31話 二つの祖国

文字数 2,507文字

 いつもは、舅姑の前では猫を被っている母親、ひろ子さん。

 今回のドイツ滞在中に、これまで言えなかった自分の考えを伝えようと心に決め、虎視眈々とタイミングを狙っていたのですが、祖父が聖くんに言った一言が引き金となり、これまで溜め込んでいた不満が爆発。


「どうしても、ドイツの大学を卒業させないといけませんか? 日本にだって、優秀な大学はたくさんありますし、聖の成績なら、頑張れば最高峰だって狙えるレベルだと思います」


 突然の不躾な嫁の言葉に動じることなく、穏やかな、それでいて厳然とした口調で答えました。


「ひろ子さん。私は日本の教育は世界でもトップクラスだと思うし、私の友人や知人にも、優秀な人間がたくさんいるよ。彼らのことを尊敬しているし、日本の教育を否定するつもりなど、毛頭ないんだ」

「だったら…!」

「ただ、リヒトホーフェン製薬がここドイツの企業である以上、やはり国内の大学を卒業した者でないと、社員や取引先からは幹部として認められないという風潮ばかりは、どうしようもない」

「そうおっしゃるから、詢はお義父さまに言われた通り、本社社長の後継者として、たった10歳で親元を離れて、ギムナジウムに通わせたんです」

「母親と子供が離れ離れになる辛さは、私にもよく分かるよ」

「でしたら、聖はこのまま日本で大学を卒業するんじゃいけませんか? 日本支社長のポストなら、日本の大学だろうが、ドイツの大学だろうが、そんなこと気にする人なんて、日本には…」

「どこの国の支社であっても、ドイツ籍の企業であることには変わりないんだよ。そうした風潮も、いずれ時代とともに変わることだろう。が、今はまだ、その時期ではない」

「それじゃ、約束が…!」

「他のことならいくらでも譲歩するし、ヴィルフリート自身が全く別の道に進みたいと希望するのなら、それも快く認めるとしよう。だが、リヒトホーフェンの経営に携わる以上、これだけは譲れないことを、どうか分かって欲しいのだよ、ひろ子さん」


 そう言うと、祖父は皺だらけの大きな手で、中学生の孫息子の頭をポンポンと撫で、部屋を出て行きました。

 一方的に話を打ち切られた形で取り残されたひろ子さんは、苦虫を噛み潰したような顔で、押し黙ってしまい。

 そもそも、何故こんなことになっているのかといいますと、それは日本とドイツとでの、教育制度の違いにありました。




 日本の場合、大学へ行くには、高校を卒業(卒業見込み含む)または大学入学資格検定の合格者が、志望大学を受験するわけですが、ドイツの場合、『アビトゥーア』という試験を受けることが、それに当たります。

 州によっても異なりますが、ドイツでは6歳から4年間、日本の小学校に当たる『グルントシューレ』=基礎学校で学び、卒業する10歳の時点で、『ハウプトシューレ(ミッテルシューレ)』=基幹学校、『レアルシューレ』=実技学校、『ギムナジウム』=中高一貫校の3つの中から進路を選択します。

 大学へ進学するには、ギムナジウムへ行くことが絶対条件ですが、不合格になった場合でも、レアルシューレに通えば、卒業時に中学卒業相当の資格と同時に、ギムナジウムへ編入する受験資格が得られます。

 ギムナジウムに入れても、その後の成績次第では落第することも珍しくなく、どうしても勉強に付いて行けない場合には進学を諦め、ハウプトシューレやレアルシューレに編入して、就職するといったケースも少なくありません。

 ギムナジウムを卒業すると、大学入学資格に当たる『アビトゥーア』の受験資格を与えられるのですが、アビトゥーアは実質的な卒業試験でもあり、合格した時点で高校卒業相当の資格が得られることになります。

 万が一試験に失敗しても、2回までは受験出来ますが、二度目も失敗した時点で永久に受験資格を失い、それ以降、二度とチャレンジすることが出来ないという大変厳しいルールとなっているのです。

 日本と違うのは、各大学で入学試験をするのではなく、アビトゥーアに合格すれば、大学に入学することが出来、その資格は一生涯有効で、すぐに就学しなくても、いつでも自分の思ったタイミングで大学に入学することが可能。

 但し、アビトゥーアの点数が低ければ、希望する大学や学部に入学出来ない可能性もあり、及第点を取るため再トライしようにも、一度合格すると、二度と試験を受け直すことは出来ず、合格時の点数が一生ついて回る一発勝負なのです。

 勿論、大学へ行くことだけが全てではなく、多くの職業に於いて『ゲゼレ』という国家資格があり、その中でも最高位とされるのが『マイスター』の称号。その歴史は長く、起源は中世に遡ります。

 マイスターの地位は、大学の学位卒業と同等とみなされ、アビトゥーアに合格出来る実力を持ちながらも、マイスターを目指して、ハウプトシューレやレアルシューレを選択するケースもあり。

 ゲゼレを取得するには、専門学校で勉強した後、専門知識や実技の他、経営学・商学・法学、職業・労働教育学の試験項目を受験、アビトゥーア同様、受験回数などに厳しい制限があり、こちらも大変シビアです。

 いずれにしても、ドイツの教育制度では、わずか10歳という幼い時期に、その後の人生を決定することになるため、日本人であるひろ子さんとの意識の違いに、大きな溝があったのは事実。




 聖くんの兄の詢さんも、10歳で日本の親元を離れ、グルントシューレの4年生に編入して、ギムナジウムに進学。その後、13年生までストレートで進級し、大変優秀な成績でアビトゥーアに合格、現在ドイツ国内屈指の大学に在学していました。

 とはいえ、それは詢さんの意志ではなく、勿論、母親のひろ子さんの希望でもなく、経営を引き継いだ長兄夫婦に、跡取りが生まれなかったという理由で、突然降って湧いた話だったのです。

 日本で生まれ、日本文化しか知らずに育ったひろ子さんにとって、わずか10歳で子供の人生を決めなければならないことに加え、祖父母がいるとはいえ、たった一人で幼い我が子を外国へ行かせることなど、到底納得出来るものではありませんでしたが、義父の言うことは絶対でした。







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