嫉妬は闇堕ちの調べ
文字数 4,908文字
◇
目の前が赤く染まった。
魔王と戦う時はいつも怒りを抱いていたつもりだった。魔王の奪ったものを背負ってキースはいつも彼に対峙していた。それは重々しくもキースに勇気と前進する力をくれたからだ。重さが増せば増す程にキースは力を得てきた。だから怒りとはキースにとって戦う力そのものだった。
けれど、これは違うと言い切れる。
おごそかな祈りにも似た、哀しみを背負った怒りとはまるで違う。ただひたすらに自らの都合とだけ照らし合わされた、本能のような、けれど確かな怒りは、何も知らない魔王と被害者であるワグにまで向けられたのだ。
魔王がワグに口付けていたのだ。
頭では分かっている、魔王はワグの魔法力を吸ってみたのだろう。ワグは心底困惑しているといった風体だ。ここには、それ以外の感情などない。
けれど。それでも、キースは湧き上がってくる怒りを抑えることができなくなった。
慌てて二人の前から姿を消したが、何度も思い出されるその光景に、拳を握りしめたくなる。
――魔法力が吸い取れれば、誰でもいいのか。
そうだろう、魔王にとってはそんなものなのだと分かっているではないか。あの口付けに意味などなく、キースはただ搾取されていただけだ。
――ワグも避ければいいものを。
自分ですらできないことを、未熟な弟子に求めることもおかしな話だし、ワグは被害者なのだ、今キースが心を配らねばならないのは、魔法力を吸われたワグの体のことなのに、一体己は何をしているのかと思う。
そんなキースを気遣ってくるワグには申し訳ないと心底思ったし、可愛い預かり物の弟子をもっと大切にしなければと思う。キースの様子を伺ってくれる可愛いワグへの怒りなど、四散した。
けれど、魔王の顔を見てしまうと腹の底が煮えた。口を開けば余計な罵倒をしてしまいそうで、なるだけ言葉を控えたが、そのせいでワグが気を遣っているのが分かる。申し訳ないとは思うが、自分でも制御しきれない感情に一番参っているのはキース自身なのだ。
翌日になっても、感情の乱れはおさまらず、キースを苛んだ。
――それもこれも。
涼しい顔で魔王は何事もなかったかのようにふるまっている。それを見ると益々腹立たしい。
少し頭を冷やさねばと洞窟を出て川沿いを歩く。ここへ来た時より随分寒くなった風に頬を打たれて、少しばかり身が竦んだ。
防寒服を買わねばならないかと、財布の中身を思ったが、とても足りそうにないので、また市場にいかねばならないのだろう。しかしそうなるとワグと魔王を二人きりにしてしまうことになる。ワグは移動魔法を使えないし、キースの移動魔法では人を運べない。どうしたものかと首をひねっているうちに、乱れた感情が整うのが分かった。
こんなに簡単なことなのに、魔王の前だとこうはいかないのが不思議だった。
「どうしてくれるんです」
キースを揺さぶるような強い感情を起こさせるのは、いつも魔王だ。元勇者としての矜持すらも揺さぶられて、自分を見失いそうになる。許せないと思う。そんなことをキースに思わせる存在など、他にはない。
大きく溜息をついた時だった。
「キース」
低い声に呼ばれて、キースはもっと深い息をついた。せっかく心が落ち着いてきたというのに、何故今ここに来るのか。身勝手な怒りがわいてくる。振り返らずに返事をすると、魔王はキースの肩を掴んだ。
「どうかしたのか」
そのまま強く引かれて、いやおうなしに向かい合わせになる。魔王はいつもの魔王で、自分一人が心を揺らしているのかと思うと、たまらなくなる。
「何です?」
掴まれている肩が熱い。そういえば触れられるのも久しぶりかもしれない。
魔王は面倒そうに舌を打ち、キースを睨む。
「アレが、貴様が怒っていると言っている」
「あー。気にしないでください」
ワグはいい子だ。こんな魔族にまで、きちんと親切に接している。キースの心情を伝わるはずのない魔族にまで伝えてくれている。ただキースの為に。
「俺に謝れとまで言ったぞ、アレは」
そう言われて魔王がどんな顔をしたのかは興味深かった。それでのこのこキースの元にまでやってきたのかと思うと、じりと胸の辺りが熱く焼けた。
「貴方、ワグを気にいってますねえ」
「馬鹿を言うな。まあ使えるとは思うが」
「無意識で気にいってるんですよ、ワグに言われてここまで来たのでしょう? 貴方にとっては信じられないことだと思うのですが」
魔王は眉を顰めて首を傾げた。なんだか人間臭い仕草だなと思う。
「ワグを気にいってくれて嬉しいですよ」
「アレのことはどうでもいい。貴様は怒っているのか」
「そんなことないです」
言っても仕方がない。キースとて自分で説明できないような怒りなのだから。人間でもない魔王に分かる訳もない。
「俺がアレの魔法力を吸ったから怒っているのか」
「……分かってるんじゃないですか」
「アレがそう言った」
ワグの言うことなら、素直に飲みこむのだと思うと、また目の前が赤くなりそうに腹がたってくる。これ以上、魔王と話すのも嫌だった。
「ワグは私とは違うんです、二度とあんな事しないでください」
まだ肩を掴んでいた魔王の手を乱暴に振り払って背を向けると、こりない手が今度は逆の肩を掴んでくる。それも振り払うと、後ろから羽交い絞めにされた。腕を押さえつけられてそのままひねり上げられ悲鳴が上がる。
「何です、急に!」
剣の柄で魔王の腹を殴り、ようやく魔王の羽交い絞めから逃れると、魔王は憮然としてキースを見ていた。
「貴様が逃げるからだ」
「特に用事がないんでしょう?」
「キース、教えろ」
「何を」
「何故、違う。貴様とアレの何が違うんだ?」
さっきの話だろうかとキースは息を整えながら考える。魔王は自分の言いたいことだけ言うので会話にするにはこちら側が全てをくみ取ってやらないといけない。疲れる作業だが、いつもはそれも楽しんでいる。けれど、一刻も早く魔王の前から去りたいと思っている今、その作業は苦痛でしかない。早く終わらせようと、キースは言葉を選んだ。
「私は魔法力が多いんです。きっと人間ではマリーの次に多い。ワグとの違いはそれです」
ではさらば、とばかりに後ずさるが、魔王は距離を詰めてくる。
「確かめさせろ」
伸びてきた手を叩き落すと睨まれるのと同時に一気に距離を詰められる。いつの間にこんな動きができるようになったのだと息を飲む暇もなく、口を吸われた。
いつぶりだろうと思う。
こんな風に触れるなと言ってから、魔王はそれを律儀に守っていたのか興味を失ったのか、こうして口を付けてくることはなくなっていた。
「んっ……ふ、ぅ」
遠慮なく分け入ってきた魔王の舌に咥内を浚われると勝手に体がわなないた。久しぶりの感覚が、すぐに欲を煽ってキースはびくりと跳ねあがる。こんなことはいけないと思っているのに逃げられないのは相変わらずで、それからこの行為の意味を魔王に伝えたのはきっと忘れているのだろうと思った。
膝から崩れそうで、すがるものを探した手が魔王の体にしがみつきそうになって、慌てて叱咤する。こんなことに溺れては駄目だ。魔王にとって、これは魔法力を吸い取る行為にすぎず、相手は誰でもいいのだ。自分だけがこうも煽られているなど、屈辱がすぎる。
すがるくらいなら、倒れた方がましだ。
手を引くと膝ががくんと折れた。地面に崩れる覚悟をしたキースだが、その衝撃はいつまでも訪れず、代わりに腰の周りが暖かい。
キースは魔王に抱きとめられていた。腰に回った魔王の腕は強くキースを抱きしめてくる。それに比例するように口を嬲る熱が高まった。
どうしてこうも熱いのかと思う。魔王の体温は低い。冷たいと感じるくらいなのに、こうしている時だけは熱い。だから、勘違いしそうになるのだ。
――求められている気に、なる。
魔法力を求められているのは確かだろう。けれどそれだけでなく、まるで唯一の存在として求められている錯覚が、キースにはおそろしく快かった。
他の誰でもなく、魔王はキースを欲しがっている、そう感じられて悦びすら感じた。
だから、この腕から逃れられない。
「ん、んっ、ぁ――」
ようやく口を解放した魔王は躊躇なくキースの喉に噛みつく。ざらりとした舌の感触は、これが人間とは違うと、嫌でもキースに自覚を促してくる。
元、勇者。人間を愛し守り命をかけた日々を否定したくなんてない。
けれど、キースはいつも孤独だった。
力があるのだから、魔王討伐に起った。少しずつ仲間ができて、少しずつ魔王の軍隊を鎮圧して、少しずつ人々の期待を受けた。気付けば世界中を周り、その希望を一身に背負っていた。それは誇らしく栄誉ですらあった。
キースをたたえる人々の目が「キース」を見ていなくても、それでいいと思っていた。「勇者」の肩書を背負った時点で、キースは「キース」ではなく「勇者」になったのだ。それくらいの覚悟はあった。
それを、魔王は覆した。
魔王は真っ直ぐにキースを見ていた。
人々を守る正義と勇気のまなざしの中に、戦闘を楽しみ力を示したいという欲を持ったキースに、魔王だけが気付いた。命をかけ拳を合わせたものにだけ分かる、それはそういう類いのものかもしれなかった。
魔王の前にある時にだけ、キースは本来の自分でいられるのだ。
噛んだ首を吸う魔王の力が強い。痛みとは別の感覚で痺れながら、キースは何度も首を横に振る。
「駄目だ、離せ、これ以上は」
自分では制御できない感情と体。この正体に気付いてはならない。魔王にだけ煽られる欲の源を覗いてはならない。そう思うのに。魔王が呻くように、呟く。
「貴様でなければ、こうはならん。アレにはもう触れん」
背骨が折れるのではないかと思う程に強く抱きしめられ、キースも小さく呻いた。
どうしようもない。
魔王の言葉が、どうしようもない程、嬉しいのだ。
ただの唯一として、求められた。
満たされる、満たされていく。
「キース、足りん」
唸るようにそう呟いた魔王がキースの上服を剥いだ。風に晒された肌が粟立って、鎖骨を噛まれると喉で跳ねた。
「貴様の肌は悪くない」
魔王の舌が鎖骨から胸筋を這う。ざらりとした感触と吸いつかれる痛みに、腰が浮きそうになる。
「あっ」
知らずこぼれた声が誰のものかと耳を疑う程に甘ったるく、キースは目を閉じた。
こんな屈辱を、他の誰に許すというのか。
――この男でなければ、誰が。
もう誤魔化せない。そう、ずっと誤魔化してきた。この感情を表す言葉をキースは知っている。こうも激しく感じたことが初めてだから、今まで分からなかっただけだ。
――私は、ワグに嫉妬したのだ。
魔王に口付けをされているワグに。自分には触れてこなくなった魔王がワグに触れたことが、どうしても許せなかったのだ。
これを認めてしまうと、答えは一つだけだ。
同時にキースは今までの人生を全否定することになる。守ろうとしたもの全てを冒涜する。愛している人間を裏切る。
――私は、魔王を愛している。
それは重く暗い絶望だった。
魔王の指が頬に触れ、自分が泣いていることに気付いた。泣くなんて、両親を失った時以来だった。
「キース……」
キースを抱きとめていた魔王の力が緩む。その呼び声も弱く困惑しているように思えた。魔王の前でここまでの弱さを見せたのは、初めてで、それも堪えた。
魔王の腕から逃れ、服を整える。
「少し、一人にさせてくれませんか」
キースには時間が必要だった。
許されない罪を背負いながら生きていく覚悟を決める時間が。