魔王は魔王
文字数 5,982文字
◇
最近、おかしい。
キースはそっと魔王をうかがう。
魔王は洞窟の前で木を燻り、その煙の熱で鼠の燻製もどきを作っている。作り方を簡単に説明しただけなのに、もう実行に移しているのかと驚いているが、おかしいのはそういうことではない。
見つめていることに気付いたのか、魔王が顔をあげた。
「何だ」
「いえ、その、貴方って本当に食にマメだなと」
「貴様が無頓着すぎる。人間のくせに」
それは何度となく、まるで挨拶のように言われてきたが、腹が満たされればいいのだから仕方がない。最近では魔王の方が食事の準備に時間をかけている。時折気まぐれのように分けてくれるが、確かにそれは美味しかった。
あまりにうるさいので、魔王の食器は少しずつ増えた。グラスと皿と椀、平鍋も買わされた。市に通う回数が増え、顔見知りが増えた。キースの素性を探る者も出てきそうなので、そろそろ新しい国の市場へ替えなければならないかと思う。
こんな暮らしを、もう百日以上続けているだろうか。魔王はよく喋るようになった。
「川の向こうに赤い実がある。あれを取ってこい」
「好きなんですか?」
「酒にする」
「作れるんですか」
「魔界でも作った」
工作どころか酒造まで。キースは酒をあまり飲まないが、魔王はよく欲しがった。それでも買わないので、ついにしびれを切らしたのだろう。
「魔王酒」
思わず吹き出すと、いつの間に側にいたのか、魔王に腕を掴まれた。
最近おかしいのは、これだ。
やけに触れてくる。
最初は殺そうとしているのだと身構えたが、魔王の手に力がこもることはなく、手首と手の甲、それから指を撫でるだけで魔王の手は離れていく。今だってそうだ。手首の裏に爪を立てられているのは痛いが、危害を加えてくることはなさそうで、キースは心底戸惑っている。
「何を、考えているんですか」
何度問うても、魔王は喉の奥で笑うだけで、答えない。そのうち飽きて離れていくのだからと、最近は好きにさせている。それに、魔王の肌は快かった。
ひやりとした指で指を撫でられると、ぞくりと背中から何かが駆けあがってくる快楽に襲われる。
――私は何を考えているのか。
振り払わなければ危険だと、勇者としての危機感が働いているというのに、すぐに魔王の手を振り払えない。魔王は執拗に指先を撫でてくる。
「貴様の肌触りは悪くない」
「っ、放せ」
魔王の言う「悪くない」は褒め言葉だ。そのことに気付いて、また背中がぞくりと震えた。
――やはり危険だ。
魔王の手を振り払うと、魔王は気にすることもないようにまた燻製に戻っていく。
――これは何だろう。
魔王がちまちまと料理をしたり工作をしたりしているのを見ると、吹き出すくらい面白いと思う。この暮らしに不満はない。
だから忘れそうになる。
これが偽物とはいえ「魔王」だということを。
◇
その日、魔王は上機嫌だった。
先週仕込んであった果実酒ができたらしい。
「意外と早くできるんですね」
「果実の種類による」
「へえ、物知り」
「貴様はもっと人間界を知れ」
魔王が勇者に説教。吹き出すといつもは眉を顰める魔王が今日はおとなしい。よほど酒のできが良かったのか。グラスに注いで松明の火に透かして色を見ている。
――本当に酒職人じゃないですか。
あの酒には「魔王」と名付けようと一人で勝手に決めて、キースは自分の食事準備にかかる。干した魚を焼いたものと、少しの果実。芋が収穫できたので、それも焼いた。
「貴方も芋いります?」
「潰して牛の乳を混ぜて焼いたものならな」
「そんな面倒なことしませんし。牛いませんし。本当貴方って」
「貴様が無頓着なだけだ」
いつもならここで睨まれるようなお約束の会話だが、魔王はキースを睨みはせず手にしていたグラスをキースに向かって差し出した。
「飲むか」
「えっ、いいんですか」
魔王の食への執着を十分知っている身としては、本当に驚きだ。このグラスを魔王が気にいっていることも知っている。
「少しだけだ」
受け取って果実酒に口を付けると、豊かな香りと同時に甘酸っぱさが広がる。果実酒を飲んだのは久しぶりだが、こんなに美味いものだったろうかと首を傾げた。グラスはすぐに取り返されたが、魔王は満足そうに言う。
「硝子で飲むと美味いだろうが」
「そうですね。貴方、魔界で酒屋だったんです?」
「馬鹿か。まあ、人間界の果実は芳醇だから比べ物にならんものができるな」
口数が多いことは珍しくやっぱり機嫌がいい。なんとなく嬉しくなりながら、キースは自分の干魚に口を付ける。これが悪いなど今でも思わないが、魔王の言う通り自分は頓着無過ぎるのかもと少し思った。
「貴方は、何故、そんなに人間界に詳しいんですか」
「馬鹿か。知らぬものを手に入れたいと思うはずがないだろう。魔界で幾分調べたし、人間界に来てからも調べた」
「勉強熱心」
思わず声をあげて笑ったが、魔王は気にしていないようだった。
「人間は愚かで脆弱だが、ものを作る力くらいは持っているようだな」
「人間を侮辱しないでください。人間は思慮深く優しい美しい生き物です」
「貴様がそれを言うか。その人間に追われ殺されかけた貴様が」
魔王がさも楽しげに笑う。
何故、そのことを知っているのだと思ったが、キースが作った存在なのだから、こちらのことを知っているのも当然かもしれないと思う。
けれど、最近魔王の口から出る言葉はキースの知らない魔界での事情などで、これは本当に偽物なのかとどこかで思ってしまうのも本当だった。
「私はそれでも人間を好きですよ」
「理解できんな。貴様程の力を持っていれば、俺の右腕にしてやるものを」
「誰が魔王の配下になど。私を誰だと思っているんです?」
「人間に殺されかけた勇者だろう」
じわじわと体の熱が上がる。魔王相手に苛立っても仕方ないとは思うのだが、あまりに魔王との生活が平穏だったので、目の前の存在が有害そのものだということを、どこかへ置いてしまっていたのかもしれない。
「貴方はその人間に殺されかけた魔王でしょう」
「だが、まだ生きている」
「私の力がなければとうに滅びている」
「ならば何故、俺を殺さない? 貴様も愚かな人間だということだ」
痛い所を突かれた。キースが魔王を殺せず、今なおこんな生活をさせてまで手元に置いておく理由……それと向かい合うことはしてはならないという危機感だけはある。それこそ、人間として。
「ただの――暇潰しですよ?」
それに、これは偽物なのだ。
「俺を乞うただろう? あの封印だかの空間の中で、俺は貴様の声を聞いた。貴様は間違いなく俺を乞うた。俺に人間を滅ぼさせるつもりで俺を殺さない、そうだろう」
「違う! そんなつもりはない。私は、ただ」
――ただ、その青が見たかったのだと、そんなことを言えるはずがない。
キースは言葉を飲み、それを肯定と取ったのか魔王は口の端をゆがめて笑う。
「貴様の願いどおり、人間界は俺が貰う。貴様もきっちり殺してやる。期待していろ」
「――何故、そんなに人間界が欲しいんですか」
「言っただろう。貴様らは魔族の成れの果てのどうしようもない存在だが、築いた文明には使えるものがある。魔族は光を使いこなせないからな。貴様らが築いた使えるものは、有意義に使う」
酒のせいなのか、今夜の魔王は饒舌だった。その言葉の中で、キースはどうしても許せないものがあった。
「待ってください。人間は魔族の成れの果て? ふざけたことを言うのは、止めてください」
「人間はそんなことも知らんのか?」
「その、戯言を、やめろ」
「キース、貴様は疑問に思わなかったのか。魔族と人間の見目がどうしてこんなに近いと思っている。どうして同じ言葉を操っていると思っている。貴様ら人間は魔界で生きていけない程に弱い魔族の子孫だ。人間界に逃げ込み細々と暮らしていたらよかったものを、魔界から逃げ出したことすら忘れまるで人間界では王のようにのさばっている。愚かでなくて何だというのだ」
魔界から逃げた魔族の子孫?
そんな戯言を信じるはずもない。
けれど、魔族と見目が近いことは気付いていたし、魔王と暮らしてその生活環境や習慣などが、そう変わりないことも知っている。
けれど。
「そんなことは、認めない。魔王、その言葉を訂正して貰おうか」
腰に下げている剣を抜いて魔王の眼前に突き付けると、魔王の銀の瞳がゆらり揺れた。気まぐれな神が筆で引いた線のように整った唇が邪悪な笑みを作る。
「キース、貴様のそんな顔を見るのは久しいな」
「人間を魔族の子孫などと」
「事実から目を背けるとは、やはり愚か」
魔王は薄い笑みを浮かべると、キースの腕を掴んで突き飛ばす。壁に叩きつけられた反動を利用して飛びかかったキースに、魔王は剣を構えてそれを受けた。金属のぶつかる音が洞窟に響き、火花が散る。
時折、手合わせのようなことはしていたが、今のキースは八割本気だった。それを魔王は顔色一つ変えず、片手で受けている。
魔王の魔力は奪っている。元々の力があるとしても、ここまでの力は無かったはずだ。
――どういうことだ。
知らぬ間に力を付けているとでもいうのか。
――魔力も無しにどうやって?
片手で魔王の剣を押さえながら、もう片方の手に魔法を呼ぶ。風を司る精霊の力を借りて作りだした小さな風の塊を魔王の脇腹に叩きこむ。
今度は魔王が洞窟の壁に叩きつけられる番だった。手加減を忘れたから、一瞬殺してしまったのではと思ったが、魔王は壁に背を預けたままで、不敵に笑ったのだ。
「やはり貴様の魔法力は悪くない」
「なに?」
今打った風の魔法が魔王の手で受け止められていると気付いた時には、その塊を脇腹に受けていた。弾き返されたのだと知った時にはもう魔王がキースの首に剣先を突き付けている。
「いい顔だな、キース。もっとそんな顔を見せてみろ。ああ、人間共のどれかを殺せば、見られるのか?」
目の前が赤く染まる。
――これは駄目だ。これは魔王なのだ。偽物でもなんでも、魔王は魔王なのだ。
「もう――お前を、殺す」
それが、この状況を生んだ自分の責務なのだ。
魔王の言う通り、自分が愚かだったのだ。もう一時でも早くこれを殺さねばならない。
炎の魔法を呼ぶ。
気付いたのか魔王がキースの肩に剣を刺した。
構わず呪文を続けるが魔王の手で顔を掴まれ口を塞がれた。
「俺はまだ貴様を殺さん」
――私が死んだらお前も死ぬからな。
手で口を塞がれたくらいで呪文を止めることはできない。口の中で小さく唱え続け、呼びだした炎を魔王の腹にぶつける。魔王はキースから飛びのくと、呻きながら膝を折った。
「キース、貴様」
「お前の言う通り私が愚かだった。お前を生かした私が」
「そうだ、貴様は俺を生かした、何故だ。俺を乞うたのは何故だ?」
耳を貸してはならない。自分の不始末の後始末くらいつけなければ。
炎をぶつけてやったというのに、魔王は燃え上がらない。いつのまに、こんな力を取り戻したのか。危険だ。これは、本当に危険なのだ。
魔法の炎をもう一度呼びだそうとするが、魔王に刺された肩が動かない。この魔王を焼きつくす程の炎を呼ぶには両手が必要だ。片手で呼ぶこともできるが、抑えきれずキースの腕もやられるだろう。それでも、するしかない。
呪文を声で編み左手をかざす。魔法力を精霊に捧げ精霊の助けを得る。それが魔法だ。呼びだした炎が左手に現れ、支え切れないその手をじりじりと焼いた。
「っ、魔王、これで、終わりだ」
魔王は疾風のように駆けるとキースの左手を炎ごと掴み取る。
「なに、を!」
「これでは焼き殺される」
魔王は掴んだキースの手を炎共々、洞窟の外まで投げつけた。地面に叩きつけられ、まだ呼び出しきっていなかった炎が空に霧散する。
「魔王!」
身を起こしながら怒号をあげると魔王がふらふらとキースの元に現れ、起こしかけた体は地面に押し付けられた。
「馬鹿か。しばらく両手を使えまい」
キースの左手は肘まで焼け爛れている。
「回復魔法くらい、使える」
「あの炎が貴様の回復魔法で治せるはずがないだろう」
よく知っている。キースは回復魔法が得意ではなく、簡単な傷を治すくらいしかできなかった。仮にも戦い合ってきたのだから、こちらの戦力を分析くらいはしているのだろう。魔王は存外マメなのだということを、キースはもう知っているのだ。
魔王の手が焼けた肌を撫でて痺れる痛みに冷たい汗が流れた。
「貴様の肌は悪くなかったというのに」
「っ――放せ」
殺される。
恐怖はなかった。キースを殺せば魔王も死ぬ。そしてこの道楽のような生活の全てが終わる。
悪くなかった、そうかもしれない。
キースはそっと目を閉じた。
初めて魔王を見た時に感じてしまった、どうしようもない背徳を最後まで捨てられなかった。
『魔王は、美しい』
だから、その青を見たくなった。
心を奪われたのだ。家族を仲間を、多くの人間を殺し奪った魔王に、キースは確かに。
目をあけると、見下ろしてくる魔王の手が顎にかかる。近寄ってくる銀の髪がキースの耳を撫でる。
――やっぱり、綺麗だ。
吸いこまれるような銀の瞳がやけに近い。
おさえこまれているのは分かっているが、これは何だと思った瞬間に、唇が震えた。魔王の口が触れたからだ。
「っ、ん……!」
抗う間もなく、魔王の口がキースの口を塞ぎ、そのまま強く吸われる。
「ん、ぅっ――」
体内から、何かが吸い取られている感覚に背中から震えた。全身が粟立って、知らず、目じりに涙が浮かぶ。これは危険だと身体中が訴えているのに、キースは指一本動かせないでいる。
――これは、なんだ……。
魔王はすぐ顔をあげると、まじまじとキースの顔を覗き込んでくる。抵抗しないことを訝っているのかもしれないが、キースは動けなかった。
「なんだ、これは」
魔王はそうこぼすと、またキースの口を吸う。
咥内に冷たい舌が差し込まれ、中という中を探られる。
「ぅ、ん、ま、ぉぅ」
こぼれた声は自分でも情けない程に力なく、キースはそのまま意識を手放してしまった。
最近、おかしい。
キースはそっと魔王をうかがう。
魔王は洞窟の前で木を燻り、その煙の熱で鼠の燻製もどきを作っている。作り方を簡単に説明しただけなのに、もう実行に移しているのかと驚いているが、おかしいのはそういうことではない。
見つめていることに気付いたのか、魔王が顔をあげた。
「何だ」
「いえ、その、貴方って本当に食にマメだなと」
「貴様が無頓着すぎる。人間のくせに」
それは何度となく、まるで挨拶のように言われてきたが、腹が満たされればいいのだから仕方がない。最近では魔王の方が食事の準備に時間をかけている。時折気まぐれのように分けてくれるが、確かにそれは美味しかった。
あまりにうるさいので、魔王の食器は少しずつ増えた。グラスと皿と椀、平鍋も買わされた。市に通う回数が増え、顔見知りが増えた。キースの素性を探る者も出てきそうなので、そろそろ新しい国の市場へ替えなければならないかと思う。
こんな暮らしを、もう百日以上続けているだろうか。魔王はよく喋るようになった。
「川の向こうに赤い実がある。あれを取ってこい」
「好きなんですか?」
「酒にする」
「作れるんですか」
「魔界でも作った」
工作どころか酒造まで。キースは酒をあまり飲まないが、魔王はよく欲しがった。それでも買わないので、ついにしびれを切らしたのだろう。
「魔王酒」
思わず吹き出すと、いつの間に側にいたのか、魔王に腕を掴まれた。
最近おかしいのは、これだ。
やけに触れてくる。
最初は殺そうとしているのだと身構えたが、魔王の手に力がこもることはなく、手首と手の甲、それから指を撫でるだけで魔王の手は離れていく。今だってそうだ。手首の裏に爪を立てられているのは痛いが、危害を加えてくることはなさそうで、キースは心底戸惑っている。
「何を、考えているんですか」
何度問うても、魔王は喉の奥で笑うだけで、答えない。そのうち飽きて離れていくのだからと、最近は好きにさせている。それに、魔王の肌は快かった。
ひやりとした指で指を撫でられると、ぞくりと背中から何かが駆けあがってくる快楽に襲われる。
――私は何を考えているのか。
振り払わなければ危険だと、勇者としての危機感が働いているというのに、すぐに魔王の手を振り払えない。魔王は執拗に指先を撫でてくる。
「貴様の肌触りは悪くない」
「っ、放せ」
魔王の言う「悪くない」は褒め言葉だ。そのことに気付いて、また背中がぞくりと震えた。
――やはり危険だ。
魔王の手を振り払うと、魔王は気にすることもないようにまた燻製に戻っていく。
――これは何だろう。
魔王がちまちまと料理をしたり工作をしたりしているのを見ると、吹き出すくらい面白いと思う。この暮らしに不満はない。
だから忘れそうになる。
これが偽物とはいえ「魔王」だということを。
◇
その日、魔王は上機嫌だった。
先週仕込んであった果実酒ができたらしい。
「意外と早くできるんですね」
「果実の種類による」
「へえ、物知り」
「貴様はもっと人間界を知れ」
魔王が勇者に説教。吹き出すといつもは眉を顰める魔王が今日はおとなしい。よほど酒のできが良かったのか。グラスに注いで松明の火に透かして色を見ている。
――本当に酒職人じゃないですか。
あの酒には「魔王」と名付けようと一人で勝手に決めて、キースは自分の食事準備にかかる。干した魚を焼いたものと、少しの果実。芋が収穫できたので、それも焼いた。
「貴方も芋いります?」
「潰して牛の乳を混ぜて焼いたものならな」
「そんな面倒なことしませんし。牛いませんし。本当貴方って」
「貴様が無頓着なだけだ」
いつもならここで睨まれるようなお約束の会話だが、魔王はキースを睨みはせず手にしていたグラスをキースに向かって差し出した。
「飲むか」
「えっ、いいんですか」
魔王の食への執着を十分知っている身としては、本当に驚きだ。このグラスを魔王が気にいっていることも知っている。
「少しだけだ」
受け取って果実酒に口を付けると、豊かな香りと同時に甘酸っぱさが広がる。果実酒を飲んだのは久しぶりだが、こんなに美味いものだったろうかと首を傾げた。グラスはすぐに取り返されたが、魔王は満足そうに言う。
「硝子で飲むと美味いだろうが」
「そうですね。貴方、魔界で酒屋だったんです?」
「馬鹿か。まあ、人間界の果実は芳醇だから比べ物にならんものができるな」
口数が多いことは珍しくやっぱり機嫌がいい。なんとなく嬉しくなりながら、キースは自分の干魚に口を付ける。これが悪いなど今でも思わないが、魔王の言う通り自分は頓着無過ぎるのかもと少し思った。
「貴方は、何故、そんなに人間界に詳しいんですか」
「馬鹿か。知らぬものを手に入れたいと思うはずがないだろう。魔界で幾分調べたし、人間界に来てからも調べた」
「勉強熱心」
思わず声をあげて笑ったが、魔王は気にしていないようだった。
「人間は愚かで脆弱だが、ものを作る力くらいは持っているようだな」
「人間を侮辱しないでください。人間は思慮深く優しい美しい生き物です」
「貴様がそれを言うか。その人間に追われ殺されかけた貴様が」
魔王がさも楽しげに笑う。
何故、そのことを知っているのだと思ったが、キースが作った存在なのだから、こちらのことを知っているのも当然かもしれないと思う。
けれど、最近魔王の口から出る言葉はキースの知らない魔界での事情などで、これは本当に偽物なのかとどこかで思ってしまうのも本当だった。
「私はそれでも人間を好きですよ」
「理解できんな。貴様程の力を持っていれば、俺の右腕にしてやるものを」
「誰が魔王の配下になど。私を誰だと思っているんです?」
「人間に殺されかけた勇者だろう」
じわじわと体の熱が上がる。魔王相手に苛立っても仕方ないとは思うのだが、あまりに魔王との生活が平穏だったので、目の前の存在が有害そのものだということを、どこかへ置いてしまっていたのかもしれない。
「貴方はその人間に殺されかけた魔王でしょう」
「だが、まだ生きている」
「私の力がなければとうに滅びている」
「ならば何故、俺を殺さない? 貴様も愚かな人間だということだ」
痛い所を突かれた。キースが魔王を殺せず、今なおこんな生活をさせてまで手元に置いておく理由……それと向かい合うことはしてはならないという危機感だけはある。それこそ、人間として。
「ただの――暇潰しですよ?」
それに、これは偽物なのだ。
「俺を乞うただろう? あの封印だかの空間の中で、俺は貴様の声を聞いた。貴様は間違いなく俺を乞うた。俺に人間を滅ぼさせるつもりで俺を殺さない、そうだろう」
「違う! そんなつもりはない。私は、ただ」
――ただ、その青が見たかったのだと、そんなことを言えるはずがない。
キースは言葉を飲み、それを肯定と取ったのか魔王は口の端をゆがめて笑う。
「貴様の願いどおり、人間界は俺が貰う。貴様もきっちり殺してやる。期待していろ」
「――何故、そんなに人間界が欲しいんですか」
「言っただろう。貴様らは魔族の成れの果てのどうしようもない存在だが、築いた文明には使えるものがある。魔族は光を使いこなせないからな。貴様らが築いた使えるものは、有意義に使う」
酒のせいなのか、今夜の魔王は饒舌だった。その言葉の中で、キースはどうしても許せないものがあった。
「待ってください。人間は魔族の成れの果て? ふざけたことを言うのは、止めてください」
「人間はそんなことも知らんのか?」
「その、戯言を、やめろ」
「キース、貴様は疑問に思わなかったのか。魔族と人間の見目がどうしてこんなに近いと思っている。どうして同じ言葉を操っていると思っている。貴様ら人間は魔界で生きていけない程に弱い魔族の子孫だ。人間界に逃げ込み細々と暮らしていたらよかったものを、魔界から逃げ出したことすら忘れまるで人間界では王のようにのさばっている。愚かでなくて何だというのだ」
魔界から逃げた魔族の子孫?
そんな戯言を信じるはずもない。
けれど、魔族と見目が近いことは気付いていたし、魔王と暮らしてその生活環境や習慣などが、そう変わりないことも知っている。
けれど。
「そんなことは、認めない。魔王、その言葉を訂正して貰おうか」
腰に下げている剣を抜いて魔王の眼前に突き付けると、魔王の銀の瞳がゆらり揺れた。気まぐれな神が筆で引いた線のように整った唇が邪悪な笑みを作る。
「キース、貴様のそんな顔を見るのは久しいな」
「人間を魔族の子孫などと」
「事実から目を背けるとは、やはり愚か」
魔王は薄い笑みを浮かべると、キースの腕を掴んで突き飛ばす。壁に叩きつけられた反動を利用して飛びかかったキースに、魔王は剣を構えてそれを受けた。金属のぶつかる音が洞窟に響き、火花が散る。
時折、手合わせのようなことはしていたが、今のキースは八割本気だった。それを魔王は顔色一つ変えず、片手で受けている。
魔王の魔力は奪っている。元々の力があるとしても、ここまでの力は無かったはずだ。
――どういうことだ。
知らぬ間に力を付けているとでもいうのか。
――魔力も無しにどうやって?
片手で魔王の剣を押さえながら、もう片方の手に魔法を呼ぶ。風を司る精霊の力を借りて作りだした小さな風の塊を魔王の脇腹に叩きこむ。
今度は魔王が洞窟の壁に叩きつけられる番だった。手加減を忘れたから、一瞬殺してしまったのではと思ったが、魔王は壁に背を預けたままで、不敵に笑ったのだ。
「やはり貴様の魔法力は悪くない」
「なに?」
今打った風の魔法が魔王の手で受け止められていると気付いた時には、その塊を脇腹に受けていた。弾き返されたのだと知った時にはもう魔王がキースの首に剣先を突き付けている。
「いい顔だな、キース。もっとそんな顔を見せてみろ。ああ、人間共のどれかを殺せば、見られるのか?」
目の前が赤く染まる。
――これは駄目だ。これは魔王なのだ。偽物でもなんでも、魔王は魔王なのだ。
「もう――お前を、殺す」
それが、この状況を生んだ自分の責務なのだ。
魔王の言う通り、自分が愚かだったのだ。もう一時でも早くこれを殺さねばならない。
炎の魔法を呼ぶ。
気付いたのか魔王がキースの肩に剣を刺した。
構わず呪文を続けるが魔王の手で顔を掴まれ口を塞がれた。
「俺はまだ貴様を殺さん」
――私が死んだらお前も死ぬからな。
手で口を塞がれたくらいで呪文を止めることはできない。口の中で小さく唱え続け、呼びだした炎を魔王の腹にぶつける。魔王はキースから飛びのくと、呻きながら膝を折った。
「キース、貴様」
「お前の言う通り私が愚かだった。お前を生かした私が」
「そうだ、貴様は俺を生かした、何故だ。俺を乞うたのは何故だ?」
耳を貸してはならない。自分の不始末の後始末くらいつけなければ。
炎をぶつけてやったというのに、魔王は燃え上がらない。いつのまに、こんな力を取り戻したのか。危険だ。これは、本当に危険なのだ。
魔法の炎をもう一度呼びだそうとするが、魔王に刺された肩が動かない。この魔王を焼きつくす程の炎を呼ぶには両手が必要だ。片手で呼ぶこともできるが、抑えきれずキースの腕もやられるだろう。それでも、するしかない。
呪文を声で編み左手をかざす。魔法力を精霊に捧げ精霊の助けを得る。それが魔法だ。呼びだした炎が左手に現れ、支え切れないその手をじりじりと焼いた。
「っ、魔王、これで、終わりだ」
魔王は疾風のように駆けるとキースの左手を炎ごと掴み取る。
「なに、を!」
「これでは焼き殺される」
魔王は掴んだキースの手を炎共々、洞窟の外まで投げつけた。地面に叩きつけられ、まだ呼び出しきっていなかった炎が空に霧散する。
「魔王!」
身を起こしながら怒号をあげると魔王がふらふらとキースの元に現れ、起こしかけた体は地面に押し付けられた。
「馬鹿か。しばらく両手を使えまい」
キースの左手は肘まで焼け爛れている。
「回復魔法くらい、使える」
「あの炎が貴様の回復魔法で治せるはずがないだろう」
よく知っている。キースは回復魔法が得意ではなく、簡単な傷を治すくらいしかできなかった。仮にも戦い合ってきたのだから、こちらの戦力を分析くらいはしているのだろう。魔王は存外マメなのだということを、キースはもう知っているのだ。
魔王の手が焼けた肌を撫でて痺れる痛みに冷たい汗が流れた。
「貴様の肌は悪くなかったというのに」
「っ――放せ」
殺される。
恐怖はなかった。キースを殺せば魔王も死ぬ。そしてこの道楽のような生活の全てが終わる。
悪くなかった、そうかもしれない。
キースはそっと目を閉じた。
初めて魔王を見た時に感じてしまった、どうしようもない背徳を最後まで捨てられなかった。
『魔王は、美しい』
だから、その青を見たくなった。
心を奪われたのだ。家族を仲間を、多くの人間を殺し奪った魔王に、キースは確かに。
目をあけると、見下ろしてくる魔王の手が顎にかかる。近寄ってくる銀の髪がキースの耳を撫でる。
――やっぱり、綺麗だ。
吸いこまれるような銀の瞳がやけに近い。
おさえこまれているのは分かっているが、これは何だと思った瞬間に、唇が震えた。魔王の口が触れたからだ。
「っ、ん……!」
抗う間もなく、魔王の口がキースの口を塞ぎ、そのまま強く吸われる。
「ん、ぅっ――」
体内から、何かが吸い取られている感覚に背中から震えた。全身が粟立って、知らず、目じりに涙が浮かぶ。これは危険だと身体中が訴えているのに、キースは指一本動かせないでいる。
――これは、なんだ……。
魔王はすぐ顔をあげると、まじまじとキースの顔を覗き込んでくる。抵抗しないことを訝っているのかもしれないが、キースは動けなかった。
「なんだ、これは」
魔王はそうこぼすと、またキースの口を吸う。
咥内に冷たい舌が差し込まれ、中という中を探られる。
「ぅ、ん、ま、ぉぅ」
こぼれた声は自分でも情けない程に力なく、キースはそのまま意識を手放してしまった。