思い通りに動かない体に鞭を打ち、廊下をひた走る。後ろからは普段ミステリアスな垂れ目を釣り上げたベルタ・ペンデルトン教授が迫ってきており。その気迫に怯えながら、エイミー・ツムシュテークは飛んでくる電粒子で作られた鎖を避け必死に逃げていた。息は既に上がっており、走る振動で横腹が悲鳴をあげる。このままでは捕まるのも時間の問題だろう。
事の発端は、今日一日の最後の授業が終わった時だ。A組の創造呪文の授業が終わり、皆が寮への道を帰る中、ソヨンと共に高等部女子寮へと戻ろうとしていたエイミーは、教室を出る前にベルタに呼び止められた。その理由は彼女にもすぐに分かった。ここ数日耳にタコが出来るほど聞かされた言葉だ。「ジャージを脱いで制服に着替えなさい」と。エイミーはいつも通り断固として拒否したのだが、ベルタの方も今日こそ引くわけにはいかない理由があった。今朝、校長からお達しがあったのである。頭の固い校長のことだ。早いところエイミーをなんとかしないと、きついお叱りを受けることとなるだろう。何よりもベルタは校長のことが苦手だった。故に、出来るだけ早くこの心配の芽を摘まねば。それだけがベルタの切実な願いなのだ。
tsuduri
取り敢えず突き当りで角を曲がり、それから逃げ道を探そう。エイミーは減速し休暇明けのワックスでつるつる滑る床をバタバタとドリフトしながら左へ曲がる。曲がった後は真っすぐ続く廊下と、教室の立ち並ぶ廊下へと続く曲がり道が一つ。少しの判断遅れが命取りだ。エイミーはがらんとした奥へ続く廊下へ目を向けると、右方向へと続く曲がり道を無視しそのまま奥へと走った。しかし、彼女はこの後すぐにそれが判断ミスであったと気づくこととなる。
tsuduri
思わず「ひっ」と息を呑む。待ち受けていた人物は柱の影からその姿を現すと、走るエイミーの前に立ちはだかった。
tsuduri
ニヤリと不敵に笑うのは三上柑菜。エイミーの一番の友人であり、悪友でもある。柑菜にとってエイミーはビクトリア魔法学校で初めて出来た友人故、彼女はエイミーの味方になることが当然多かった(破天荒なエイミーに一方的に翻弄されているとも言う)。しかし、今日ばかりは違う。 慌ててブレーキをかけるエイミーの足元に水を散らし、彼女を滑らせ足止めすると。ゆっくりエイミーの元へと歩み寄り、柑菜は不敵に笑った。
tsuduri
そろそろ観念しろ。あたしだって友達を売るなんて真似はしたくないんだよ。
そういうわけにもいかないだろ。それをあんたにあげたのはあたしなんだから。
エイミーは懐に収めていた杖を取り、その先を柑菜へ向けた。二人対峙する形となり、じりじりと睨み合う。後ろからベルタの怒号が聞こえ、エイミーはチラリと後ろへ視線を向けた。前門の柑菜、後門のベルタといったところであろうか。絶体絶命。そんな言葉が彼女の脳内をかけ巡る。
しかしその刹那。睨み合う三人の元に何も知らぬ赤毛の男子生徒が通りがかった。A組のブレイン・ローガンだ。彼は三人を横目で怪訝そうに見遣り、柑菜の姿にソワソワと頬を赤らめながら、何事も無かったかのように通り過ぎようとする。しかし、そんな彼の首元にエイミーの腕が伸びる。柑菜とベルタが「しまった」と思った時にはもう遅かった。ブレインはエイミーに引き寄せられ、首をがっちりとホールドされてしまったのだ。そして頬に突き付けられた杖先が視界に入ると、ブレインは戸惑ったように「え、え……?」と声を上げながら自身を捕らえるエイミーを横目で見遣った。
tsuduri
ブレインは自身の頭を抱え、恐怖に震える。ただ通りかかっただけなのに、何故こんな仕打ちを受けなければならないのか。ブレインは、目の前で困惑しつつ佇む柑菜に目でSOSを訴えたが、彼女は目を逸らすだけで助けてはくれなかった。後ろに立つベルタも同様だ。今この二人にとっては、ブレインの髪を守るよりもエイミーの捕獲が最重要項らしい。
tsuduri
貴方も、余計な真似をすれば髪がボン! だと肝に銘じなさい。
エイミーは常識的な限度というものを知らない。同じ問題児である柑菜も、そこは彼女と知り合って早々に見抜いた事であった。つまり、彼女が「これ以上近づいたらこの男子生徒の髪を消失させる」と言ったら本当にやるつもりということだ。
tsuduri
ツムシュテーク、目が本気なんだって……! 何がなんだか知んないけど、二人とも離れてくれよ、頼むから!
ブレインの必死の懇願に、柑菜とベルタは互いに顔を見合わせると。ベルタが「分かったわ」と杖を床に起き、それを合図に二人は少しずつエイミーから距離を置いた
tsuduri
ふっふっふ、それが賢明ですわね……。では、行きますわよMr.ローガン。
は!? 行くって、これで解放してくれるんじゃ……。
完全に安全が確認できるまで、協力していただきますわ。
ブレインの声は、先程エイミーが曲がらず通り過ぎた教室棟の廊下へとエイミーの姿と共に消えていく。ベルタと柑菜はというと、二人揃って舌打ちすると。杖を拾ってまたエイミーの背を追いかけ始めるのであった。
あの手この手で(主にブレインを盾にし)漸く二人を撒いたエイミーは。隣で息を切らすブレインの顔を覗き込んだ。二人は廊下の隅にひっそりと置かれた大きなダンボールに身を隠しており、持ち手になっている穴から外の様子を窺う。
tsuduri
ごめんなさい……。柑菜とペンデルトン教授があまりにも執拗に追いかけてくるものですから。
柑菜の名を聞いた瞬間、顔をほんのりと赤らめるブレイン。彼は「い、一体、その。何をしたらあの二人に追いかけられるの?」と、顔を隠しながら吃りつつ問う。そんな彼の様子に気づかぬまま、彼女は大きくため息をついて彼の問に答えた。
tsuduri
それだけ聞いてブレインは納得した。一体何があったのかは知らないが、ここ数日ずっとエイミーがジャージとジーパン姿なのだ。恐らくA組の生徒だけでなく高等部の殆どの生徒達が疑問に思っていることだろう。ト・ソヨンが言っていたのを盗み聞いた話では「とても着心地が良くスカートが捲れる心配が無いから」という理由でこの服装になったのだそうだが。まさか本当にそんなバカげた理由で毎日この姿でいるのか、彼は少し半信半疑でいた。
tsuduri
えぇ、とても……。だってわたくし、初めてこんな服を着ましたのよ。それに、初めて出来たお友達──と言いますか、柑菜に戴いた物ですし……。そう簡単に脱いだりはしませんわ。
自分だったら絶対そんな合わせ方はしたくないけど……。と、心の中で付け足して。ブレインは愛想笑いを浮かべ彼女の顔を見遣る。彼女の表情は真剣そのもので、余程この服を気に入っているのだろうということが手に取るように分かった。そして同時に。
tsuduri
えぇ。このジャージもジーンズも、柑菜から戴いた物ですわ。
彼女のその言葉と同時に、ブレインはダンボールが動いてしまうのも厭わずしゃがみこんだまま後ずさりする。
tsuduri
い、言われてみれば柑菜の香りが……!くそっ、俺としたことがなんで気づかなかったんだ!
突然様子が変わった彼に、不思議そうに近づくエイミー。近づけば近づくほど香る柑菜の匂いにブレインは狼狽えると、慌てて更に後退りした。しかし、それがよくなかったようで。今居るこの場が傾き始めたとエイミーが気づいた頃には、二人の居る場所──ダンボールは、倒れて二人を外へと放り出してしまった。
tsuduri
近くを通りがかっていた生徒が二人の突然の登場に驚き飛び退く。遠くで二人を見つけた柑菜の「居た!」という鋭い声が聞こえてくると、エイミーはその生徒やブレインに構う事なく走り出した。
「な、なんでダンボールの中からローガンとツムシュテークが出て……。もしかして」
tsuduri
えぇっ!? い、いや何か変な想像してない!? 違うから、違うから!
ブレインの必死の弁解も虚しく、その生徒は誤解したまま口を抑える。入れ違いに駆けてきた柑菜に胸ぐらを掴まれたブレインは、突如接近してきた彼女の姿に驚愕し顔を真っ赤にした。
tsuduri
柑菜の存在を知り一目惚れして以降、初めての急接近にパニックを起こし。彼は言葉にならぬ声をあげたかと思うと、彼女に胸ぐらを掴まれたまま失神した。その瞬間、物が言えなくなったと認識した柑菜は。瞬時にブレインの胸ぐらを掴んだ手を離し、エイミーが走り去った方へと向かう。そんな中取り残された目撃生徒はというと。「面白い物を見た!」と言わんばかりにスマートフォンを取り出しクラス全員にチャットを送信するのだった。彼のせいで誤解が学年中に広まってしまったのは言うまでもないことだろう。
そんなドタバタ劇が繰り広げられていることなど露知らず。本日の授業が全て終わり、首を鳴らしながら破壊呪文科室へと続く廊下を歩いていたアダルブレヒト・カレンベルクは、杖を一振りし廊下の奥に見える破壊呪文科室の鍵を開けた。今日は一年生の課題の採点と、近づいてきた試験の問題作りをしなくては。果てしない仕事の量に溜め息をつき、彼は漸く着いた破壊呪文科室のドアノブを回した。しかし、そのドアノブは固い音を立てつっかえるだけで、開いてくれない。不思議に思いつつドアノブを注視すれば、鍵が掛かっていることに気づき。彼は首を傾げた。先程使ったのは鍵魔法である。鍵を開ける為の物でなく、その名の通り鍵の代わりとなる呪文だ。開いている扉に一度使えば鍵がかかり、閉まっている扉に使えば鍵が開くといった仕様である。つまり、今一度鍵魔法を使い鍵がかかっていたということは、元から開いていたということだ。出る時に鍵をかけ忘れたのか。そう考えつつもう一度呪文をかける。そしてドアノブを回し扉を開けると。
「アル教官」
そこに横から女子生徒が割り込んできた。彼女は確か薬学科──三年B組の生徒だった筈。通りすがりだろうか。慌てて愛想のいい笑みで彼女に応えると、彼女はアダルブレヒトの腕に自身の腕を絡ませて口を開いた。
「この間出された課題のことで質問したいことがあるんですけど、いいですか?」
tsuduri
「やったぁ! それじゃあ──」
腕を絡ませたまま中へ入ろうとする彼女の腕をやんわりと解き、彼女を中へ促せば。アダルブレヒトはその後ろに続いて部屋へ入り、教材を机に置く。恐らく、彼女は授業についての質問をする気などさらさら無いのだろう。それは、彼女が現れた瞬間の表情を見てすぐに分かった。そしてその読み通り、彼女は後ろからアダルブレヒトの背中に抱き着き、甘えた声で彼に話しかける。まさかこんなにも早く行動に移されると思ってはいなかった為、アダルブレヒトは顔が見えないのをいい事に思い切り顔を歪めた。
「アル教官……。実は、質問があるっていうのは嘘なの。本当は、本当は……」
彼女が言い切る前に口を開く。
tsuduri
君で何人目だろうね。よくあるんだ、生徒から罰ゲームで告白されるっていうことが。
本当のことだ。アダルブレヒトは新任の頃からその柔らか(に見える)な物腰と端麗な容姿のせいか、生徒の罰ゲームに利用されることが多々あった。その半分以上は「あわよくば」という下心からくる告白であったが。彼はそんな彼らを毎回ただただ軽くあしらうだけである。見抜かれたことに驚いたのか、女子生徒は数秒黙り込んでいたが。すぐに小さく震えるような声で「本気です」と訴えると、彼の前に回り込んで言い放った。
「確かにわたしは今、罰ゲームで告白をしようとしました。でも、好きなのは本当です!」
tsuduri
熱烈な彼女のアプローチに、即答であっさりとそう返すアダルブレヒト。彼女は一瞬何を言われたのか分からず目をぱちくりと瞬かせ「えっ!?」と大声を上げた。
「本気で言ってるんですか? わたし、結構男の子からも人気あるし、付き合っても絶対に誰にも言いませんよ!?」
tsuduri
君がどうであろうと、まともな大人なら高校生には手を出さないさ。
至極真っ当な理由である。ただし、彼の場合はただ”子供に興味が無いだけ”というのが正直な理由で。彼にはこの女子生徒の誘いに乗れる程の心の隙など無かったのだ。押せばなんとかなると思っていたらしい彼女も、取り付く島がないと見ると、小さく溜め息をついて彼からそっと離れた。
「そんなだからいつまで経っても独身なんですよ」
tsuduri
「とにかく、失礼しますっ!」
捨て台詞に仕返しされると思ったのか、彼女は逃げるように部屋を去り。アダルブレヒトはほんの少しだけ口角を上げた。卒業間近とはいえ、十代はまだまだ子供だ。親しみやすい教師を演じるというのも、なかなか面倒な問題が発生しやすいらしい。そして、問題はもう一つ。
それは、この部屋に入った時、瞬時に気づいたことである。基本教官というのは初等部、中高等部の各教科に一人ずつしかいない。故に、割り当てられた教科室は全てその教科を受け持つ教官の私室と繋がっており。破壊呪文科室内にも勿論、私室へと繋がる扉があった。アダルブレヒトはいつも自身が居ない時にはその部屋の鍵をかけていたし、先程の破壊呪文科室の扉もそうだ。しかし、今日はどちらの扉の鍵も開いているようで。彼は其処に何か異様な気配を感じていたのだ。間違いなく誰か、先程の女子生徒とは違う第三者が居る。彼はそう確信し、私室へと続く扉を開けた。
tsuduri
扉の枠に凭れ、部屋の隅に据えられたベッド──の上にこんもりと盛り上がったシーツの山に問いかける。すると、そのシーツの山は分かりやすくビクリと震えたあと、モソモソと動き始め。やがてシーツの端からヒョコリと縦巻きのツインテールが姿を現した。
tsuduri
も、申し訳ございません……! ペンデルトン教授や柑菜から逃げていたら、この部屋の鍵が開いていることに気づいて……。教官の部屋とは気づきませんでしたの……。
教官が入ってくるほんの少し前ですわ。上級生の方と一緒に入って来られたので混乱してしまって……。それで、偶然開いていたこの部屋に入ってベッドに潜り込みましたの。
ということは、やっぱり鍵をかけ忘れていたんだな……。はぁ、駄目だなぁ……。
そもそも、アダルブレヒトと呪文の暗号を知る校長以外は、鍵がかけられた教科室や教師教官の私室を開けることはできない為、当たり前と言えば当たり前なのだが。自身の脳の老化が進んだのかと苦悩するアダルブレヒトに、エイミーは首を曲げて問い掛ける。
tsuduri
いや、なんでも……。それより、ベルタやMs.ミカミに追いかけられていると言ったね。どうして?
彼女はシーツに包まったまま、膝を抱えて視線を落した。納得がいかない、とは?小さな子どものように頬を膨らませる彼女に首を傾げ、アダルブレヒトは彼女に続きを促した。
tsuduri
わたくし以外にも、学校指定外の服装をしていたり、不要なアクセサリーを付けている方は沢山居らっしゃいますわ。それなのに、どうしてわたくしばかりがあんなにしつこく追いかけられなくてはなりませんの?授業は誰よりも真面目に受けていますのに……。
オーストラリアの諸校は、校則などあって無いようなものだ。ここ、ビクトリア魔法学校も諸校と違い、イギリスの高校に倣って制服が定まってはいるものの、気候柄きちんと制服を着ている者は少ない。アダルブレヒトの様に、真夏だというのにYシャツにきっちりとネクタイを締める姿をした教師も居ない程である。メイクも染髪も違反と言いつつ取り締まられている者など居ないのだから、エイミーの疑問は当たり前だろう。しかし、アダルブレヒトは知っていた。彼女だけが厳しく取り締まられている理由を。それが校長による私怨であるということを。彼女はアダルブレヒトを甚く気に入っており(面食いだということは教師陣周知の事実であるから)、事あるごとに彼を呼び出しては校内や自身の事情を事細かに愚痴るのが日課だった。そして聞かされたのが、エイミーによるイライザに対する仕返しの流れ弾を喰らったという話だった。その日はよりによってイギリスからの支援者を迎え入れる日だった為、かなりめかしこんでいたらしく。高そうなアイボリーのスーツが、エイミーの放ったヘドロの地図になっていたような。彼はそれを思い返し、僅かに口角を上げた。
tsuduri
まぁ、ペンデルトン教授にも事情があるんだよ。上からの圧力だとか……。
ベルタは校長をとても苦手としていた。断るとやんや言われることが目に見えていた為、エイミーへの指導を断れなかったのだろう。更に、エイミーはただでさえ同学年の中で悪目立ちし始めている。古いほつれかかったジャージやすすけたジーンズで過ごされるのは、ベルタの精神衛生上とても気になるのかもしれない。教官の仕事ではないが少し手助けしてやるか。と、アダルブレヒトはフゥッと息をつき。腕を組んでじっとエイミーの目を見据えた。何を言われるのか、彼まで敵になるのかと身構える可能性とかだったが、その気は無いと見ると上目でおずおず彼を見上げる。
tsuduri
彼女達から逃げてまで、ほぼ毎日その服装だよね。相当大切な物なんだと見受けられるけれど。
えぇ、その通りですわ。柑菜に頂きましたの。彼女はもう着ない要らない物と仰っていましたが……。わたくしにとってはとても大事な物ですもの。
それを聞いてしまうと、このまま彼女からこの服を奪うのは可哀想な気もする。上手い落とし所は……?アダルブレヒトは目を伏せ、顎に手を添えた。そして暫し考え込んだ後、ベッドの端に座り彼女の方を振り返る。
tsuduri
君がそれをとても大事にしているのはよく分かった。毎日着たくなるのも頷ける。しかし、毎日洗って毎日着ていたら、既にボロボロのそれは一年も経たない内にただの布切れになってしまうよ。
まぁ!そうなんですの?一回洗ってもあまり変わらないから、とても頑丈なのかと思っていましたわ。
エイミーの言葉に彼は一瞬首を傾げた。一度洗うと劣化する服とは?と、考えを巡らせつつ。そんなアダルブレヒトの脳裏に、彼がまだ幼かった頃に彼の母親が呟いていた話を思い出す。高価な服は一度着たら捨てることを前提に作られているから、一度洗っただけで信じられないほど劣化してしまうのだという。アダルブレヒトもエイミーも良家の人間だ。恐らく彼女も彼の母親と同じ事を言っているのだろう。そして大抵の服は一度洗えば捨てる物と認識しているのだから、何度洗っても変わらないように見えるジャージとジーンズは、彼女にとって魔法の服に思えたのかもしれない。
tsuduri
どんなに気に入っていても、捨てなければならないなんて辛いものよ。
眉尻を下げてそう呟くエイミーに、アダルブレヒトは苦虫を噛み潰した。「あの人が一言一句違わず同じことを言っていたな」と、遠い記憶に思いを馳せ、あどけない少女の姿と重ねながら。そんな彼にエイミーが「どうしまして?」と顔を覗き込むと、アダルブレヒトは慌てて頭を振り愛想の良い笑みを浮かべる。
tsuduri
まぁとにかく。その服は大事な時の為に取っておいたらいいんじゃないかな?
大事な時の為に……。まぁ、それは……。とても素敵な響きですわね!承知致しました。わたくし、この服は大事にとっておくことに致します。
なんだ、簡単じゃないか。と、アダルブレヒトはほっと胸を撫で下ろした。ベルタや柑菜の様に、毎日あそこまで追いかけて無理矢理着替えさせるなんてことは最初からしなくても良かったのだ。まるで北風と太陽だな。と、アダルブレヒトは嬉しそうな彼女を眺めながらクスリと笑う。その思いを知ってか知らずか、エイミーはニコリと笑うとベッドから這い出て立ち上がり、その場でくるりと一回転する。そしてハッと何かに気づいたようにアダルブレヒトの方に向き直ると、眉尻を下げ口を開いた。
tsuduri
あの、教官。その……。勝手にベッドに入ってすみませんでした。
あぁ。いや、構わないさ。わざとじゃあないんだろう。
良かった……。それでは教官、失礼致します。ご機嫌よう。
意気揚々と部屋を出ていくエイミーの背中を見送り、彼は彼女が隠れていた場所にそのまま倒れ込んだ。良き教官を演じるというのは、彼にとってとても疲れることなのだ。しかし、ベルタにエイミーがジャージをやめるということを伝えれば、きっと彼女は飛び付いて喜ぶことだろう。そんな夢物語を頭の中で描きつつ、アダルブレヒトは小さく口角を上げるのだった。
そして、エイミーはというと。真っ直ぐ寮へと戻り自室の扉を開け、中に居た柑菜に早速呼びかける。今まで鬼ごっこをしていたことは頭からすっぽりと抜けているようだ。
tsuduri
今の今まで追い追われていた仲だというのに、真正面から堂々とやって来たエイミーに、柑菜は暫し口を開けて驚いていたが。すぐにその口を引き締めると、彼女はニヤリと笑った。
tsuduri
……エイミー。ノコノコと帰ってきやがったか。漸く観念したってことだな?
柑菜の語尾に被せ気味にそう言ったエイミーに、またもや柑菜の口が開く。姿を消していたこの
一時間程度の間に、彼女に何が。とにかく、柑菜は頭に浮かんだ台詞をそのまま口にする。
tsuduri
何が何やらさっぱり、とでも言うように首を傾げエイミーの答えを待っていると。エイミーはジャージを脱ぎフリルのブラウスに着替え、脱いだジャージを大切そうに洗濯籠に入れながら微笑んだ。
tsuduri
この服は宝物ですから。大事にしまっておくことにしましたの。
一体何があって、誰に言われてそうすることにしたのか。聞きたいことは沢山あったが、取り敢えず悩みの種が消えたことに安心し、柑菜は密かに息をつく。これでベルタからの圧力も無くなることだろう。そう踏んだ彼女だったが、エイミーの次の言葉でその安心はまた不安の種へとかわった。
tsuduri
ですから、次の週末までは制服で我慢することに致します!
えぇ、次の週末はレニへのプレゼントと、新しい普段着用のジャージとジーンズを買いに行きますわ!
キラキラと輝くエイミーの瞳に、柑菜の口角が引き攣った。何があったのかは知らないが、恐らく誰かにこのジャージは大切にしまっておけと言われたのをエイミーが「なら普段は他のジャージを買って着よう」というように方向転換してしまったのだということはすぐに分かった。楽しげに週末の予定を話す彼女を見て柑菜は。
tsuduri
と盛大に溜息を吐くと、明日ぬか喜びする羽目になるであろうベルタの姿を思い浮かべ、心の中で合掌した。
更新 2020/3/9 つづり
tsuduri