魔王の事情

文字数 6,117文字




 白い闇というものがあるならば、きっとここのことだろうと魔王は思った。上下左右、白、白、白、世界が白く染まったとでもいうのか。
 自分以外の物質は確認できない。徐々に頭がはっきりとしてくると同時に目を細める。

「俺は殺されたのではなかったか?」

 人間界を支配するその途上、王たる自分は人間に追い詰められ、命を絶たれた――はずなのだが。
 もう一度、右手に目をやるがそれは確かに存在している。足も髪も体も、目で確認できる場所は残らず白の世界に存在しているのだ。ただ、他には何もない。この世界は「白」と「魔王」だけだった。

 魔族の最後は灰となって消える。しかし、魔王の体はまだ灰にはなっていない。

「殺されなかったと?」

 刹那、黒い目に炎を灯した人間のことを思い出す。
 いつも魔王の眼前に立ち、邪魔をしてきた人間。
 魔界の闇のような漆黒の髪と眼をした人間。
 人間達からは「勇者」と慕われ、愚かな人間そのもので「優しさ」や「慈愛」を尊び、何より人を大事にしていた男。

「キース」

 思わず口にしたその名が、耳から頭を駆け抜けて酷く不愉快にさせた。

 最後の戦い時、魔王はキースに追い詰められ魔力を振り絞ってまでの戦いになった。それはキースも同じことで、最終的には互いに魔力と魔法力を失い、剣技で、果ては体術で戦った。
 結果、魔王は勇者の前に倒れた。

 ――忌々しい。

 体中をとりまく不愉快を焼き払うつもりで右手を掲げて炎を呼んだが、反応はない。流れる血と同等に魔王を包んでいた魔力が、まるで失われていることに初めて気付く。魔力を失ってしまえば、最早「魔王」ではない。これが誰のせいなのかなど、今更考えることでもなかった。

「キース……っ」

 益々忌々しい。
 舌を打って、白い空間に横たわる。

 このおかしな空間もきっとあの男のせいだ。
 それくらいは魔王にも理解できる。じわり、と最後の瞬間を思い出すと、また眉に皺が寄った。確か、キースは「封印」する、と口にしたのではなかったか。命を賭して倒そうとした相手を、目の前で膝をつく力尽きた敵を、どうしてわざわざ封印などする必要があるのか。魔王には何一つ分からなかった。

 そうでなくとも、人間と分かりあえるはずなどない。
 人間など、堕ちた魔族のなれの果てなのだから。魔界で生きる力を持たず、魔力さえ捨てた愚かな存在が人間だ。脆弱、その一言に尽きる。そのくせ強欲でもある。魔王にとって人間など取るに足らぬ存在だ。けれど、光の世界を手に入れる為には邪魔だった。

 ――ちょろちょろと鬱陶しい。

 放っておいてもよかったが、いちいち目障りであったから数を減らした。ただそれだけのことだ。

 ――それをあの男は……。

 最初はどうでも良いと思っていたが、あまりに執拗だから叩き潰してやったというのに、それでもキースは何度も向かってきたのだ。黒い瞳に燃えるような炎を灯して。

 知らず、舌を打つ。
 キースの位置を把握しながら、足の届かないだろう場所にいたとしてもキースは必ず姿を現す。まるで魔王の動きを全て把握しているようで不快だった。

「忌々しい」

 白い闇の中で、拳を振り上げると、どこかでキースが笑ったような気がした。

 ひとしきりキースを罵ると、少し落ち着いて魔王は身を起こした。魔力は相変わらず使えないが、体は動く。取りあえずこの空間を把握しておいて損はないだろうと、どこまでも続くような白の中を歩いてみた。

 浮いているような気もするが、地を踏みしめているような気もする。これがキースのいう「封印」なのだろうかと、奥歯を噛みしめながら歩くが、相変わらず景色は変わらない。

「嫌なやつだ」

 今、顔を見せたら瞬時にその心臓を爪で貫き、この白に血を滴らせてやる、人間独特の柔らかい肉を嬲って苦痛の声をすすってやりたい、そうすれば、あの黒い瞳はどんな色になるのだろうか、そんなことを想像するだけで全身がうずいた。

「キース……顔を見せろ」

 白い空間の中を歩きながら、魔王は何度も勇者を呼んだ。
 ふと、キース独特の空気を感じた気がして振り返る。そこには何もない白だけだったが、魔王は目を細める。

 ――間違いない、キース、貴様だ。

 常にキースが身にまとっていた「魔法力」らしきものを感じて魔王は口の端に笑みを浮かべる。

 ――早く姿を見せろ。

 けれど、いつまでたってもキースは姿を見せない。その代わりとでもいうように、キースの魔法力だけが絶え間なく身を包んでいく。

「なんだこれは」

 魔力とはあまりに違うそれは、薄ら温かく不愉快そのものだ。力づくでねじ伏せて引き裂き貪り食いつくしてやりたくなる。

 ――いや、蹴散らせばよいことだ。

 何も、自分の一部とするように食らうことはない。妙なことを考えた自分を嘲笑すると同時に、キースの魔法力が強くなった。それと同調するように、目の前にキースの姿が現れる。

「キース、貴様!」

 怒号は、けれどキースの耳には届いていないようだった。
 白い空間の中、その向こう側の白を通す姿は透き通っていて、キースがここに存在していないのだと魔王に分からせるには十分だ。

「どういうつもりだ」

 魔王の呟きは聞こえていないのだろう。
 それと同時に、何故か色々な姿のキースが見えた。

 それは魔王を倒したあとの世界の出来事のようだった。

 人間達が勇者をあがめ歓迎したのは束の間、徐々にその力を利用し、邪魔に感じると排除を始める。その全てがキースを通した姿で魔王に流れ込んでくる。


 矮小で愚かそのもの。取るに足らぬと仮定した魔族の思考は正しいと言い切れるだろう。放っておいても自滅する存在なのだ。それを命がけで救い続けたキースの結末に笑いが止まらなくなる。

「ほらみろ、貴様は愚かだ」

 キースは城を出て、一人無人島にたどりついた。

「さすがの貴様も人間の醜さに気付いたか」

 それならば、側に置いてやってもいい。魔王の右手となるだけの力は持っているのだ。共にあれば、人間の世界を手にするなど、容易いことに思える。

 けれど。

 魔王の中に流れてくるキースの思考は、一向に人間に憎悪を抱かない。毒を盛られ、暗殺されかけて尚。

 ――馬鹿なのか。

 そうに違いない、と魔王は苛立ちを隠せなくなる。そもそも人間の分際でこの自分に立ち向かってくる時点で馬鹿なのは分かっていたが、こうも馬鹿だとは思いもしなかった。むしろ人間の中では唯一、認めざるを得ない存在だと――忌々しくも――思っていたというのに。
 キースから流れてくる感情は、ひたすらに淡々と事実を見つめているそれだけだ。

「キース、やはり、俺がこの手で殺してやる!」

 吠えながら白い空間を踏みしめた時、だった。
 生温いと思っていた身を包むキースの魔法力が、ぞっとする冷たさに変わる。同時に流れ込んできたキースの感情は、とてつもない絶望だった。守ろうとした人間に裏切られた時ですら、こんな絶望はなかったが、と目を細める魔王に、キースの感情が流れ込む。

『一目、会いたかっただけなんですが――魔王』

 瞬間、魔王は声をあげて笑った。

 清廉で潔白で純粋で、けれど魔王を打ち砕く程の強さを持った唯一の人間だったはずのキースが、人間の敵である魔王に会いたがっている。それは最早人間ですらなくなってしまったということではないか。

「残念だ、キース」

 それ程にまで会いたいというのならば、この空間をどうにかすればいい。魔王は目を閉じ、キースを想う。会ってやろうではないか。そして、望み通り、人間を滅ぼしたら、その後で引き裂いて食らってやろう。

 身を包むキースの魔法力が強くなる。


 何も感じなかった肌に、まとわりつく風を感じる、波の音が聞こえる。そっと目を開くと、キースが黒い瞳で魔王を見つめていた。




 キースはただじっと魔王を見つめていた。

 魔王もキースを見つめたが、思っていた様子と違うことに拍子抜けしていた。さっき感じたキースの堕落を、この目の前のキースからはもう感じられないからだ。さぞや弱った目で魔王を求めるかと思えば、いつもと同じようにひたすら真っ直ぐに見つめられ、ともすればこのまま斬り合いになりそうだ。

 ――俺を求めていたのではないのか?

 そして人間への恨みをはらすのではないのか。
 辺りには見慣れた人間界の景色があり、さっきまでの白い空間ではなくなっている。あの空間を「封印」と呼ぶのならば、今その封印は解かれたということになる。

 そっと手を握り締めて魔力を呼んでみるが、それはどこにも感じられなかった。体内に渦巻いているはずの魔力はどこにもなく、身にまとわりついているキースの魔法力しか感じない。

 とてもではないが、本来の力など欠片も出せないだろう。
 白い空間を出たとはいえ、これではあの空間にいるのと何も変わりはないだろうと、忌々しさに頭が痛くなる。それに輪をかけるように、キースが口を開いた。

「あー……その、なんて呼びましょうか」

 一瞬、何を言っているのか分からず、眉を寄せる。間の抜けたことを言う目の前の男は本当にあのキースなのかと、思わずこぼれたのは、その名だった。

「キース――?」
「いや、それは私の名です。貴方の名を聞いてるんですけど」

 キースは本気で魔王の名を問うているらしい。

 ――一体何の真似だ。

 苛立ちと共に、感じたことのない感情が魔王を包み込む。それは、戸惑いだった。
 魔族にとって名を教えることは、相手を認め受け入れることを意味する。もしくは従属。魔王の名を知る者は、今は誰もいない。
 それを真っ直ぐに問うてくるこの人間は、もしや魔王すら組み伏せる策でも持っているのだろうか。この状況全てがその布石であり、ここで名を答えさせ魔王を従属に置く秘策を、キースなら持っているような気もする。

 魔王はキースをまじまじと見つめた。
 自分が知っている頃よりも、少しばかり髪が伸びたか。キースの黒髪は耳を隠す程もなかったのだが、今はそれよりも下にある。人間の容姿の優劣は分からないが、部下達は人間の中では綺麗だと評していた。大きな目のせいか年若く見えていて、それは今も変わらない。
いつも全身を覆っていた鎧姿はなく、薄い布一枚の服では爪で弾くだけで殺せそうだった。どこか懐かしく思うような魔界の闇と同じ漆黒の瞳と髪色だけは変わらず、これはあのキースなのだと確信させる。

 ――やはり何か企んでいるのか。

 魔力は未だ取り戻せそうにない。キースの魔法力を操れないかと試しているが、それも今すぐには無理そうだ。こうなれば、しばらくはキースの様子を見るしかなさそうだと、魔王は奥歯を噛んで、呟く。

「知らん」

 そうすると、キースは曖昧な笑みを浮かべて言った。

「では、今まで通り魔王と呼びましょうか」



 キースは奇妙だった。

「ここで暮らしてるんですよ」

 そんなことを言いながら連れてこられたのは、洞窟だった。何故こんな暮らしをしているのかは、封印空間で流れ込んできたキースの思考を覚えているから、分かっている。

「隠居です」

 そんなことを言いながら、キースはよく笑った。

 キースの説明によると、魔王は未だキースの封印の中にいて、キースの魔法力が無くなれば完全に灰に戻るということだった。その言葉通り、確かに魔力の無い体は腹立たしい程に無力だ。
 しばらく様子をうかがっていた魔王だが、キースは常に全身の力を抜き殺気すら抱えず、まるで普通の人間のようだった。

「貴様、何を企んでいる。俺をどうするつもりで目覚めさせた?」
「貴方に会いたかっただけです」

 本当に、一体何のつもりなのだと思う。

 ――俺を誰だか分かっているのか?

 こんな笑みを向けられたことはない。当然だ、命のやりとりをして来た相手だ。自分の全てを否定した男だ。それはお互いにそうだったはずだ。それなのに、今のキースは魔王の寝床の心配などをしている。

「私的には枯れ草のベッドでも大丈夫だったんですけどね」

 本当にこれはキースなのか。

「この草はどうです? 柔らかそうですけど」

 洞窟前に生えている草を刈ってきて魔王に見せるキースは、まるで知らない人間のようで、魔王を動揺させた。

 ――今なら一ひねりで殺せそうだ。 

 草を差し出すその腕を掴んで力を加えると、キースの表情が途端に変わる。軟弱な笑みをたたえていた目に炎が灯り魔王を睨み据え、へし折れそうだった腕が鋼の強さに変わった。人間のくせに魔王を恐れず本気で打ち倒さんとする他の人間とは唯一違う、キースそのものな顔に触れると、安堵してしまうのは何故だろう。

「――やはり貴様は貴様だな、キース」
「……貴方は貴方には成れませんよ。貴方は私の手の内にある」
「貴様を殺せばいい」
「殺せない。私を殺せば貴方に供給される魔法力が途絶え、貴方も死にますから」

 それは困る。魔王はキースの腕を離した。キースの魔法力を魔力に変換する、もしくは魔法力を使いこなせるようになるまではしばらくかかりそうだった。
 それまでは、この奇妙な時間を耐えるより他にないのだろう。

 ――忌々しい。

「それで、この草でベッド作ります?」

 差し出された草を投げ捨てて、魔王は立ちあがった。まだ魔王になる前は、魔界の修羅を一人で生き抜いてきた身だ。軟弱なキース風情よりも優れた寝床を作ることくらい容易い。光ある人間界は魔界よりも様々な素材で溢れていて、それを手に入れる為に人間界を欲したくらいだ。
 洞窟を出ると、何故かキースもあとをついてくる。

 ――それにしても、今更、草の寝床か。

 人間界で最も気にいっていたのが柔らかい布の寝床だというのに、である。

「キース」
「何です?」
「貴様、寝床くらい持ち込まなかったのか」
「あー、寝袋はあるんですけどね、せっかくだから手作りした方が時間も潰れるし、いいかなって思って」
「馬鹿なのか」

 寝袋があるのならば、それを寝床とすればいい。一体キースは何を考えているのかと舌を打ちながら振り返ると、キースは面白そうに笑っている。

「寝袋がいいんですか? 魔王が?」

 それに入った魔王の姿を想像しているらしいキースはしばらく笑い続け、それを見ながら魔王は妙な気分になる。こんなキースは知らない。燃えるような目で睨まれ続けたことしかないのだ。そのくせ笑い続けるキースの顔を片手で掴むと、見慣れた目で睨まれる。

 ただの人間のように笑うキースと、魔王を追い詰める見慣れた目をしたキース、何故こうも違う顔なのだろうかと、魔王は苦々しく舌を打った。
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