりに自然だったため、マスターも拓海希望の禁区エリアに人を通してしまった。そのうえ、マッキーのオーダーをなんの疑いも持たず受け、いつもの動作で、ジンとライムジュースとシロップと氷をシェーカーでリズミカルに振り、マッキーの前のグラスにトクトクと滑らかに注いだ。
 拓海は呆然とマッキーの動きを眺めている。彼の飲んでいるカクテルが自分の飲んでいるものと同じであることすら、拓海は忘れている。それは謂わば、過去のお気に入り動画を刻を忘れ見返しているようなものだった。グラスを置いてからマッキーは言った。
「どうしてと言われると困るが、ここに来なければならない定めが俺にも、そして拓海にもあったということかな」
 拓海は暫し考えてから角を丸めた言葉を呟く。
「それはマッキーさんのご意思ですか? もしかして、どなたかに頼まれたとか?」
 マッキーは首を振る。
「もう昔の操り人形じゃないぜ。自分の意思に問うて行動しているよ」
 それを聞いてなお拓海は疑いを深める。
「あの人じゃないのですか? あなたをここに差し向けたのは。ここにいること知っているのもあの人くらいのものだし」
 マッキーは姿勢を崩さず言った。
「だとしたらどうなんだ?」
「お断りしましたので」
「なにを?」
「なにをって、あの場所に戻ることを」
「あの場所って?」
 拓海の表情が少し曇った。
「ご存知でしょうマッキーさんも? 人間の神経を蝕むあの場所ですよ」
 マッキーが笑う。
「なるほど、神経を蝕むか、そうかもな。あんな高い場所で同じ年頃の若者が四六時中踊らされてたら神経蝕むよな、まったくだ」
 尊敬する人に理解されたと思ってか、拓海の表情がやや緩む。
「『テイクプレジャー』も『笑門来福⤴吉日』も犠牲者です。アイドル苦境時代の。初めは言いなりですが、物心ついたら逃げることしか考えられない」
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