49話 虐待レポート
文字数 2,754文字
十二月に入ったばかりだというのに、町はすっかりクリスマスモード。
自分の犯した大失態で、一時はどうなるかと焦りましたが、無事ピアノコンクールに優勝し、とりあえず朋華ちゃんのことは一件落着したものの、それ以外にも聖くんが抱えている悩み事は、未だ解決に至らず。
あれ以来、祖父と母の確執は決定的になってしまい、母に至っては、夫や子供たちの前でも平然と悪口を言うほど毛嫌いする有り様です。
ドイツへ行くか、日本に残るかの最終的な決断は自分に掛かっているだけに、どちらに転んだところで、まだ一悶着も二悶着もあるのだろうと思うと、気が重くなるばかりでした。
そして、もう一つの案件のほうはと言いますと。
廊下での一件を目撃して以来、冬翔くんへの疑惑は確信に変わったものの、何故彼が私に対してだけそんなことをするのか、まったく理解出来ずにいました。
もしあの時、少しでもナイフの位置がズレていたら、軽くて大怪我、最悪、死んでいてもおかしくない状況だったのです。
それほど、冬翔くんが振り下ろしたナイフには躊躇が感じられず、直後の至って普段と変わらない様子や、自分のピンチを冷静にフォローしてくれたギャップが、いっそう猟奇性を際立たせていました。
おそらく、以前に見た手の傷や、短く切られた髪も彼の仕業に違いなく、階段から突き落としたり、ナイフを突き立てたり、やることがどんどんエスカレートしている以上、このまま放置するわけにも行きません。
ですが、被害に遭っている本人含め、おそらく事実を知っているであろう女子たちまでが、頑なにそのことを否定し、口を割ろうとしないところをみると、何か重大な秘密があるに違いないと思うものの。
「あいつら、何を隠してんだよ…?」
いくら考えても、納得出来る理由が思い当たらず、ますます訳が分からなくなるばかりでした。
「あ゛ーーーっ!! もう、意味わかんねぇーっっ!!」
「うっせーな、さっきから一人で、ブツブツ言ったり叫んだり。病気か?」
「何だ、帰ってたのかよ、ブス」
いちいち癇に障る言い方をする弟のお尻に一発蹴りを入れ、ソファーに腰かけた茉莉絵さん。
思い出したように、教科書の入った鞄から一冊のファイルを取り出すと、それを聖くんへ放って寄越しました。
「何、これ?」
「前に、あんたたちが知りたがってたこうめの行動に関して、参考になりそうなレポートを集めといた」
見ると、かなりの枚数がコピーされ、分かり易いようにジャンルごとに分別されています。
「すげ! これ、おまえ一人で集めたんか?」
「教授に聞きながらだよ。一人で出来るかっつーの」
「だろーな~」
「うるせー! 礼を言え、礼を!」
「教授先生、ありがとうございまーす!」
ふざけた物言いの弟のお尻に、もう一発蹴りを入れると、真面目な顔で続けました。
「まあさ、こうめの場合、大丈夫だとは思う。けど、こうめだけじゃなくて、あんたたち全員、何らかの当てはまる節があるんだよね」
「ん~、まあ、そうだろうな~」
「中には、ちょっと異常なケースもあるけど、そこら辺は参考程度な」
「にしても、よく教授がおまえなんかの質問に協力してくれたよな?」
その言葉に、ちょっと苦笑した茉莉絵さん。
茉莉絵さんが、当時まだマイナーだった『心理学』というジャンルへの進学を希望したのには、彼女自身、幼い頃から色々な心の葛藤や悩みがあり、それを解決出来たらというのが、そもそもの動機でした。
その最大の理由が、彼女がクオーターであったこと。
周囲から抜きん出て美しい容姿は、多くの人の興味を引き付ける反面、それが理由と思われる嫉妬やいじめの対象になったことも数知れません。
異性からの人気はあっても、その多くは彼女の見た目だけに惹かれる人がほとんどで、また、興味という点で性的な対象として見られることも多く、嫌な思いや、危険な目に遭い掛けたこともありました。
日本で生まれ、日本で育ち、自分自身では日本人だと思っていても、周囲からは『外国人』と言われ、ドイツへ行けば『日本人』と認識され、いったい自分の本当の居場所はどこなのか分からなくなることも。
同様のことは兄、詢さんも感じており、ハーフやクオーター特有のアイデンティティー・クライシスに関しても、理解してくれる人はほとんどおらず、悶々とひとり孤独に悩むしかなかったのです。
このところモテ期を迎え、急にたくさんの女子たちに騒がれるようになった聖くん。こうしたフィーバーは大抵が一過性もので、しばらくするとすぐに飽きられ、一斉に誰も興味を示さなくなるケースが多いのも事実。
それに翻弄され、本人が傷ついたりしないか気掛かりではありましたが、おそらく彼は大丈夫と確信していた茉莉絵さん。なぜなら、兄妹の中で一人違ったのは、彼には心を許せる友人がいるからです。
思春期を迎え、自我が確立し始める時期、この差がいかに大きいかは、茉莉絵さん自身良く分かっていましたし、聖くんが私たちを大切にするのも、彼もまた幼い頃からそうした思いをしてきたからに他なりません。
茉莉絵さんが在学する百合原学院大学では、通常三年生から学ぶ専門科目を、一年生から履修科目として取り入れていることが大きな特徴で、彼女がこの大学を選んだ理由の一つでした。
通常、大学の授業では一・二年生は語学・体育・一般教養などの科目を勉強するのが一般的ですが、ここに大きな落とし穴が。一生懸命努力してせっかく希望の学部に合格したにも関わらず、実際に目的の授業を受けられるのは、ずっと先になってしまいます。
その間にやる気を失くしてしまったり、いざ、その授業を受ける段になったときには、すっかり興味が薄らいでいたりと、勉強に身が入らずに退学する学生が少なからずいることも、問題視されていました。
そこで、『楽しくなければ勉強ではない』という理事長の考えで一念発起し、大きく学校改革をすることに。
通常三年生から学ぶところ、一年生から基本的な専門科目のゼミを取り入れたところ、学生のやる気が格段に上がり、退学率も減少。それまで二年だったところを四年かけて学ぶことで、学習効率も良くなった次第です。
その結果、大学全体がレベルアップし、それに伴って就職率もアップしたことで、将来を見越した入学希望者が増加するなどの相乗効果を産みました。
また、民間企業との共同研究を積極的に受け入れることで、潤沢な研究費を得られるようになり、教授をはじめとする研究者にとってより良い環境を整えることにも成功。
施設や設備が拡充すると、新たなジャンルの研究も始まり、そこに新設された学部から巣立った卒業生が就職した企業との新たなパイプが作られるなど、良い循環が出来上がって行ったのです。
自分の犯した大失態で、一時はどうなるかと焦りましたが、無事ピアノコンクールに優勝し、とりあえず朋華ちゃんのことは一件落着したものの、それ以外にも聖くんが抱えている悩み事は、未だ解決に至らず。
あれ以来、祖父と母の確執は決定的になってしまい、母に至っては、夫や子供たちの前でも平然と悪口を言うほど毛嫌いする有り様です。
ドイツへ行くか、日本に残るかの最終的な決断は自分に掛かっているだけに、どちらに転んだところで、まだ一悶着も二悶着もあるのだろうと思うと、気が重くなるばかりでした。
そして、もう一つの案件のほうはと言いますと。
廊下での一件を目撃して以来、冬翔くんへの疑惑は確信に変わったものの、何故彼が私に対してだけそんなことをするのか、まったく理解出来ずにいました。
もしあの時、少しでもナイフの位置がズレていたら、軽くて大怪我、最悪、死んでいてもおかしくない状況だったのです。
それほど、冬翔くんが振り下ろしたナイフには躊躇が感じられず、直後の至って普段と変わらない様子や、自分のピンチを冷静にフォローしてくれたギャップが、いっそう猟奇性を際立たせていました。
おそらく、以前に見た手の傷や、短く切られた髪も彼の仕業に違いなく、階段から突き落としたり、ナイフを突き立てたり、やることがどんどんエスカレートしている以上、このまま放置するわけにも行きません。
ですが、被害に遭っている本人含め、おそらく事実を知っているであろう女子たちまでが、頑なにそのことを否定し、口を割ろうとしないところをみると、何か重大な秘密があるに違いないと思うものの。
「あいつら、何を隠してんだよ…?」
いくら考えても、納得出来る理由が思い当たらず、ますます訳が分からなくなるばかりでした。
「あ゛ーーーっ!! もう、意味わかんねぇーっっ!!」
「うっせーな、さっきから一人で、ブツブツ言ったり叫んだり。病気か?」
「何だ、帰ってたのかよ、ブス」
いちいち癇に障る言い方をする弟のお尻に一発蹴りを入れ、ソファーに腰かけた茉莉絵さん。
思い出したように、教科書の入った鞄から一冊のファイルを取り出すと、それを聖くんへ放って寄越しました。
「何、これ?」
「前に、あんたたちが知りたがってたこうめの行動に関して、参考になりそうなレポートを集めといた」
見ると、かなりの枚数がコピーされ、分かり易いようにジャンルごとに分別されています。
「すげ! これ、おまえ一人で集めたんか?」
「教授に聞きながらだよ。一人で出来るかっつーの」
「だろーな~」
「うるせー! 礼を言え、礼を!」
「教授先生、ありがとうございまーす!」
ふざけた物言いの弟のお尻に、もう一発蹴りを入れると、真面目な顔で続けました。
「まあさ、こうめの場合、大丈夫だとは思う。けど、こうめだけじゃなくて、あんたたち全員、何らかの当てはまる節があるんだよね」
「ん~、まあ、そうだろうな~」
「中には、ちょっと異常なケースもあるけど、そこら辺は参考程度な」
「にしても、よく教授がおまえなんかの質問に協力してくれたよな?」
その言葉に、ちょっと苦笑した茉莉絵さん。
茉莉絵さんが、当時まだマイナーだった『心理学』というジャンルへの進学を希望したのには、彼女自身、幼い頃から色々な心の葛藤や悩みがあり、それを解決出来たらというのが、そもそもの動機でした。
その最大の理由が、彼女がクオーターであったこと。
周囲から抜きん出て美しい容姿は、多くの人の興味を引き付ける反面、それが理由と思われる嫉妬やいじめの対象になったことも数知れません。
異性からの人気はあっても、その多くは彼女の見た目だけに惹かれる人がほとんどで、また、興味という点で性的な対象として見られることも多く、嫌な思いや、危険な目に遭い掛けたこともありました。
日本で生まれ、日本で育ち、自分自身では日本人だと思っていても、周囲からは『外国人』と言われ、ドイツへ行けば『日本人』と認識され、いったい自分の本当の居場所はどこなのか分からなくなることも。
同様のことは兄、詢さんも感じており、ハーフやクオーター特有のアイデンティティー・クライシスに関しても、理解してくれる人はほとんどおらず、悶々とひとり孤独に悩むしかなかったのです。
このところモテ期を迎え、急にたくさんの女子たちに騒がれるようになった聖くん。こうしたフィーバーは大抵が一過性もので、しばらくするとすぐに飽きられ、一斉に誰も興味を示さなくなるケースが多いのも事実。
それに翻弄され、本人が傷ついたりしないか気掛かりではありましたが、おそらく彼は大丈夫と確信していた茉莉絵さん。なぜなら、兄妹の中で一人違ったのは、彼には心を許せる友人がいるからです。
思春期を迎え、自我が確立し始める時期、この差がいかに大きいかは、茉莉絵さん自身良く分かっていましたし、聖くんが私たちを大切にするのも、彼もまた幼い頃からそうした思いをしてきたからに他なりません。
茉莉絵さんが在学する百合原学院大学では、通常三年生から学ぶ専門科目を、一年生から履修科目として取り入れていることが大きな特徴で、彼女がこの大学を選んだ理由の一つでした。
通常、大学の授業では一・二年生は語学・体育・一般教養などの科目を勉強するのが一般的ですが、ここに大きな落とし穴が。一生懸命努力してせっかく希望の学部に合格したにも関わらず、実際に目的の授業を受けられるのは、ずっと先になってしまいます。
その間にやる気を失くしてしまったり、いざ、その授業を受ける段になったときには、すっかり興味が薄らいでいたりと、勉強に身が入らずに退学する学生が少なからずいることも、問題視されていました。
そこで、『楽しくなければ勉強ではない』という理事長の考えで一念発起し、大きく学校改革をすることに。
通常三年生から学ぶところ、一年生から基本的な専門科目のゼミを取り入れたところ、学生のやる気が格段に上がり、退学率も減少。それまで二年だったところを四年かけて学ぶことで、学習効率も良くなった次第です。
その結果、大学全体がレベルアップし、それに伴って就職率もアップしたことで、将来を見越した入学希望者が増加するなどの相乗効果を産みました。
また、民間企業との共同研究を積極的に受け入れることで、潤沢な研究費を得られるようになり、教授をはじめとする研究者にとってより良い環境を整えることにも成功。
施設や設備が拡充すると、新たなジャンルの研究も始まり、そこに新設された学部から巣立った卒業生が就職した企業との新たなパイプが作られるなど、良い循環が出来上がって行ったのです。