エイミーは休日に新しく買ったジャージに袖を通し、姿見の前でくるりと一回転した。ライムグリーンとアイボリーのバイカラーで、オーバーサイズのそれは、ジャージと言っても合わせ方次第では私服にも出来そうな程洒落ている。そのだぼっとした裾からは白のデニムショートパンツがチラリと覗き、全体的に活発な印象だ。動き易く、ジッパーで肩から二の腕辺りを開けられ少しだけを出すこともできる為、真夏のオーストラリアでも過ごしやすくなる事だろう。かなり安価でニ、三着ずつ他の形や色の物を買えたので、アウトレットとは偉大である。
さて、今日のコーディネートを決めた所で。彼女は踵を返して週末に買い揃えた物達を一瞥した。テーブルに置かれたゲテモノの数々は、端に置かれたベーキングパウダー等を含めて見たってとてもケーキを作るようには思えない。寝起きの柑菜から見ても、一体彼女が何を始める気なのか分からず、ただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
tsuduri
おい……。これどうするつもりだよ。うわっ! これ生きてる気持ち悪!
全く理解不能。柑菜は眉を顰めると、すぐに理解するのを諦め、取り敢えず魔法で自身の視界にフィルターを張る。うごうごと透明のケースで密集するワームを見ないようにする為だ。そのケースの隣をレニがぴょんぴょんと飛び回り、いかにも「早く食べたい!」と言うようにワームとエイミーの顔を見比べている。レニは見慣れたのとマヌケな見た目も相まって気持ち悪いという感情は一切無いが、ワームの方はやはり駄目なようだ。薬学科ではアレを生きたまま扱うというのだから、柑菜は薬学科でなくて良かったと密かに溜息をついた。そんな彼女の心境を知ってか知らずか、エイミーはケースの蓋を少し開けると、中からマジックワームを一匹摘む。柑菜の視界からはワームはモザイクで映っているが、エイミーがそれを持っているということはハッキリと分かった。
tsuduri
えぇ、心配しなくてもよくってよ。ちゃんとレニに開けられない棚に仕舞っておきますわ。柑菜の目にも入らないようにしておきます。
「それより」と、エイミーはワームを仕舞ったタンスに鍵魔法をかけながら困った様に唸りはじめた。一体どうしたことかと首をひねる柑菜に、彼女はポツリと話し始める。
tsuduri
あの材料を使ってレニにケーキを作りたいんですの。しかし、厨房を借りる申請をしたら断固として拒否されてしまいまして……。
ケーキ……? ……でもまぁ、あのゲテモノを料理に使われたら使った調理器具全部捨てなきゃならなくなるもんな。
そうだな……。あ、薬学の実験用に使ってる薬学教室は?あそこならある程度色々揃ってるだろ。
初めてその存在を知ったようで、エイミーは頭に疑問符を浮かべた。普通、入学時に校内は案内されるものだし、薬学科の生徒でなくとも移動教室の場所は皆知っているのが当然だと思っていたが。記憶力の良いエイミーにしては不思議だ。と考えていると、彼女に校内案内をしたのはアダルブレヒトだということを思い出し合点がいった。薬学教室には実験用にと、生きたのからパリパリに乾燥した物まで、多数の虫が置かれている。それを見るのが嫌だったから、きっと彼は職務を放棄したのだろう。エイミーに話せばきっと中に入ってじっくり見たがるだろうから尚更だ。柑菜はそこまで推測して額に汗すると、着替えを手にしてエイミーに告げる。
tsuduri
薬学教室は三階。ドアに書いてあるから後は自分で探せ。
ありがとう柑菜! どうにか薬学教室を使えるよう掛け合ってみますわ。
そう言って、エイミーは新しい服を姿見でもう一度確認すると、軽快にスキップしながら部屋を飛び出して行った。いつもの如く嵐のような友人を見送り、柑菜も始業への準備を始める。しかし、まさかゲテモノケーキを作るつもりだったとは。また何か一波乱ありそうだと、彼女は一つ息をついた。
浮足立ちながら廊下を歩くエイミーは、目的の人物が居るのを認めると、彼女の目の前に立ち塞がり上目気味に彼女を見上げた。彼女──ベルタ・ペンデルトンは、エイミーの方から絡まれたことに些か驚きつつ、いつもの憎まれ口を叩く。
tsuduri
エイミー。あなたに制服を着る気が全く無いということはよく分かったわ。
まさか開口一番注意されると思っていなかったらしい。苦笑を漏らすエイミーを見つめ、ベルタは自身の態度に後悔した。そして彼女はフォローの為に再度慌てて口を開く。
tsuduri
……もうこのことに口出しはしないけれど。これだけは約束して。式典の日とかはちゃんと制服を着ること。いい?
そう告げた瞬間、エイミーの顔がぱっと明るくなった。初めて嬉しそうな笑顔を向けられ、ベルタは自身の甘さに「いけない」と心の中で叱咤しする。それでも、口角が上がっていくのは抑えられない。
tsuduri
えぇ、わかりました! あ、それより。教授にお伺いしたいことがございまして。お時間よろしいですか?
使い魔デーに向けてケーキを作りたくて。しかし、厨房を借りたいと言ったら断られてしまいましたの。
そこでベルタはハッと顔を上げた。エイミーの使い魔が蜘蛛であることを思い出したからだ。そしてその蜘蛛の主食が何であるかも思い出し、漸く断られた理由について納得する。ベルタは面倒くさそうに右手で顔を覆うと、ため息混じりに「分かったわ」とエイミーに告げた。
tsuduri
下手に断ってまた何かやらかされては困る。となれば、策は一つ。
tsuduri
喜ぶエイミーの目の前に人差し指を立て、ベルタは彼女を見つめた。一体どんな条件を突きつけられるのか、エイミーは僅かに表情を引き締める。が、提示されたのはなんてことない内容であった。
tsuduri
つまり……。教授も手伝ってくださるという事ですすの?
わたしは手を出すつもりは無いわ。ただ、トラブルメーカーである貴女がまた何かしでかさないか見張る人間が居ないと、多分薬学教室も許可が下りないんじゃないかと思って。
彼女の言葉にエイミーは心当たりがあるらしく、苦笑を浮かべつつ礼を述べる。一方でベルタは内心、少し浮かれていた。愛姪とゆっくり二人きりになれるのが嬉しいらしい。ポーカーフェイスのまま彼女はこれから薬学教室で起こるであろう楽しげなハプニングを想像し、破顔しそうになるのを抑える。全くの他人であるアダルブレヒトに遅れを取ったと思っていたが、これは彼以上に自分を慕ってくれるかもしれない好機だ。ベルタは僅かに口角を上げてエイミーに微笑みかけると、彼女の柔らかい雰囲気に何かを感じたらしいエイミーは、眉尻を下げて彼女に微笑み返した。「それじゃあ放課後に」と別れを告げ立ち去るベルタの背中に、エイミーは小さく呟く。
tsuduri
愛姪に笑顔が気味悪がられていることも露知らず、ベルタは上機嫌で破壊呪文科室へ向かった。何の為かというと、勿論アダルブレヒトにマウントを取る為である。
待ちに待った放課後。ベルタは苦労して取った薬学教室使用許可証を手に三階への階段を上がっていた。蜘蛛用のケーキ……。一体どのようなゲテモノが出来上がることか。想像したくもない。薬学教室の前で立ち止まり、気合を入れていると。そこに待っていた人物が現れ、彼女はベルタの隣へ元気よく飛び込むと、彼女を見上げにこりと笑った。
至近距離で見る愛姪の笑顔に、ベルタはそっと胸を抑える。こんなことでこの先大丈夫だろうか。そんな不安を抱えながら。
tsuduri
まぁ、せいぜい問題を起こさないことね……。まぁ、わたしが見ているんだし大丈夫だと思うけど。
また憎まれ口をたたいてしまった。後悔するより先に、彼女は薬学教室の鍵を開けると中へとエイミーを促す。
tsuduri
薬学教官からは、生きている魔法生物には触れないよう言われているから。触らないように。
そんな時間は無いわよ。貴女、料理するの初めてでしょう?
えぇ……。しかし、どうしてベルタ教授は知っていますの? わたくしがお料理をしたことが無いということ……。
そこでベルタはハッと気づく。エイミーが月に一度書いている後見人への手紙でそう言っていたことを、つい口に出してしまったのに気づいたからだ。殆ど会話らしい会話をしたことが無いというのに、そんなことを知っているのは明らかにおかしい。ベルタは目線を明後日の方向にやり言い訳を考えると、少し口ごもりながら言い訳を始めた。
tsuduri
ほら、だって……。貴女、お嬢様でしょう? だったら料理なんてしたこと無いんじゃないかと思って……。あの、お金持ちの家って使用人とかが全部やってくれそうじゃない?
……えぇ。本当はお料理もしてみたかったのですけれど、母に危ないから止めなさいと止められてしまって。
そ、そうでしょう? だから、この教室を使用できる時間も限られているし。余計な事をしている暇は無いわよ
えぇ、そうですね……。わかりましたわ! では早速、始めて見ることに致します!
フンス!と気合を入れ、エイミーはペットショップの店主に教えてもらったレシピのメモを取り出した。細かく教えて貰ったわけではないため、普通のケーキのレシピと照らし合わせながら、使用する材料や器具を準備し始める。楽しそうに作業をする姿は癒やされるものだ。鼻歌交じりに黄土色の粉末をボウルに入れるエイミーを見つめながら、ベルタは少しだけ目を細めた。
tsuduri
お菓子作りは化学だと聞いたことがございますの。誰が言っていたかは失念してしまいましたが、こうしてきっちりと分量を計るところなんかは、確かに化学のようですわね。
そうね。でも、あまりこういうのは好きじゃないんじゃなかった?薬学の適性テストもあまり気乗りしていなかったみたいだし。
他の教科(飛行以外)に比べると、エイミーの薬学の適性はB(最高だとA+)。悪いとは言えないが、とびきりいいとも言えなかった。本人曰く、普通の人間がやる理科の授業とそう変わりないから面白みが無いということだったが。
tsuduri
あら、嫌いなわけではありませんのよ。こういった細々とした作業は集中できますもの。ただ、魔法学校の授業としては、興が削がれてしまいますの……。あぁ、教授、少し手伝って下さいます?膨らし粉の分量をこのレシピ通りに計って頂きたいのですけれど。
やれやれと肩をすくめるが、内心ベルタはエイミーから頼まれる事が嬉しくて堪らなかった。まるで母娘で仲良く料理をしているみたいで。エイミーにとって自身がただの教師であることも忘れ、卵をスプーンで叩くエイミーを眺めつつ作業を進める。
tsuduri
あぁっ!教授!このボウルに入ってしまった殻はどうしたらいいのかしから……。
文句垂れつつも、その言葉と表情は一致していない。鼻歌交じりに入ってしまった卵の殻を取り除くベルタ。そんな彼女を見て、エイミーは呆けたように口を開いた。
tsuduri
えっ、いや別に好きなわけではないけれど。どうして?
お菓子作りが楽しくて上機嫌だったわけではないのだが。馬鹿正直にワケを話すわけにもいかず、ベルタはエイミーの言葉に答えることなく黙々と作業を進めていく。言えるわけがないのだ、校内で堅物教師と言われる彼女が、愛姪とお菓子作りするのが楽しくて破顔していた等と……。ベルタは口を噤み、グラニュー糖代わりのはちみつを入れ、エイミーにボウルをパスする。このままでは殆どベルタがやってしまうことになりそうなので、それは避けたかったのだろう。ベルタに言われたとおりに泡立て器を動かし、エイミーは着々とケーキのスポンジ生地作りを進めていった。ふるいにかけたヨロイムシの粉末が宙を舞ったり、オーブンに入れた生地が焦げてしまったりぺしゃんこになってしまったりと、様々なアクシデントはあったが、漸く無事に出来上がったスポンジを型から出し、二人は安堵でふぅっと息をつく。蜘蛛用と言うことでかなり小さめだからもう少し簡単に出来上がると思いきや、意外と難しい。
tsuduri
後はホイップね。……あまり時間が無いわ、急ぎましょう。
生クリームをボウルに入れ、氷水で冷やしながら泡立てていく。残念ながら薬学教室にハンドミキサーは無い。厨房からも貸し出ししてもらえなかった為、泡立て器で腕の筋肉を総動員させるしかないのだ。……が、それが非力なエイミーに出来るはずもなく。すぐにヘロヘロになってしまう為、ベルタがホイップクリームの七割以上を仕上げることになってしまったのであった。
tsuduri
申し訳ございません、私にもう少し体力があれば……。
今思ったのですけれど、泡立て器に呪文をかけて動いてもらうことは出来なかったのでしょうか?
……出来る。そんなに難しい魔法でもない。エイミーとのお菓子作りに舞い上がって忘れていたとは口が裂けてもいえない。ベルタはエイミーから気まずげに目を逸らす。彼女の反応が何を物語っているかに気づいたエイミーは、苦笑しながら杖を降振る、泡立て器に足を生やして水道へと歩かせた。せめてもの便利魔法である。
tsuduri
え、えぇ……。そうね、その通り……。さぁ、気を取り直して、スポンジを切るわよ。今日はここまででいいのよね?
はい、後は前日の朝に部屋で済ませますわ。結局たくさん手伝っていただいてしまいましたわね。ありがとうございました。
いえ、いいのよ。まぁ、毎回何かをする時はこうやってわたしに言ってもらえるといいんだけどね。
えへへ、では次からはそう致しますわ。あ、教授。お待ちになって!
薬学教室からさっさと出ていこうとするベルタを呼び止め、エイミーは彼女の目の前に駆け寄る。背伸びをするので反射的にベルタも屈むと、エイミーはベルタの口の横を拭う。
tsuduri
ふふ、混ぜていた時ですわね。粉が頬に付いていましてよ。
放心しながらベルタは──昇天した。まさかこんなことがあっていいのか。こんな夢のような出来事が。夢にまで見た「愛娘との触れ合い」のような展開が。まるでスローモーションのように過ぎていくその一連のシーンに、ベルタは眉を顰めると拭われた頬を抑える。エイミーはというと、特に何も気にすることなくその粉が付いた指先を口に入れ「あら、美味しい」と楽しげに笑っていた。
愛姪と夢のような時間を過ごしたベルタは、興奮気味に破壊呪文科室の扉を開け駆け込み、中でレポートの採点に勤しむアダルブレヒトの襟首を掴み自慢気に笑い口を開いた。
tsuduri
誰が一番心を開いてもらってるですって?ふふ、あの子に頬を撫でられるなんて、貴方には未来永劫ないでしょうね……!
まぁ、ただ頬についてたケーキの生地に使った粉を取ってもらっただけなんだけど……。
アダルブレヒトは心底嫌そうに顔を歪めた後、顔が近いベルタの頬をペンでグイと突き自身から遠ざける。
tsuduri
ケーキってヨロイムシを使ったっていうゲテモノだろう?君も顔洗ってないなら早くこの部屋から出て行ってくれないか。
ベルタが来ればどんな時でも迎え入れるほどの彼でも、虫に対しては潔癖だ。彼は眉を顰めたまま彼女の頬に付けたペンのノック部分をアルコールティッシュで除菌する。その姿を見て、ベルタはもう一度先程の事を思い返し、記憶を辿るように呟いた。
tsuduri
そういえばあの子、指で拭い取った後にその生地を舐めていたような……。っていうか、作っている最中も上手く膨らまなかったスポンジを味見……。
やめてくれ、その先は言うな。これからあの子を純粋な目で見られなくなる。
二人の間に若干の気持ち悪さを残し、ヴィクトリア魔法学校の夜は更けていく。
更新 2020/6/2 つづり
tsuduri