魔王が看病
文字数 3,365文字
目を覚ますと傍らに魔王がいる。キースと目が合うと微かな声で名を呼ばれたのが分かる。それを確認して、キースはまた意識を手放した。
それを何度か繰り返し、ようやくキースは覚醒をする。その時には魔王はいなくて、そっと身を起こすと、何故かキースは魔王の寝床で寝ていた。記憶をたどって、魔王とやりあったあとに気を失ったことを思い出した。
だとすれば、ここに寝かせたのは魔王なのだろう。
何度か目を覚ます度、見下ろしてきた魔王の目からは何も読み取れなかったが、魔王に刺された右腕には包帯が巻かれていた。
――魔王が?
キースが無意識のままで自ら包帯を巻いたのでなければ、他に考えられない。痺れる左手に目をやると、何かの葉がびっしりと貼り付けられていて、これは確かに看病なのだろうと思った。
キースが死ねば魔王も死ぬのだから、死なれては困ると魔王が手を尽くしたのだろうが。それでも、これは天地が変わる程の驚愕だった。
――それにしても。私もなまったものだ。
不完全だったとはいえ、炎の魔法を魔王にかわされた。魔法を使う時、魔法力の乱れは失敗を呼ぶ。そんなことは分かっているはずなのに、心が乱れてしまった。
己もまだまだ、なのだと思いつつ立ち上がろうとしたが、まだ体は熱に浮かされていて息苦しい。両手の痛みが酷く、右はなんとか動くが、左手はぴくりともしない。自ら招いてしまったこととはいえ、この状況はかなり良くない。
キースの寝床の側に、少しばかりの薬草も置いてあったのだが、魔王が荒らしたのか革袋が転がっているだけだった。
――ああ、魔王が使ってくれたのか。
薬草を使ってくれていれば右腕の刺し傷は時間があれば治るだろう。問題は火傷の方だった。上等回復魔法であれば治るかもしれないが、キースの使える回復魔法程度では痛みを抑えることすら難しい。ないよりマシかと唱えてみたが、少し熱が引いただけだった。
それでも身を起こすことはできるようになった。
水を求めて寝室から出ると、食卓にいた魔王が目を見開く。
「キース!」
何か言いかけた魔王の口が微かに動いて、そのまま静まり返る。キースも何か言いたかったが、今はその体力も惜しい。ふらつく足で椅子に座ると、机に水が置かれた。魔王のグラスに注がれた水を差しだされ、抵抗する力もなく受け取ると、冷たさで喉をうるおす。
生き返るようだった。
ようやく、声になる。
「ありがとうございます」
魔王はグラスにもう一度水を注いでキースに渡した。飲めというのだろうと、それも素直に受け取ると、微かな呟きが聞こえる。
「貴様に死なれると困る」
――貴方も死にますからね。
今度はゆっくりと口に含み、少しずつ飲み干す。その全てを、魔王はじっと見つめていた。あまり見つめられると落ち着かない。キースはそっと顔を背けたが、伸びてきた魔王の手でまた正面を向かされた。何なのだとは思うが、今はそれを問うのも億劫だ。静かに水を飲み続ける。
魔王が目を細める。
「貴様、死ぬのか」
縁起でもない。首を横に振ると刺された腕の痛みで、ついグラスを落としてしまった。ごとりと落ちたグラスがテーブルに転がり、少し残っていた水が木目を濡らしながら広がっていく。
「すみません」
グラスが割れなくてよかった。
魔王はそのグラスを拾うと、水差しの水を注いで、キースの口元にグラスを掲げた。受け取ろうとするが魔王は渡してくれず、キースの口元にグラスを当てたまま動かない。
――このまま飲めってこと?
まるで、母親が子供にするように?
それはさすがに気が引けるし、羞恥でもある。けれど、魔王は真っ直ぐにキースを見つめたままでグラスを構えている。これは母ではない、魔王なのだ。あの魔王が水を飲ませてくれようとしている。元気であれば吹き出す所だが、今はそんな体力もない。
ためらいながらもグラスに口を付けて、与えられるままに水を飲んだ。全て飲み干すと、魔王はグラスを引き、今度は果実を持ってくる。
「食え」
皮を剥ぎ、一口大に切られた赤い果実は瑞々しくて美味そうだった。これも口元に差し出され、おずおずと口をあけると、雛のようにそれを受け取らされる。こんなに甘やかされたのは、子供の頃以来ではないかと、ぼんやり思う。
「どうだ」
「美味いです」
「他に何を食う?」
「もう、十分です」
小さく礼を口にすると、今度は椅子ごと抱き上げられそのまま寝室に運ばれた。
「魔王?」
「人間のことは分からん。寝ていれば治るのか?」
そんなに単純ではないが、今眠りたいのは真実だ。キースが静かに頷くと、魔王はキースをベッドに下ろし舌を打つ。
「俺との戦いの中でもこれほど弱ったことはないだろう? 魔法使いを呼べ。あれなら治せるのだろう」
魔法使いに会いにいけば、この火傷は治して貰えるだろうが、この状況を上手く説明できる自信がない。どれだけの怒りと説教を食らうか。この状況をあの厳しい人が許すはずがない。黙って目を閉じたキースの額に魔王が触れた。ひやりとした肌が心地よい。離れていくのが惜しくて、思わずその手にすがり、我に返ってその手を離す。
――私は本当に弱っているのだな。
そっと目をあけた先、魔王が目を見開いていた。銀の瞳がこれほど綺麗に見えたことはない。それが少しずつ近づいてくる。両耳に魔王の髪がさらりと落ち、唇が触れた。
また、口を吸われている。
――なんだろう、これは。
抗う力もない。そのままを受け止めると、魔王の舌がざらりとキースの咥内を舐めとる。肌と同じで少し冷たい感触が心地よかった。知らずその冷たさを欲して舌を絡めると、痛い程に吸われた。
「んっ」
吸われているのは、何なのか。
――魔法力かな。
魔法力を吸い取ることができるなど、聞いたこともない。そんな研究はなかったはずだし、キースも実感したこともない。魔法力をどれ程自らに蓄積できるかは個人差になる。それが大きければ大きい程に魔法力が強いことになる。魔法使いはその量が極端に多いのだが、キースもそれなりに強い。そうでなければ灰の魔王を生かすことなどできない。
理屈で考えるならば、その魔法力を操ることができれば魔王はキースに頼らず生きることができるのだろう。
そういえば魔王は思ったより力を持っていなかったか。魔力がないはずなのに、キースと渡り合っていなかったか。
――私の魔法力を溜めていた?
それを自らの力として振るうことができるようになったのだとすれば、立場が逆転する。もし本当に魔王が魔法力を吸い取ることができるとすれば、こんな危険なことはない。
魔王の口は、まだ外れない。
キースの咥内を蹂躙し、舌を絡めとり、吸いついて来る。
「っ、ん」
背中が粟立つ。魔王にとっては魔法力を吸い取る行為でも、キースにとっては違う。これはただの口付けだ。
どれくらいぶりかもわからない欲がうずく。舌をいたぶられることで欲がうずくなど、知らなかった。
――駄目だ、逃げないと。
分かっているのに、体は動かない。快楽など感じてはいけないと分かっているのに、ぞくぞくと震える身体を止めることもできない。
「んぁ」
ようやく舌が解放された時には、無意識に息が乱れた。ただでさえ熱に浮かされた体が更に熱を持った気がする。
――これは、駄目だ。
うずく身体を必死に押さえているというのに、魔王は未だキースの上からどく気配もない。息が触れるような距離でキースを見つめている。
「も、ぅ、寝かせて」
ようよう言うと魔王がやっと離れた。
「キース……」
呼び声がやけに優しく聞こえるなんて思ってはいけない。触れてくる指の感触が心地よいなど、そんなはずがない。全ての感情を奥へ奥へとしまって、キースは目を閉じる。
――私は弱っている。今は回復しないと。
「貴様、俺に何をした……?」
独り言のような魔王の声に耳を貸してはいけない。キースはそのまま、また深い眠りについた。