60話 不快な日

文字数 2,722文字

 その日は、朝から不快な日でした。

 海の中を漂っていると、不意に現れた金色の巨大な魚に飲み込まれる悪夢で跳び起きた私。目が覚めた瞬間から酷い頭痛がしていて、とりあえずお薬を飲もうと階下へ降りると、怒り顔の母が待ち構えていました。

 昨日の三者面談で前が長引いたため、自分の順番が予定時間より遅くなったことに腹を立て、面談中から不機嫌が続いていたのですが、今朝になっても怒りは治まらず、朝っぱらから散々八つ当たりされた上に、


「人が話している最中に、薬なんか飲んでるんじゃないわよ!」


 と大声で怒鳴り散らし、私が手に持っていたコップを叩き落としたのです。

 割れたコップを片付ける私に向かって、さらに罵声を浴びせる母に、もうそれくらいにするよう窘める祖父母と、何も言えずにオロオロしているだけの父、アトラクションでも観るように眺めている弟妹。

 硝子の欠片で少し切ってしまった指に絆創膏を貼ると、もう薬を飲むのは諦め、急いで着替えて登校しました。




 嫌な出来事というのは蔓延するのか、朝から怒りオーラを放出している朋華ちゃん。どうやら昨晩、母、小夜子さんと、留学のことで一戦交えた様子。

 先月のピアノコンクールで、彼女の演奏を聴いた海外の著名な先生から、是非直接指導したいという申し出があり、またとないチャンスだからと、来年からウィーンに留学するように言われたのだそうです。

 何があっても、中等科だけは卒業すると約束していたにもかかわらず、本人の意思も確認せずに、勝手に話を進める小夜子さんにブチギレ、今朝も一言も口を利いていないのだとか。


「そりゃ、有難いお話だってことくらい分かるわよ。分かるけど、私にだって決める権利はあるでしょ?」

「うんうん」「そうだよね」

「それに、このタイミングで留学したら、私の日本での最終学歴『中学中退』だから。万が一ピアニストの道が断たれて、日本に戻って来たとき、義務教育も終了してないなんて、どうしろっていうのよ?」


 と、怒りのマシンガントーク炸裂。




 それよりもさらに深刻なのが、木の実ちゃんです。

 先日、三者面談を無断でドタキャンして以来、征子さんはまったく自宅に戻って来ず、それでも仕事のスケジュールだけはきちんとこなしている様子。

 新たに入った仕事の確認のため、一日に一回は電話してくるので、一応生存確認は出来ているという状態でした。


「まあね、キャッシュカードもあるし、食料に事欠くことはないから、生きて行けるけどさ」

「木の実ちゃんのママ、いつ頃帰って来そうなの?」

「さあ? 明日かも知れないし、来月かも知れないし」


 つまり、このまま戻らなければ、年末もお正月も、木の実ちゃんは独りぼっちで過ごすことになってしまいます。

 我が家では、年末から年明けの五日まで、両親と弟妹が母の実家に帰省し、祖父は二日から五日まで、新年恒例の桜淵OB会で香港旅行、私と祖母は、三日から五日まで千鶴子さんがこちらに滞在するのに合わせて、北御門家に泊まる予定になっていました。

 私が祖母に同行するのは、私一人自宅に残すわけには行かないためで、もしこのまま征子さんが帰らないようであれば、祖母に事情を話して、木の実ちゃん宅に泊まることも考えていたのです。

 どうせ北御門家へ行ったところで、夏輝くんたちは合宿でいないと聞いていたので、正直言って、あまり行くメリットが感じられず、女の子二人だけでのお泊りが駄目なら、千鶴子さんと木の実ちゃんにうちに泊まってもらえば、すべて丸く収まります。


「あー、ズルーい! それなら、私もお泊りしたい~!」

「じゃあ、みんなでお泊り出来るように、おばあちゃんにお願いしてみるね」

「ってかさ、その前に、朋華のおっ母さんを説得するのが先決じゃん?」

「忘れてた…、それが一番の難題だわ…」

「ピアノの練習時間さえ確保すれば、文句言わないんじゃない?」

「私たちも、一緒にお願いしてあげるから」

「あーん、神様、仏様、木の実さま、こうめさま~! 宜しくお願いしまーす!」

「拝むなっつーの!」


 これが実現すれば、学校行事以外では、初めての三人一緒のお泊りになるわけで、あれやこれやと妄想を膨らませ、少しずつ気分が上がって行った私たち。

 まさか、保さんがそんな恐ろしい計画を画策していたことなど、知る由もありませんでした。




 そして、苦悩する人がここにも一人。

 クリスマス休暇ということで、一昨日からドイツの祖父母が来日していた淵井家では、表面上の穏やかさとは裏腹に、水面下では今世紀最大級のハリケーンが吹き荒れていました。

 早速、実家にエスケープしたひろ子さんでしたが、さすがに海外から婚家の義両親が来ているのに、おもてなしをしないことを実両親に咎められ、今回ばかりは自宅に追い返されてしまったのです。

 ご機嫌斜めの母に八つ当たりされるのを恐れ、今朝も大急ぎで朝食をねじ込むと、祖父が起きてくる前に、そそくさと登校した聖くん。そんな状態では食べた気がせず、途中、駅の売店で購入したパンを教室で食べていると、冬翔くんが一人で教室に入って来ました。


「オッス、冬翔!」

「聖、おはよう」

「夏輝は、今日も休み?」

「うん。今朝もまだ微熱が続いてるみたいで、もう一日休むって」

「そっか。何か、今年の風邪は質が悪そうだな」

「そういう聖は、今ご飯?」

「うち今、じいちゃんたちが居るだろ? オカンの妖気が半端なくて、食った気がしなかったもんで」


 そう言うと、残りの欠片を口に放り込みました。

 一応、ふたりが仲直りしたことは、冬翔くんから聞いていたものの、その詳細や経緯は聞かされておらず、父親の性的虐待に関しても、こちらからはまだ何も触れられずにいた聖くん。

 先日も、24日のクリスマス・パーティーのことで、ひょっとすると父親が仕事の関係で自宅にいるかも知れないので、出来れば木の実ちゃん宅で開催したいと提案して来たのです。

 毎年クリスマスには息子たちを日本に残し、亡き妻との想い出と称し、一人ヨーロッパへ行くため、ふたりは聖くん宅で一緒にパーティーをして、そのままお泊りするのが恒例になっていました。

 なのに、なぜ今年に限ってという違和感から、虐待と何か関係があるのかと勘繰ったものの、茉莉絵さんから軽はずみな言動には気を付けるよう注意されていたため、それ以上突っ込んで訊くことも出来ず。

 また余計なことを仕出かして、冬翔くんを傷つけはしないかという不安ばかりが先に立ってしまい、何をどうすることが正しいのか、自分でも訳が分からなくなっていたのです。

 本当なら、今こそ全力で力になりたいという気持ちとのジレンマに、一人悶々とするしかありませんでした。







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