27話 父親からの虐待

文字数 2,392文字

 すぐに戻るとは言ったものの、出掛けてからすでに10分以上が経過し、何もせずにただ待っているのも、何だか手持ち無沙汰でした。

 ふと、先ほど夏輝くんが取りに行ったはずのポットがないことに気付き、今のうちにキッチンへ取りに行くと、


「ちょ…嘘でしょ!」

 
 あろうことか、コンロの火が点けっ放しになっていて、沸騰したケトルの口から、もうもうと蒸気が上がっていたのです。慌てて火を止め、


「お湯を忘れたって、沸かすとこからかいっ!」


 思わず、いつもの木の実ちゃんと聖くんの掛け合いのように、一人で突っ込んでしまった私。勿論、問題はそこではなく、火を掛けっぱなしで出かけたという部分なのですが、


「もう、なっちゃんってば!」


 几帳面なようで、意外と抜けていたり、自分がこうと決めたことや、夢中になったりすると、状況が見えなくなるところがありました。

 バニラエッセンスにしても、別に今日じゃなくてもいいと思うし、それより優先すべきは火の始末であることくらい、誰でも分かりそうなものなのに。

 帰ったらきつく注意しないとと思いながら、沸騰したお湯をポットに移していると、不意に、幼稚園の頃に三人で遊んでいて、高価なアンティークの置物を倒して叱られた事件の詳細を思い出しました。

 あの時も、廊下で遊ぶ際は、置物に触らないようにと注意されていたにも関わらず、夢中で走り回るうちに、方向転換しようと何度も台や本体に触れていた夏輝くん。

 私や冬翔くんが、何度も『危ないよ』と忠告したのに、まるで耳に入っていないようで、何度目かに接触した際、勢い余って台に体重が掛かったため、バランスを崩した置物が倒れたというのが真相でした。




 ポットを持って2階へ上がったものの、先ほどの夏輝くんのことがあったため、ちゃんとコンロの火を止めたか疑心暗鬼になってしまい、もう一度1階のキッチンまで確認に行くことに。

 途中、リビングの掃き出し窓から見えた外の風景は先ほどにもまして暗く、強い風が不気味な音を立てて庭の木々を大きく揺らし、まだ戻って来ない夏輝くんが心配になります。

 コンロの火が消えているのを確認してキッチンを出ると、風の音に混じって、廊下の奥のほうから声が聞こえた気がし、思わず立ち止まった私。古い洋館の内装と、この天候が醸し出す何ともいえないシチュエーションが、嫌が応にもホラーな想像を掻き立てます。

 心の中で、『ごめんなさい、ごめんなさい、私には霊感はありませんので、出てこられても何もしてあげられません!』と念じながら、足早に2階へ戻ろうとしたのですが、よく聞くとそれは聞き覚えのある声で、何だか酷く怒っているような口調。

 やはり、誰かいるのだと確信したとき、不意に奥の部屋のドアが開き、中から出て来たのは、とても怖い顔をした夏輝くんたちの父親の保さんでした。

 保さんは私を見て少し驚いた様子でしたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、


「こうめちゃんか! いや~、久しぶりだな~!」

「こんにちは、おじ様。お邪魔してます」

「すっかり大きくなって、びっくりしたよ。おばさ…おばあちゃんは元気かい?」

「はい、元気です」


 嬉しそうに、矢継ぎ早に話し掛けてきました。

 このおじに関しては、特に好きでも嫌いでもなく、怖い人でもなかったのですが、なぜか幼い頃から『違和感』を感じていました。

 そこへ、後から出て来た冬翔くん。私に気づき、少し気まずそうな顔をしたものの、保さんは冬翔くんを睨みつけるようにして、短く叱咤する感じの言葉を吐き捨てると、またすぐに私ににっこり微笑み掛け、


「じゃあ、おじさん、もう出掛けるから。おばあちゃんに宜しくね。良かったら、また今度泊まりにおいで」

「あ、はい、伝えます。行ってらっしゃい」

「行ってきます。ごゆっくり~」


 ぺこりと頭を下げた私に、笑顔で小さく手を上げて挨拶し、再度冬翔くんを威嚇するように睨み、玄関を出て行った保さん。目の当たりにしたその二面性に、私の母が重なります。


 そして、もう一つ思い出したことが。


 あの日、置物を倒した犯人である夏輝くんは、ちゃんと自分がやったと自己申告していたのです。それに対し、保さんは『よく正直に話したね』と褒め、寛容な対応をしていました。

 が、暫くして冬翔くんの姿がないことに気付き、ふと声が聞こえる部屋を覗き込んだ私が見たものは…


「夏輝は?」

「買い物に出掛けた。バニラエッセンスを切らしてるからって」

「は? この状況で?」

「そう、この状況で」

「ったく、夏輝らしいな~」


 苦笑しながら、少し捲れたTシャツの裾を下ろそうとした冬翔くん。

 その指の間から、ちらりと覗いた傷に、反射的に彼の腕を掴んだ私。

 すぐ近くで聞こえる雷鳴は、もうそこまで来ている豪雨を告げていて、廊下は顔の判別も出来ないほど薄暗くなり、不規則に走る稲光に、お互いの表情が浮かんでは消えます。


「離してよ。服が直せないでしょ…?」

「何なの、これ…?」

「何でもない。ぶつけただけだよ」

「嘘…」

「こうちゃんには、関係ないことだから…」


 そう言って、手を振り解こうとしたのですが、自分でも信じられないくらいがっちりと掴んだ手は、冬翔くんの力でも外すことが出来ず、困惑した表情を浮かべながら、それでも目を合わせようとはせず、


「ホント、いい加減にしてくれないかな?」

「……んでしょ?」

「こうちゃん?」

「…あの日も、ふうちゃんは…」


 あの日、声が聞こえた部屋の、少し開いたドアから中を覗き込んだ私は、そこで激しい折檻を受けている冬翔くんを目撃したのです。

 潜めた声で罵倒しながら、髪を掴んで頭を叩いたり、膝から下を蹴り付けたり、一見して傷が目立たない個所を選んで攻撃していたのでしょう。

 一言も声も上げず、それにじっと耐えていた冬翔くん。彼にそんな酷い虐待をしていたのは、実の父親である保さん、その人でした。







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