元魔王は愛が分からない・愛とは
文字数 3,205文字
キースは鶏を買ってこなかった。
「何故だ!」
「そもそも小屋がないと買っても仕方がないでしょう? なので、今回はこれです」
よいしょ、と声を出しながらキースが机に本を並べていく。表紙を見ただけではそれが何か分からず手に取ると、中身は小屋の造り方を図解したようなものだった。
「こんなもので造れるようになるのか?」
図を見れば、なんとなくは分かる気がするが、それでもサラギには困難に思えた。キースは口の端に笑みを乗せると、さも得意そうに胸を張る。
「私、理屈を考えるのは得意なので」
「それが何だ」
「だから、書物から造り方を理解できると言ってるんです」
「寝床もろくに作れない貴様が」
サラギの嫌味に肩をすくめたキースはどこか不機嫌に目をそらした。前は弟子に指摘されなければ分からなかったキースの感情が、最近は少し分かるようになったのだが、分かるようになるとキースは存外忙しく感情を表している。
「怒ったのか」
「違いますよ。拗ねたんです」
拗ねた。それは子供の感情ではないのか。やはりサラギには人間を理解するのは難しいことに思える。それでも今、キースが目を合わせずに口を噤んだ顔は愛らしいと思った。
「悪くない」
「何が」
「貴様の、拗ねた、顔だ」
「っ、そういうの、わざわざ言わなくていいです」
悪いことを言ったとは思わないのに、怒られた。まったく難解だと、サラギは息をつく。キースはこんな男だったろうかと思うが、もうそれにいちいち戸惑うのも疲れてきた。
「と、とにかく。私が小屋の造り方を学んで貴方に教えるので、貴方はその間、図鑑でも見ててください」
指されたのは机に残った赤い皮表紙の図鑑だった。手に取ると、小屋の造り方よりもずっしりと手に重さが残る。城にいるときに見たものと少し似ている気がして興味深い。せわしなく頁をめくると、色のついた頁に出くわす。
それは、キースの彫っていた木彫りの蝶に似ていた。
「これが蝶か」
思わず呟いたサラギの横から図鑑を覗きこんで、キースが、ああ、と相槌を打った。
「そうですよ。美しいでしょう」
確かにサラギの知っている蝶とはまるで違う。そこに描かれていた繊細な生き物は、キースのいうように硝子を透かしたような色をしていて、知らず息を飲んだ。
薄紫の羽に漆黒の線を描く、まるで職人が作り上げたような繊細さ。これが自然に生み出される生き物だとは到底思えない。
「これは飛ぶのか」
「飛びますよ、立派な羽でしょう? 大きさはそこに描かれている通りなので、手に取ることもできますよ」
欲しい。久しぶりにサラギは強く思う。こんな生物が自然発生しているのだ。人間の作りだすものが美しいのも納得だ。力さえあれば、この人間界を全てこの手にできるというのに。
他にも珍しいものがないか、サラギは夢中で頁をめくった。
「これ良い図鑑なんです。色を付けているのは珍しくて。高かったけど、貴方がそんなに喜ぶなら買って良かった」
「だから鶏の分、金が無かったのか」
「違います」
キースは何食わぬ顔で笑ったが、きっとサラギの言ったことは当たっていたのだろう。それくらいは、分かる。サラギの隣から離れようとしたキースを抱き寄せて、口付ける。何故か、そうしたかった。
「んっ、なに、急に」
「分からん、したくなった」
「貴方はいつもそれだ」
口付けは愛を確かめる行為だと、キースは言った。けれどサラギにはそれが分からない。そうしたいと思ったときにそうするだけなのだが、その理由を問われても答えなどない。
そんなことは分かっているとでもいうようにキースはサラギから離れ、洞窟の隅に目をやって動きを止めた。その視線の先には、魔法使いが置いていった本がある。
「え、何です、この絵本?」
「魔法使いが置いていった」
「マリー、え、マリーが、来たんですか!? いつ!」
キースの顔色が変わる。青ざめた肌の上でその目が一瞬、虚ろに揺れた。こんな顔は見ていられないけれど、どうすればキースがいつもの表情に戻るかなど、サラギには分からなかった。
「貴様が市場に行っている間に来た」
「……私がいない間を狙って、か」
「見張っていると言ってたな。それから俺の魔法力を封じると」
マリーが何かをしたことを説明しながら両手をキースに差し出すと、キースはサラギの両手を取って、強く握りしめた。
「魔法力を封じる? そんな魔法、知らない……だとすれば、術の類かもしれませんね」
「貴様でも解けないだろうと言っていたな」
キースは黙ったままでサラギの両手を見つめている。その顔が、まだ暗い。キースが何を考えているかは分からないが、この表情は気にいらない。この顔をしているとき、キースの感情はサラギには向かっていないからだ。
「俺を殺すと貴様が泣くから、殺さないらしいぞ」
魔法使いの言っていた言葉の中からキースが喜びそうなものを選んでみると、キースがそろり、と顔を上げる。その目に力が戻っているのを知って、サラギはほっと息をついた。
「泣くからって。私は子供じゃありませんけど」
減らず口も戻ってきたと同時に、暗かった顔色が変わる。
――まったく、面倒なやつだ。
「それにしても、何故絵本なんです?」
「知らん。愛を知れなどと言ってたな」
「愛って……絵本で?」
絵本をめくりながらキースの頬が柔らかに緩んだ。
「あー、昔よく読みました」
キースの持っている意味の分からない文字が並んだ本などとはまるで違う、子供向けに作られた本を、キースは嬉しそうに読んだ。
「つまらなくないのか」
「懐かしいですよ。子供の頃よく読んだんです」
「貴様も子供だったことがあるんだな」
「当たり前ですよ」
本から目を離したキースが呆れたようにサラギを見つめてくる。人間の子供は人間の中でも極めて脆く弱い。このキースにも誰かに庇護されなければ生きていけないときがあったのかと思うと、それは不思議でもあったし、自分の知らないキースの姿を思うと妙な気分になった。
「それの意味が分からん。兔が死んだ話だろう?」
「そうですけどね。あー、うん、だからマリーはこれにしたんですかねえ。これは愛を知らない兔が愛を知るまでの話なんです」
「伴侶が死んで泣けばいいのか?」
「うーん。まあ、愛なんて形も定義もありませんし、教えられるものでもないですし」
「教えろ」
愛を知りたい、とは思わないが、キースの口からその言葉が語られるのは悪くないとサラギは思った。柔らかな口調は湯に浸かっているときほどの心地よさがある。
キースは絵本を机に置くと、困ったように笑った。
「難しいこと言いますねえ」
何か考えているのかキースの目がそっと伏せられる。その目が開かれるのを待っていると、しばらくしてキースが静かに口を開いた。
「本当に愛なんて人によって違うものなんですけど。例えば、貴方にとっては硝子も私も同じ『悪くない』なんでしょうけど、私にとって貴方は全く違うんです」
「分からん」
「いいんです、それで。だいたい、貴方は愛なんて知らなくていいですよ。貴方は貴方のままでいればそれでいいんです」
キースは笑うが、サラギはまったく納得できない。だいたい硝子とキースを同じなのだと思ったことなどないというのに、キースは何を言っているのだと眉を顰めた。
キースは他の何とも違う。サラギが唯一、これだけが欲しいとまで思ったものだ。
「俺は貴様が欲しい、それは違うのか」
「欲も愛の一種だとは思いますけどね」
もう面倒になって、サラギはまた図鑑に手を伸ばす。キースが知らなくていいというなら、もうそれでいいと思った。
「何故だ!」
「そもそも小屋がないと買っても仕方がないでしょう? なので、今回はこれです」
よいしょ、と声を出しながらキースが机に本を並べていく。表紙を見ただけではそれが何か分からず手に取ると、中身は小屋の造り方を図解したようなものだった。
「こんなもので造れるようになるのか?」
図を見れば、なんとなくは分かる気がするが、それでもサラギには困難に思えた。キースは口の端に笑みを乗せると、さも得意そうに胸を張る。
「私、理屈を考えるのは得意なので」
「それが何だ」
「だから、書物から造り方を理解できると言ってるんです」
「寝床もろくに作れない貴様が」
サラギの嫌味に肩をすくめたキースはどこか不機嫌に目をそらした。前は弟子に指摘されなければ分からなかったキースの感情が、最近は少し分かるようになったのだが、分かるようになるとキースは存外忙しく感情を表している。
「怒ったのか」
「違いますよ。拗ねたんです」
拗ねた。それは子供の感情ではないのか。やはりサラギには人間を理解するのは難しいことに思える。それでも今、キースが目を合わせずに口を噤んだ顔は愛らしいと思った。
「悪くない」
「何が」
「貴様の、拗ねた、顔だ」
「っ、そういうの、わざわざ言わなくていいです」
悪いことを言ったとは思わないのに、怒られた。まったく難解だと、サラギは息をつく。キースはこんな男だったろうかと思うが、もうそれにいちいち戸惑うのも疲れてきた。
「と、とにかく。私が小屋の造り方を学んで貴方に教えるので、貴方はその間、図鑑でも見ててください」
指されたのは机に残った赤い皮表紙の図鑑だった。手に取ると、小屋の造り方よりもずっしりと手に重さが残る。城にいるときに見たものと少し似ている気がして興味深い。せわしなく頁をめくると、色のついた頁に出くわす。
それは、キースの彫っていた木彫りの蝶に似ていた。
「これが蝶か」
思わず呟いたサラギの横から図鑑を覗きこんで、キースが、ああ、と相槌を打った。
「そうですよ。美しいでしょう」
確かにサラギの知っている蝶とはまるで違う。そこに描かれていた繊細な生き物は、キースのいうように硝子を透かしたような色をしていて、知らず息を飲んだ。
薄紫の羽に漆黒の線を描く、まるで職人が作り上げたような繊細さ。これが自然に生み出される生き物だとは到底思えない。
「これは飛ぶのか」
「飛びますよ、立派な羽でしょう? 大きさはそこに描かれている通りなので、手に取ることもできますよ」
欲しい。久しぶりにサラギは強く思う。こんな生物が自然発生しているのだ。人間の作りだすものが美しいのも納得だ。力さえあれば、この人間界を全てこの手にできるというのに。
他にも珍しいものがないか、サラギは夢中で頁をめくった。
「これ良い図鑑なんです。色を付けているのは珍しくて。高かったけど、貴方がそんなに喜ぶなら買って良かった」
「だから鶏の分、金が無かったのか」
「違います」
キースは何食わぬ顔で笑ったが、きっとサラギの言ったことは当たっていたのだろう。それくらいは、分かる。サラギの隣から離れようとしたキースを抱き寄せて、口付ける。何故か、そうしたかった。
「んっ、なに、急に」
「分からん、したくなった」
「貴方はいつもそれだ」
口付けは愛を確かめる行為だと、キースは言った。けれどサラギにはそれが分からない。そうしたいと思ったときにそうするだけなのだが、その理由を問われても答えなどない。
そんなことは分かっているとでもいうようにキースはサラギから離れ、洞窟の隅に目をやって動きを止めた。その視線の先には、魔法使いが置いていった本がある。
「え、何です、この絵本?」
「魔法使いが置いていった」
「マリー、え、マリーが、来たんですか!? いつ!」
キースの顔色が変わる。青ざめた肌の上でその目が一瞬、虚ろに揺れた。こんな顔は見ていられないけれど、どうすればキースがいつもの表情に戻るかなど、サラギには分からなかった。
「貴様が市場に行っている間に来た」
「……私がいない間を狙って、か」
「見張っていると言ってたな。それから俺の魔法力を封じると」
マリーが何かをしたことを説明しながら両手をキースに差し出すと、キースはサラギの両手を取って、強く握りしめた。
「魔法力を封じる? そんな魔法、知らない……だとすれば、術の類かもしれませんね」
「貴様でも解けないだろうと言っていたな」
キースは黙ったままでサラギの両手を見つめている。その顔が、まだ暗い。キースが何を考えているかは分からないが、この表情は気にいらない。この顔をしているとき、キースの感情はサラギには向かっていないからだ。
「俺を殺すと貴様が泣くから、殺さないらしいぞ」
魔法使いの言っていた言葉の中からキースが喜びそうなものを選んでみると、キースがそろり、と顔を上げる。その目に力が戻っているのを知って、サラギはほっと息をついた。
「泣くからって。私は子供じゃありませんけど」
減らず口も戻ってきたと同時に、暗かった顔色が変わる。
――まったく、面倒なやつだ。
「それにしても、何故絵本なんです?」
「知らん。愛を知れなどと言ってたな」
「愛って……絵本で?」
絵本をめくりながらキースの頬が柔らかに緩んだ。
「あー、昔よく読みました」
キースの持っている意味の分からない文字が並んだ本などとはまるで違う、子供向けに作られた本を、キースは嬉しそうに読んだ。
「つまらなくないのか」
「懐かしいですよ。子供の頃よく読んだんです」
「貴様も子供だったことがあるんだな」
「当たり前ですよ」
本から目を離したキースが呆れたようにサラギを見つめてくる。人間の子供は人間の中でも極めて脆く弱い。このキースにも誰かに庇護されなければ生きていけないときがあったのかと思うと、それは不思議でもあったし、自分の知らないキースの姿を思うと妙な気分になった。
「それの意味が分からん。兔が死んだ話だろう?」
「そうですけどね。あー、うん、だからマリーはこれにしたんですかねえ。これは愛を知らない兔が愛を知るまでの話なんです」
「伴侶が死んで泣けばいいのか?」
「うーん。まあ、愛なんて形も定義もありませんし、教えられるものでもないですし」
「教えろ」
愛を知りたい、とは思わないが、キースの口からその言葉が語られるのは悪くないとサラギは思った。柔らかな口調は湯に浸かっているときほどの心地よさがある。
キースは絵本を机に置くと、困ったように笑った。
「難しいこと言いますねえ」
何か考えているのかキースの目がそっと伏せられる。その目が開かれるのを待っていると、しばらくしてキースが静かに口を開いた。
「本当に愛なんて人によって違うものなんですけど。例えば、貴方にとっては硝子も私も同じ『悪くない』なんでしょうけど、私にとって貴方は全く違うんです」
「分からん」
「いいんです、それで。だいたい、貴方は愛なんて知らなくていいですよ。貴方は貴方のままでいればそれでいいんです」
キースは笑うが、サラギはまったく納得できない。だいたい硝子とキースを同じなのだと思ったことなどないというのに、キースは何を言っているのだと眉を顰めた。
キースは他の何とも違う。サラギが唯一、これだけが欲しいとまで思ったものだ。
「俺は貴様が欲しい、それは違うのか」
「欲も愛の一種だとは思いますけどね」
もう面倒になって、サラギはまた図鑑に手を伸ばす。キースが知らなくていいというなら、もうそれでいいと思った。