70話 思惑
文字数 2,701文字
食事を終えた小夜子さんは、おもむろに亜妃さんのピアノに歩み寄ると、懐かしそうに鍵盤に触れ、
「久しぶり、亜妃…」
亜妃さんの写真にそう語り掛けると、シューベルトの『アヴェ・マリア』を奏で始めたのです。
さらに、サンサーンスの『白鳥』、シューベルトの『セレナーデ』、フォーレの『シチリアーノ』、バッハの『ポロネーズ』、ビゼーの『アルルの女』を立て続けに演奏する小夜子さん。
それらはかつて、亜妃さんのステージにゲスト出演した際にアンサンブルした曲で、円熟味のあるその音色からは、居るはずのない亜妃さんのフルートが聞こえてくるような錯覚を起こすほど。
拍手喝采の中、次に彼女が奏でた曲、それは、ショパンのピアノソナタ第2番、第3楽章『葬送行進曲』でした。
14年前、親友に手向けたその曲を、再び同じ場所で、その息子のために奏でることを、いったい誰が想像したでしょう。
誰一人言葉も発せず、演奏に聴き入る中、突然、おぼつかない足取りで現れた保さん。ふらふらしながら、引き寄せられるようにして小夜子さんに歩み寄った次の瞬間、
「亜妃…!」
妻の名を叫びながら、いきなり背後から抱き着いたのです。
「ちょっ…! 何すんのよっ!!」
「てめっ!」「おばさんに触んなっ!」
慌てて保さんに飛び掛かった聖くんと冬翔くんより一瞬早く、広瀬川さんたちが小夜子さんから引き離し、床に捻じ伏せました。
「笹塚さん、大丈夫!?」「怪我はありませんか!?」
「ありがとう、大丈夫。手も無事だったみたいです」
「良かった…!」
いつも、朋華ちゃんには口を酸っぱくして言う小夜子さんもまた、手が命のピアニストです。
騒然とする室内で、取り押さえられも尚、
「亜妃…! 夏輝…! 僕を一人にしないでくれ…!」
そう泣き崩れている保さん。
小夜子さんが奏でるメロディーに、亡き妻を思い出したとでもいうのでしょうか、とても正常な判断など出来ない状態であることは、誰の目にも確かでした。
部屋へ連れ戻される保さんを見送る私たちを横目に、空席になったピアノの前に腰かけた朋華ちゃん。
「朋華…?」
「夏輝くんは、私が送る。ママが昔、亜妃さんをそうしたように。それが、ピアニストとして私が夏輝くんに出来る、唯一のことだから…」
小さく深呼吸すると瞳を閉じ、あらためて先ほど小夜子さんが弾いていた『葬送行進曲』を弾き始めたのです。
朋華ちゃんの紡ぎ出す音色は、ガラスのように繊細でありながらも、力強い生命力に満ち溢れ、私たち全員の『想い』を乗せ、夏輝くんに捧げられました。
その演奏は、これまで一度も娘の演奏を褒めたことがなかった小夜子さんに、『魂が宿っていた』と言わしめるほど、彼女のピアニスト人生の中での至極の一曲でした。
そしてこの出来事が、やがて世界的ピアニストである母親を超える大きな礎となるのですが、それはまた別のお話。
そんなことがあって、保さんを葬儀に参加させるべきか否か、大人たちの話し合いが持たれました。
今の精神状態では、式の最中に奇行に走る可能性もある一方で、さすがに実の息子の葬儀に参加させないというのも、人としてどうなのかという意見も。かといって、葬儀が中断するような事態だけは避けなければなりません。
そこで、事情を知る男性陣が側に待機し、少しでも妙な動きをしたら、即撤収させるという段取りになったのですが、結局、通夜・告別式の間中、保さんは立ち上がることも出来ずに、ただただ泣き続けるばかり。
その姿が、何も知らない参列者の涙を誘っていましたが、元を正せば、すべては自分が蒔いた種が起こした事であり、彼の本性を知る私たちには、弔問客の労いの言葉さえもが皮肉に聞こえるのです。
そんなふがいない父親に代わり、しっかりと喪主の代役を務めた冬翔くん。
母親はとうになくなり、祖母も心臓発作で入院中のため参列出来ず、家族席に一緒に着席した私たち。重責を担わなければならない冬翔くんの不安を、少しでも軽減させようという、大人たちの配慮でした。
大人たちの配慮ということで、こんなこともありました。
葬儀当日の新聞に、割と大きく夏輝くんの死亡記事が掲載されたのですが、その記事の中に書かれていた亡くなった経緯に、違和感を覚えた私たち。
『…浴室で転倒した際、落ちていたカミソリで負傷。『フォン・ヴィレブランド病』のため出血が止まらず、意識不明で倒れていたところを、帰宅した弟により発見された。救急車を待つ間、駆け付けた友人たちと蘇生を続けたが、残念ながら手遅れとなり…』
と記述されていたのです。
文中に『自殺』や『虐待』という文言は一切含まれず、私たちが訪れた状況や時系列も実際とは異なっていて、まるで偶発的な事故死だったと取れる内容で、何故こんな記事が書かれたのか困惑する私たちに、
「僕が、新聞社に頼んで、書いて貰ったんだよ」
と答えた国枝氏。
「事実と全然違うじゃん!」
「何で、そんなことしたの!?」
口々に抗議する私たちに、すべては、夏輝くんと冬翔くんの名誉を守るためにしたことなのだと説明したのです。
ですが、事実を隠蔽すれば、保さんのしたことまで、すべて無かったことにされ兼ねず、そうさせないための夏輝くんの行動が、意味をなさなくなってしまうのではないかという懸念から、不信感が募ります。
「勿論、保がしたことを無かったことにするつもりなんて、全然ないよ。むしろ、僕たち周囲の大人が気づいてやれなかったことを、本当に申し訳なく思ってる」
「だったら…!」
「みんなの気持ちは分かる。でも、事実は直接関係のある人間が、ちゃんと知っていれば良いことだと思うんだよ」
「でも…!」「だけど…!」
「事実を公表することが、必ずしも正義とは限らないよ。君たちももう中学生なら、その先の展開までちゃんと考えた上で、発言や行動に責任を持たないとね」
瀬尾先生にそう言われ、返す言葉を失くした私たち。事実を詳らかにすることは、すなわち冬翔くんが受けた虐待の内容まで公になるということです。
「僕は、それでも構わないけど」
淡々とした表情で、そう答えた冬翔くんでしたが、はいそうですかと受け入れられるはずなどありません。
「結局、あのクソオヤジだけが得するってことかよ!」
悔しそうにそう吐き捨てた聖くんに、国枝氏は大きく頭 を振りました。
「そんなことはない。保なら、罰を受けてるよ。死ぬより辛い罰を…」
「何なんだよ、罰って?」
「じきに分かるよ」
彼が言った通り、私たちもすぐにその意味を理解することになるのですが、同時にそれは、北御門家の今後にも大きく影響するのでした。
「久しぶり、亜妃…」
亜妃さんの写真にそう語り掛けると、シューベルトの『アヴェ・マリア』を奏で始めたのです。
さらに、サンサーンスの『白鳥』、シューベルトの『セレナーデ』、フォーレの『シチリアーノ』、バッハの『ポロネーズ』、ビゼーの『アルルの女』を立て続けに演奏する小夜子さん。
それらはかつて、亜妃さんのステージにゲスト出演した際にアンサンブルした曲で、円熟味のあるその音色からは、居るはずのない亜妃さんのフルートが聞こえてくるような錯覚を起こすほど。
拍手喝采の中、次に彼女が奏でた曲、それは、ショパンのピアノソナタ第2番、第3楽章『葬送行進曲』でした。
14年前、親友に手向けたその曲を、再び同じ場所で、その息子のために奏でることを、いったい誰が想像したでしょう。
誰一人言葉も発せず、演奏に聴き入る中、突然、おぼつかない足取りで現れた保さん。ふらふらしながら、引き寄せられるようにして小夜子さんに歩み寄った次の瞬間、
「亜妃…!」
妻の名を叫びながら、いきなり背後から抱き着いたのです。
「ちょっ…! 何すんのよっ!!」
「てめっ!」「おばさんに触んなっ!」
慌てて保さんに飛び掛かった聖くんと冬翔くんより一瞬早く、広瀬川さんたちが小夜子さんから引き離し、床に捻じ伏せました。
「笹塚さん、大丈夫!?」「怪我はありませんか!?」
「ありがとう、大丈夫。手も無事だったみたいです」
「良かった…!」
いつも、朋華ちゃんには口を酸っぱくして言う小夜子さんもまた、手が命のピアニストです。
騒然とする室内で、取り押さえられも尚、
「亜妃…! 夏輝…! 僕を一人にしないでくれ…!」
そう泣き崩れている保さん。
小夜子さんが奏でるメロディーに、亡き妻を思い出したとでもいうのでしょうか、とても正常な判断など出来ない状態であることは、誰の目にも確かでした。
部屋へ連れ戻される保さんを見送る私たちを横目に、空席になったピアノの前に腰かけた朋華ちゃん。
「朋華…?」
「夏輝くんは、私が送る。ママが昔、亜妃さんをそうしたように。それが、ピアニストとして私が夏輝くんに出来る、唯一のことだから…」
小さく深呼吸すると瞳を閉じ、あらためて先ほど小夜子さんが弾いていた『葬送行進曲』を弾き始めたのです。
朋華ちゃんの紡ぎ出す音色は、ガラスのように繊細でありながらも、力強い生命力に満ち溢れ、私たち全員の『想い』を乗せ、夏輝くんに捧げられました。
その演奏は、これまで一度も娘の演奏を褒めたことがなかった小夜子さんに、『魂が宿っていた』と言わしめるほど、彼女のピアニスト人生の中での至極の一曲でした。
そしてこの出来事が、やがて世界的ピアニストである母親を超える大きな礎となるのですが、それはまた別のお話。
そんなことがあって、保さんを葬儀に参加させるべきか否か、大人たちの話し合いが持たれました。
今の精神状態では、式の最中に奇行に走る可能性もある一方で、さすがに実の息子の葬儀に参加させないというのも、人としてどうなのかという意見も。かといって、葬儀が中断するような事態だけは避けなければなりません。
そこで、事情を知る男性陣が側に待機し、少しでも妙な動きをしたら、即撤収させるという段取りになったのですが、結局、通夜・告別式の間中、保さんは立ち上がることも出来ずに、ただただ泣き続けるばかり。
その姿が、何も知らない参列者の涙を誘っていましたが、元を正せば、すべては自分が蒔いた種が起こした事であり、彼の本性を知る私たちには、弔問客の労いの言葉さえもが皮肉に聞こえるのです。
そんなふがいない父親に代わり、しっかりと喪主の代役を務めた冬翔くん。
母親はとうになくなり、祖母も心臓発作で入院中のため参列出来ず、家族席に一緒に着席した私たち。重責を担わなければならない冬翔くんの不安を、少しでも軽減させようという、大人たちの配慮でした。
大人たちの配慮ということで、こんなこともありました。
葬儀当日の新聞に、割と大きく夏輝くんの死亡記事が掲載されたのですが、その記事の中に書かれていた亡くなった経緯に、違和感を覚えた私たち。
『…浴室で転倒した際、落ちていたカミソリで負傷。『フォン・ヴィレブランド病』のため出血が止まらず、意識不明で倒れていたところを、帰宅した弟により発見された。救急車を待つ間、駆け付けた友人たちと蘇生を続けたが、残念ながら手遅れとなり…』
と記述されていたのです。
文中に『自殺』や『虐待』という文言は一切含まれず、私たちが訪れた状況や時系列も実際とは異なっていて、まるで偶発的な事故死だったと取れる内容で、何故こんな記事が書かれたのか困惑する私たちに、
「僕が、新聞社に頼んで、書いて貰ったんだよ」
と答えた国枝氏。
「事実と全然違うじゃん!」
「何で、そんなことしたの!?」
口々に抗議する私たちに、すべては、夏輝くんと冬翔くんの名誉を守るためにしたことなのだと説明したのです。
ですが、事実を隠蔽すれば、保さんのしたことまで、すべて無かったことにされ兼ねず、そうさせないための夏輝くんの行動が、意味をなさなくなってしまうのではないかという懸念から、不信感が募ります。
「勿論、保がしたことを無かったことにするつもりなんて、全然ないよ。むしろ、僕たち周囲の大人が気づいてやれなかったことを、本当に申し訳なく思ってる」
「だったら…!」
「みんなの気持ちは分かる。でも、事実は直接関係のある人間が、ちゃんと知っていれば良いことだと思うんだよ」
「でも…!」「だけど…!」
「事実を公表することが、必ずしも正義とは限らないよ。君たちももう中学生なら、その先の展開までちゃんと考えた上で、発言や行動に責任を持たないとね」
瀬尾先生にそう言われ、返す言葉を失くした私たち。事実を詳らかにすることは、すなわち冬翔くんが受けた虐待の内容まで公になるということです。
「僕は、それでも構わないけど」
淡々とした表情で、そう答えた冬翔くんでしたが、はいそうですかと受け入れられるはずなどありません。
「結局、あのクソオヤジだけが得するってことかよ!」
悔しそうにそう吐き捨てた聖くんに、国枝氏は大きく
「そんなことはない。保なら、罰を受けてるよ。死ぬより辛い罰を…」
「何なんだよ、罰って?」
「じきに分かるよ」
彼が言った通り、私たちもすぐにその意味を理解することになるのですが、同時にそれは、北御門家の今後にも大きく影響するのでした。