元魔王は愛が分からない・魔法使い
文字数 4,688文字
久しぶりに市場へ向かう日、キースは酷く無口だった。淡々と準備を整え、サラギにはいつものように魔法力の結晶を渡してくる。
魔法力を己に取り込むこつが少し分かっているので、本当は結晶を必要としないかもしれないと思ったが、黙って受け取っておいた。
「じゃあ、私は出かけますね」
表情もなくサラギを見たキースを、抱き寄せて唇を吸う。唐突なサラギの行動に反応しきれなかったのか、キースは易々とサラギの胸に転がり込んできた。
「んっ」
ようやく我に返ったかのように首を振って逃れようとするが、もう遅い。顎を掴んで固定した顔を逃すはずがない。深く深く口付け、キースが諦めたように抵抗をやめた頃、やっとその口を解放してやった。
「何ですか、急に」
「いや、貴様が敵でも殺しに行くような顔をしていたからな。欲情した」
「……何言ってるんですか……でも、そうですね、ありがとうございます。私、商売に行くのでした」
ようやくキースに笑顔が戻り、サラギはそっと安堵する。そして安堵した自分の感情がよく分からなくて困惑した。
キースが険しい顔をするのは悪くないと思っている。それでも、今はあんな顔で人間の元に行かせたくなかった。その理由が、自分でもよく分からない。
「じゃあ、私行きますね。いい子にしててください」
子供のように頭を撫でられ
「さっさと行け!」
怒鳴りつけると、キースは面白そうに笑いながら移動魔法で消えてしまった。
何度見ても、便利な魔法だと感心する。魔力での移動はしたことがない。そういう風に魔力を使おうと思ったこともないので、この便利な魔法を発明した人間はたいしたものだと、いつも思っている。
「あれさえ使えればな」
こんな島に閉じこもっていることもないのに、と思って自嘲する。
この島を出て、それから何をするつもりなのだと。
人間界を欲しいという気持ちはあるが、それには圧倒的に力が足りないことも分かっている。魔法力で魔族である体の本来の力は戻りつつあるが、そんなものだけで人間界を手に入れることなどできないことくらい、サラギには分かっていた。
魔王であるときには、圧倒的な魔力があった。それに従う部下も下僕も山のようにいた。それをもってして、キースに敗れた。魔法力を使えるようになったとて、あれより強大な力を手に入れることは無理だろう。
――だったら何故俺は生きている?
その答えは持っている。キースがいるからだ。キースが欲しいからだ。ただ、その先を持っていない。キースを欲してこの手に抱いて、それからどうする――?
答えなどない。
サラギは再び自嘲すると、洞窟前の坂道を下った。少し広がった草原の端に、作りかけの小屋がある。弟子と作りかけた小屋だ。サラギは気が向いたときにはこの小屋の続きを作っていた。見よう見まねと推測に基づいて進める作業はあまりに効率が悪い。それでもなんとか壁までは作ったが、どうにも屋根を付ける方法が分からなかった。
「家屋設計の本を買わせればよかったか」
一人呟いたとき、だった。
空気がざわり騒いで、足元の草が揺れる。身を切るような冷たい殺気に晒されて思わず剣の柄に手を添えたサラギの前に、強大な魔法力が現れたのだ。
それはみるみる姿を持ち、そこには麗美な服装に身を包み金の長い髪を揺らしながら、魔法使いが姿を見せた。
魔法使いの姿を見るのは、焼き殺されかけたとき以来だ。冷たく睨みつけてくる魔法使いから発せられるのは、まぎれもない殺気だった。
「キースがいない間に俺を殺しに来たのか」
一応剣を構えてみるが、魔法使いを守るように取り巻く風の渦を超えて刃を突き立てられるかは疑問だった。
魔法使いは黙ったままでサラギへと歩みより、風の刃を投げつけてくる。剣で弾けないかと思ったが触れた瞬間にこちらの方が弾き飛ばされるので、これでは避ける他に方法はない。
一方的にやられるのは我慢ならない。サラギは冷気を呼びだして投げつけられた風の刃にぶつけてみる。と、それは音をたてて双方を弾き壊した。有効らしい。魔法力が持つかは分からないが、今日はキースの置いていった結晶がある。それを取り込めば、もう少し戦えそうだ。
剣を捨て冷気を呼ぶ。魔法使いの次の手に備えたが、魔法使いは立ち尽くしたままで、風を投げてこなかった。同時に身を切る程の殺気が消えていく。
「何だ、殺さないのか?」
サラギの問いかけに舌を打った魔法使いは、鋭くサラギを睨みつけ長い前髪をかきあげた。
「来い」
「キサマがこちらに来ればいいだろう」
「お前、立場が分かっていないのか。私はいつもお前達を見張っている。生かすも殺すも私の心一つなのだぞ」
「殺すなら殺せばいい」
もちろん、易々と殺されてやる気はないが。警戒を解かずに、じりと距離をつめると、魔法使いは口の端に笑みを乗せながら、呟いた。
「誰がお前を殺すと言った?」
その言葉の意味に気付いたとき、サラギは総毛立った。サラギを殺さないとなれば、魔法使いの言う「殺す」はキースに向けられたものだ。
――そんなことは許さない。
地を蹴って魔法使いに掴みかかる――それは身をひるがえした魔法使いにかわされたのだけれど。
「キサマ!」
「まあ落ち着け。お前は獣か」
いつの間にか体の周りを風の刃で囲まれている。動けば身が裂かれるのだろうと、サラギは忌々しく舌を打った。
「お前、また一段と魔法力を身に付けているな。恐ろしいやつだ」
「――キースの結晶を持っているからな」
「ああ。だがそうじゃない。お前は魔力の代わりに魔法力をその身にいき渡らせることが自然にできている。そんなことができるのは、天才だけだというのに全く、不愉快」
吐き捨てるようにそう言った魔法使いは、おもむろにサラギの両手を握りしめた。容姿の割に大きな手はサラギと変わらない程だろう。しかし力は弱い。それでも振り払えないのは、体の周りを取り囲んでいる風の刃がいつでもサラギを貫いてやろうと待ち構えているからだ。
「お前の魔法力を封じる。取り込むことはできているようだが、まだ魔法として出力する技術がないな。これ以上、魔法が使えないように、私の名において、お前の魔法を封印する」
魔法使いが何をどうしているのか分からないが、どうやら魔法が使えなくするということなのだろう。
「私の編んだ封印だ。キースにも解けないだろう」
「面倒なことをする。今俺を殺せばいいだけだろうが」
サラギの言葉に魔法使いは嫌そうに眉を顰めて、握っていた手を更に強く握ってくる。腕力のない魔法使いのどこにこれほどの力があるのだと思いつつ、サラギも眉を顰めた。
「お前を殺したいさ、私は。でも、キースが泣くだろう」
キースが泣く。それはサラギも苦手だった。元魔王たるサラギよりも強い力を持っているくせに、まるでか弱い人間のように泣かれると、どう扱ったらよいか分からなくなる。
――……泣くのは、絶望故、だろう?
サラギが死ぬとキースは絶望する。魔法使いはそう言っているのだ。そこまで必要とされているのに、キースは何故、ああも苦しむのだろうか。市場へ行かせたキースの顔は、悲壮だった。
「おい」
「マリー様と呼べ」
「どうせ名など覚えられん。キースは俺を選んだくせに、時々死にそうな顔をする。何故だ」
「……そんな簡単な訳ないだろう。キースは苦しんでいる。お前を選んだことは人間を裏切ったってことだ。これから一生苦しむだろうな」
キースは自分の裏切ったものを背負いすぎている。サラギにはそう見えた。元勇者、その名は捨てろと魔法使いに言われても、キースにはそうできないらしい。サラギとて元魔王の過去を捨て去ることなどできない。今でも人間は脆弱でどうしようもない存在だと思っているし、魔力を取り戻したいと思っている。力さえ取り戻せば人間界を我が手にしたいという野望も捨て去ってはいない。
そしてキースも人間を愛し、守りたいという思いを捨て去ることはできないのだろう。これはこの先もずっと続く。
裏切ったのは魔王とて同じで、人間などとこんな風に過ごしているなど、魔族の誰が許すというのか。けれど、そんなことはサラギにとってどうでも良いことだ。それが元勇者と元魔王の差だった。
「それでも思ったより早かったな。この島を出る決意をするにはもっと時間がかかると思っていたが」
「鶏を買えと言った」
「お前がか? ……本当、お前らは――」
「キースは嫌がっていた」
「だろうな」
「理解できん」
「人間は複雑なんだよ。お前はもっと人間を知れ」
複雑というより、ひたすらに面倒なのだ。そんな人間のことを知ろうなどとは思わない。
けれど、キースだけは別だ。
「ほら、これでお前は小さな魔法しか使えない」
魔法使いの手が離されようやく自由になった手を振って、サラギは舌を打った。こんな首輪でも付けられたような状態に納得できる訳もない。だからといって、今、魔法使いをどうこうできる力がないことは知っている。それがまたサラギを苛立たせた。
「用は終わりだろう。早く消えろ」
封印したという魔法力だが、何が変わったのかサラギにはよく分からず、握られていた手を何度も振っては魔法使いの手の感触を払った。キースの肌と違って、あまり手触りは良くなかった。
「お前、失礼なやつだな! はあ、何故、キースはこんなやつを愛したんだ?」
その言葉の意味をサラギは知らない。けれど、キースの口から語られたその言葉を、もっと欲しいと思ってしまったのは本当だ。一度だけ、その言葉がキースから出たとき、サラギは今までにない感覚に包まれた。あの感覚が何だったのか、今でも分からずにいる。
「俺には愛など分からん」
「――だったら、お前のキースへの想いは何だ?」
「分からん。キースが俺を愛していると言ったときには、確かに満たされた。それが何かは分からん」
「……愛を、知りたいのか? 元魔王が?」
愛を知ろうなどとは思わない。けれど、キースからもう一度、その言葉が欲しいとは思っている。それをわざわざ魔法使いに話す気にはならないが。
だまり込む魔王に、魔法使いは面白そうに笑いながら
「ちょっと待ってろ」
と、移動魔法で姿を消した。一体何なのだと思う間もなく、すぐに戻ってきた魔法使いはサラギに一冊の本を投げた。受け取るつもりもなく手を出さなかったので、本は草の上に落ちた。
「お前、本当に憎らしいな。まあいい、そのあたりから勉強しろ」
それだけ言い放つと、魔法使いは今度こそ姿を消した。しばらく待っても姿を見せないことを確認して、サラギはそっと投げられた本を手に取ってみる。
表紙に兔の描かれたそれを開いてみる。キースの本と違って、書かれている文字が大きくすぐに読める。
何度も生まれ変わった兔は泣いたことがない。それが何度目かに結婚をし、伴侶が死んだときに初めて泣いたという話だった。
「意味が分からん」
これを読ませて魔法使いは何を言おうというのだろうか。
「キースなら分かるのか?」
まだキースの気配が感じられないのはまだ戻ってきていないからだ。けれど早くその顔が見たくて、サラギは本を片手に洞窟へと戻った。
魔法力を己に取り込むこつが少し分かっているので、本当は結晶を必要としないかもしれないと思ったが、黙って受け取っておいた。
「じゃあ、私は出かけますね」
表情もなくサラギを見たキースを、抱き寄せて唇を吸う。唐突なサラギの行動に反応しきれなかったのか、キースは易々とサラギの胸に転がり込んできた。
「んっ」
ようやく我に返ったかのように首を振って逃れようとするが、もう遅い。顎を掴んで固定した顔を逃すはずがない。深く深く口付け、キースが諦めたように抵抗をやめた頃、やっとその口を解放してやった。
「何ですか、急に」
「いや、貴様が敵でも殺しに行くような顔をしていたからな。欲情した」
「……何言ってるんですか……でも、そうですね、ありがとうございます。私、商売に行くのでした」
ようやくキースに笑顔が戻り、サラギはそっと安堵する。そして安堵した自分の感情がよく分からなくて困惑した。
キースが険しい顔をするのは悪くないと思っている。それでも、今はあんな顔で人間の元に行かせたくなかった。その理由が、自分でもよく分からない。
「じゃあ、私行きますね。いい子にしててください」
子供のように頭を撫でられ
「さっさと行け!」
怒鳴りつけると、キースは面白そうに笑いながら移動魔法で消えてしまった。
何度見ても、便利な魔法だと感心する。魔力での移動はしたことがない。そういう風に魔力を使おうと思ったこともないので、この便利な魔法を発明した人間はたいしたものだと、いつも思っている。
「あれさえ使えればな」
こんな島に閉じこもっていることもないのに、と思って自嘲する。
この島を出て、それから何をするつもりなのだと。
人間界を欲しいという気持ちはあるが、それには圧倒的に力が足りないことも分かっている。魔法力で魔族である体の本来の力は戻りつつあるが、そんなものだけで人間界を手に入れることなどできないことくらい、サラギには分かっていた。
魔王であるときには、圧倒的な魔力があった。それに従う部下も下僕も山のようにいた。それをもってして、キースに敗れた。魔法力を使えるようになったとて、あれより強大な力を手に入れることは無理だろう。
――だったら何故俺は生きている?
その答えは持っている。キースがいるからだ。キースが欲しいからだ。ただ、その先を持っていない。キースを欲してこの手に抱いて、それからどうする――?
答えなどない。
サラギは再び自嘲すると、洞窟前の坂道を下った。少し広がった草原の端に、作りかけの小屋がある。弟子と作りかけた小屋だ。サラギは気が向いたときにはこの小屋の続きを作っていた。見よう見まねと推測に基づいて進める作業はあまりに効率が悪い。それでもなんとか壁までは作ったが、どうにも屋根を付ける方法が分からなかった。
「家屋設計の本を買わせればよかったか」
一人呟いたとき、だった。
空気がざわり騒いで、足元の草が揺れる。身を切るような冷たい殺気に晒されて思わず剣の柄に手を添えたサラギの前に、強大な魔法力が現れたのだ。
それはみるみる姿を持ち、そこには麗美な服装に身を包み金の長い髪を揺らしながら、魔法使いが姿を見せた。
魔法使いの姿を見るのは、焼き殺されかけたとき以来だ。冷たく睨みつけてくる魔法使いから発せられるのは、まぎれもない殺気だった。
「キースがいない間に俺を殺しに来たのか」
一応剣を構えてみるが、魔法使いを守るように取り巻く風の渦を超えて刃を突き立てられるかは疑問だった。
魔法使いは黙ったままでサラギへと歩みより、風の刃を投げつけてくる。剣で弾けないかと思ったが触れた瞬間にこちらの方が弾き飛ばされるので、これでは避ける他に方法はない。
一方的にやられるのは我慢ならない。サラギは冷気を呼びだして投げつけられた風の刃にぶつけてみる。と、それは音をたてて双方を弾き壊した。有効らしい。魔法力が持つかは分からないが、今日はキースの置いていった結晶がある。それを取り込めば、もう少し戦えそうだ。
剣を捨て冷気を呼ぶ。魔法使いの次の手に備えたが、魔法使いは立ち尽くしたままで、風を投げてこなかった。同時に身を切る程の殺気が消えていく。
「何だ、殺さないのか?」
サラギの問いかけに舌を打った魔法使いは、鋭くサラギを睨みつけ長い前髪をかきあげた。
「来い」
「キサマがこちらに来ればいいだろう」
「お前、立場が分かっていないのか。私はいつもお前達を見張っている。生かすも殺すも私の心一つなのだぞ」
「殺すなら殺せばいい」
もちろん、易々と殺されてやる気はないが。警戒を解かずに、じりと距離をつめると、魔法使いは口の端に笑みを乗せながら、呟いた。
「誰がお前を殺すと言った?」
その言葉の意味に気付いたとき、サラギは総毛立った。サラギを殺さないとなれば、魔法使いの言う「殺す」はキースに向けられたものだ。
――そんなことは許さない。
地を蹴って魔法使いに掴みかかる――それは身をひるがえした魔法使いにかわされたのだけれど。
「キサマ!」
「まあ落ち着け。お前は獣か」
いつの間にか体の周りを風の刃で囲まれている。動けば身が裂かれるのだろうと、サラギは忌々しく舌を打った。
「お前、また一段と魔法力を身に付けているな。恐ろしいやつだ」
「――キースの結晶を持っているからな」
「ああ。だがそうじゃない。お前は魔力の代わりに魔法力をその身にいき渡らせることが自然にできている。そんなことができるのは、天才だけだというのに全く、不愉快」
吐き捨てるようにそう言った魔法使いは、おもむろにサラギの両手を握りしめた。容姿の割に大きな手はサラギと変わらない程だろう。しかし力は弱い。それでも振り払えないのは、体の周りを取り囲んでいる風の刃がいつでもサラギを貫いてやろうと待ち構えているからだ。
「お前の魔法力を封じる。取り込むことはできているようだが、まだ魔法として出力する技術がないな。これ以上、魔法が使えないように、私の名において、お前の魔法を封印する」
魔法使いが何をどうしているのか分からないが、どうやら魔法が使えなくするということなのだろう。
「私の編んだ封印だ。キースにも解けないだろう」
「面倒なことをする。今俺を殺せばいいだけだろうが」
サラギの言葉に魔法使いは嫌そうに眉を顰めて、握っていた手を更に強く握ってくる。腕力のない魔法使いのどこにこれほどの力があるのだと思いつつ、サラギも眉を顰めた。
「お前を殺したいさ、私は。でも、キースが泣くだろう」
キースが泣く。それはサラギも苦手だった。元魔王たるサラギよりも強い力を持っているくせに、まるでか弱い人間のように泣かれると、どう扱ったらよいか分からなくなる。
――……泣くのは、絶望故、だろう?
サラギが死ぬとキースは絶望する。魔法使いはそう言っているのだ。そこまで必要とされているのに、キースは何故、ああも苦しむのだろうか。市場へ行かせたキースの顔は、悲壮だった。
「おい」
「マリー様と呼べ」
「どうせ名など覚えられん。キースは俺を選んだくせに、時々死にそうな顔をする。何故だ」
「……そんな簡単な訳ないだろう。キースは苦しんでいる。お前を選んだことは人間を裏切ったってことだ。これから一生苦しむだろうな」
キースは自分の裏切ったものを背負いすぎている。サラギにはそう見えた。元勇者、その名は捨てろと魔法使いに言われても、キースにはそうできないらしい。サラギとて元魔王の過去を捨て去ることなどできない。今でも人間は脆弱でどうしようもない存在だと思っているし、魔力を取り戻したいと思っている。力さえ取り戻せば人間界を我が手にしたいという野望も捨て去ってはいない。
そしてキースも人間を愛し、守りたいという思いを捨て去ることはできないのだろう。これはこの先もずっと続く。
裏切ったのは魔王とて同じで、人間などとこんな風に過ごしているなど、魔族の誰が許すというのか。けれど、そんなことはサラギにとってどうでも良いことだ。それが元勇者と元魔王の差だった。
「それでも思ったより早かったな。この島を出る決意をするにはもっと時間がかかると思っていたが」
「鶏を買えと言った」
「お前がか? ……本当、お前らは――」
「キースは嫌がっていた」
「だろうな」
「理解できん」
「人間は複雑なんだよ。お前はもっと人間を知れ」
複雑というより、ひたすらに面倒なのだ。そんな人間のことを知ろうなどとは思わない。
けれど、キースだけは別だ。
「ほら、これでお前は小さな魔法しか使えない」
魔法使いの手が離されようやく自由になった手を振って、サラギは舌を打った。こんな首輪でも付けられたような状態に納得できる訳もない。だからといって、今、魔法使いをどうこうできる力がないことは知っている。それがまたサラギを苛立たせた。
「用は終わりだろう。早く消えろ」
封印したという魔法力だが、何が変わったのかサラギにはよく分からず、握られていた手を何度も振っては魔法使いの手の感触を払った。キースの肌と違って、あまり手触りは良くなかった。
「お前、失礼なやつだな! はあ、何故、キースはこんなやつを愛したんだ?」
その言葉の意味をサラギは知らない。けれど、キースの口から語られたその言葉を、もっと欲しいと思ってしまったのは本当だ。一度だけ、その言葉がキースから出たとき、サラギは今までにない感覚に包まれた。あの感覚が何だったのか、今でも分からずにいる。
「俺には愛など分からん」
「――だったら、お前のキースへの想いは何だ?」
「分からん。キースが俺を愛していると言ったときには、確かに満たされた。それが何かは分からん」
「……愛を、知りたいのか? 元魔王が?」
愛を知ろうなどとは思わない。けれど、キースからもう一度、その言葉が欲しいとは思っている。それをわざわざ魔法使いに話す気にはならないが。
だまり込む魔王に、魔法使いは面白そうに笑いながら
「ちょっと待ってろ」
と、移動魔法で姿を消した。一体何なのだと思う間もなく、すぐに戻ってきた魔法使いはサラギに一冊の本を投げた。受け取るつもりもなく手を出さなかったので、本は草の上に落ちた。
「お前、本当に憎らしいな。まあいい、そのあたりから勉強しろ」
それだけ言い放つと、魔法使いは今度こそ姿を消した。しばらく待っても姿を見せないことを確認して、サラギはそっと投げられた本を手に取ってみる。
表紙に兔の描かれたそれを開いてみる。キースの本と違って、書かれている文字が大きくすぐに読める。
何度も生まれ変わった兔は泣いたことがない。それが何度目かに結婚をし、伴侶が死んだときに初めて泣いたという話だった。
「意味が分からん」
これを読ませて魔法使いは何を言おうというのだろうか。
「キースなら分かるのか?」
まだキースの気配が感じられないのはまだ戻ってきていないからだ。けれど早くその顔が見たくて、サラギは本を片手に洞窟へと戻った。