1話 追憶

文字数 1,134文字

8月に入り、連日真夏日が続いていました。


本日は猛暑日という予報にうんざりして、
朝から何もする気が起きず、
エアコンの効いたリビングのソファーで
微睡む猫たちの傍らに腰かけたまま、
ぼんやりしていた私。


ふと窓の外を見ると、
丁度お向かいの萩澤さんのお宅から、
制服を着た杏ちゃんが出掛けるところでした。


彼女は昨年、倍率4倍の難関をパスして、
藍玉女学園の中等科に合格。
現在二年生で、ピアノ部に所属し、
秋のコンクールに向けて、
この夏休みが追い込みとばかり毎日学校に通い、
有志の部員たちと一緒に猛練習しているのだとか。


わずか14歳にして、
『将来ピアニストになる』
というはっきりした夢を持ち、
それに向けてひたむきに努力を続ける姿には、
本当に頭が下がります。


バルコニーに倒れていた植木鉢を直そうと、
掃き出し窓を開けた私に気付き、
にっこり笑って小さく手を振る杏ちゃんに、
私も手を振り返したとき、
メールの着信がありました。


送信者は、私の中学時代の同級生で、
親友の笹塚朋華ちゃんでした。
私たちの出逢いは、藍玉女学園の中等科で
クラスメートになったことに始まります。


そう、私たちは杏ちゃんから遡ること、
28期前のOGで、
現在のピアノ部の前身である
『ピアノ同好会』を立ち上げたのも私たち。


杏ちゃんも憧れる、
世界的に有名なピアニストである彼女は、
現在ウィーンを拠点に活動。
5年前に国際結婚して、
3歳の双子のお母さんでもあります。


お盆の帰国に合わせて会う約束をしており、
メールには帰国日時の予定の詳細とともに、
家族4人でピースしている写真が添付されていました。


「朋ちゃんたち、相変わらずねぇ…」

 
窓越しに、陽炎の中を歩く杏ちゃんを見送っていると、
不意にあの頃の記憶が鮮明に蘇りました。




当時はまだ『10年』という歳月の実感すらない子供だった時代。




思春期の入り口で、
遣り場のない親への不満や、
将来への漠然とした不安、
束縛された環境の中、
何一つ自由にならないもどかしさに、
何が本当の自分なのかも分からずにいました。


一途なあまりに翻弄される友情と恋心、
その幼さゆえの葛藤や嘘に、
誰が敵で味方なのかも分からず、
ときに優しさが凶器となることを知らずに、
無垢で純情な感情が招いたものは、
残酷な結末でした。


もし、今の経験値を、
あの頃の自分が持ち合わせていれば、
もっとうまく立ち回れたのにと、
悔やんでみたところで、
もう二度と、過ぎた時間は戻りません。


今では、古い日記に挟んだ、
色褪せた一枚の写真と、
チャームのついたキーホルダー、
そして薄れることのない記憶だけが、
あの時、あの場所に、
自分たちが存在していた証です。



私の名前は、松武こうめ。


これは私が13歳、中学二年生のときに、
今も大切な友人たちと過ごした、
遠い日々のお話です。




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