魔王とグラス

文字数 2,498文字




 島を出るのはどれくらいぶりだろうか。キースは妙な緊張を抱えて移動魔法を唱える。
 島からなるだけ遠く、キースのいた城からもなるだけ遠く、それなりに復興が進んだ街といえば数える程しかない。

 その中で一番大きな街へと飛び、念のために顔を布で覆う。魔王が倒れてから数年、未だその影は深かったが、それでもこの街は少しずつ平穏を取り戻しているように見えた。何より移民が多そうだ。魔王のせいで住む場所を追われた人々は世界を漂っている。この街にはそういう人々が多くいるようだった。自分の力がもう少しあれば、ここまで移民が増えることは無かったかもしれないと胸を痛めるのは、キースが一生抱えていく懺悔だ。

 ――今は、魚を売らねば。

 街の中心へと進むと、市を立てる準備をしている商人が多くいる。キースのように顔を布で覆った民族も珍しくなく、それには安堵した。
 世界を回ったおかげで、だいたいの国の言葉を喋ることができるのも身を助けた。

 一通り下見を終えて、話ができそうな商人に片端から声をかけた。突然商売を持ちかけてくる移民を、商人達はよくうかがっていた。キースも相手の反応をよく見ていた。できればこの先も長く付き合っていければ、金が必要となった時に助かるからだ。

 この街から遠く離れた島で捕れた魚は珍しさも手伝ってか、商人達の反応は悪くない。

 こういうのは下手に出過ぎると買いたたかれるものだ。
 一通りの買値を聞きあげてから、キースは一人の商人に目ぼしをつける。一人で市をあげていた男は大商人の使い走りではないようで、魚をじっくりと値踏みしたからだ。信頼できるような気がする。生まれがこの街だという商人は高すぎず安すぎずの値段を言ってきたのも好感触だった。何より、この商人は硝子の食器を扱っている。

「この魚の値段でそのグラスは買えますか?」
「一番小さいのならまけてやる」

 それは手の平におさまる大きさで装飾のない質素なグラスだった。ただ、切り込みのような模様が入っていて、そこで差し込む光の色が変わってとても綺麗だ。物に執着しないキースだが、これは好きだと思う。しかし、だ。

 ――魔王はこれを気にいるだろうか。

 魔王の趣味など知らないが、仮にも魔王なのだから、もっと豪華なものがいいかもしれない。

「他のは高い?」
「今日の魚だと、あと二回分だな」
「二回分ですか」

 大きめで金の装飾がついているものは更に高いらしい。このグラスの為に魚を大量に殺すのも気がとがめる。万が一、魔王がこれを気にいらないなどといえば目も当てられない。
 取りあえず今日は買うのをやめて金だけを受け取った。
 その後は市をゆっくり見て回る。服の店はあったが、今日の金額では満足するものは買えなさそうだ。

 ――これはしばらく魚売りをしないといけないかな。

 久しぶりに見て回る市場は活気があって楽しかった。一つ一つの市にその商人の人生が染み出るのも面白い。
 食品はもとより、装飾品や雑貨など贅沢品も結構売れているようだった。それはこの街が「生きる」ことだけでなく「良く生きる」という余裕を取り戻しつつあるという証拠でもある。
 魔王にどんな目にあわされても、こうやって商売をして笑って生きていける。人の強さを、キースは愛しく思う。魔王は脆弱な存在と人間を蔑むが、本当の人間はこうも強いのだと誇らしく掲げたい気分だった。

 とはいえ、今のキースには服を買う金貨もないので、今日はおとなしく帰ることにする。置いてきた魔王も心配だった。




 移動魔法で島に戻ると、魔王はベッドで横になっていた。

 ――寝ているのか。

取りあえず何もなかったことに安心しながら空になった魚籠と今日の稼ぎを見比べる。

「無人島暮らしの意味……」

 いや、今はそれを考えるのは止めておこう。
 とにかく、服を買うにもグラスを買うにもまだ足りない。

「キース」
「わあ!」

 突然、後ろから声をかけられて飛び上がりそうになる。いつの間に起きたのか、魔王がキースの後ろに立っていた。

「なんて声を出している」

 魔王は口の端を微かに持ち上げたように、見えた。

 ――今、笑っ……。

「硝子は買ったのか」
「え、ああ、ちょっと金貨が足りなくて」

 一瞬笑ったように見えた魔王は、見慣れた表情で、すなわち眉を顰めてキースを睨み、舌を打つ。

「まだ魚を捕れというか」
「魚の他にも何か売れるものがあればいいんですけど」
「机は作らんぞ」
「もう少し小さなもの作れません? ああ、そうか作ればいいのか」

 市場には装飾品もあった。この島にあるものでキースが何か作れるとすれば木彫りくらいだが、それは得意な方だ。旅の合間、心を静めるのにいくらか彫っていたし、孤児達に配ったこともある。売り物になる出来栄えのものが作れるかは疑問だが、やらないよりはマシだろう。

「――魚はどれくらい必要か」
「え、ああ、今日の四回分でグラスが一つ買えるくらいですかね」

 これはもしかして、魔王の労働再びだろうか。それになんとなくだが、魔王の機嫌が良いような気もする。どうしたんだろうと思いつつ、キースは大事なことを思い出した。

「貴方、どんなグラスがいいんですか?」
「何でもいい」
「そんなこといって、貴方こだわりが強いから文句言うでしょ、絶対」
「何でもいい、貴様の好きにしろ」
「私は木の実の殻でいいと思っているんですが」

 大真面目に言うと、魔王は嫌そうに目を細めて小さく唸った。

「硝子なら何でもいい」

 一応言質は取った。文句を言われたら言い返すことくらいはできそうだ。魔王はそのまま洞窟を出ていった。驚くことに魚籠を持っていったので、今回は全部を任せていいのだろうか。そこまでグラスが欲しいのだと思うと、早く買ってあげたい気がしてくる。

「とりあえず、服は後回しですかね」

 値段の高いものでなければ直ぐに買えるのだから、明日には買ってあげようと思うキースだった。
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