元魔王は愛が分からない・それが愛だよ

文字数 6,499文字



 鶏の名は「白」と「茶」に決めた。キースは安易だと笑ったが、それでも嬉しそうにサラギに礼などを言ってくる。その度に、サラギは言いようもない満足を感じては首をひねった。こんなどうでもいいことで、いちいち満たされるなどどうかしているとしか思えない。

 魔界にいた頃の空虚感や飢餓感は何だったのだろうと思うほど、キースが笑うと満たされる。それが自分のしたことによる結果だったときなどの満たされ方は、他にはない充足感だった。あの体を抱いて貫いたときとは違うこの快楽は何なのだろうと思うが、サラギは悪くないと思っている。
 否、その言葉では足りないほどに。

 ――俺は、好ましいと思っているのだ。

 この感情の意味を問うてみたかったが、なんとなくキースに聞くのは憚られた。また魔法使いが来るのを待つかと思いつつ、そんなことを考える自分に驚愕する。魔法使いは間違いなく敵だ。それを頼るなど考えられないことだ。

 ――俺は一体、どうしてしまったのか。

 何より、その変化を嫌悪していないことが一番の問題だろう。そんな問答を毎日してしまう。



 そんな時だった。キースが熱を出して倒れたのは。






 キースが熱を出すのは三度目だ。一度目は呼び出した炎で腕を焼いたとき。二度目は魔法使いに焼かれかけたとき。それから、今。
 少し具合が悪いので、と言いつつ寝床で横になり、それきり起きてこなくなった。

「おい、大丈夫か」
「大丈夫です、しばらく寝ますね」

 力なく笑うキースの息は上がっていて、触れた頬は焼けるように熱い。何か看病をと思うのだが、前回と違って原因が分からない。薬草は傷にしか効かないらしく、サラギにはもう何もできなかった。

「寝てれば治るから、本当大丈夫ですよ」

 そんなことを言って眠りについたまま、もう三日目だ。
人間の病気のことは分からない。熱でうなされたまま三日寝込むことは、どれくらい「普通」のことなのか。その間、時折欲しがる水を口にしただけで、何も食べていないが、それでも大丈夫なものなのか。
 何度も頬に触れては、その熱が下がっていないことに落胆してしまう。うわごとで暑がるので、川の水を汲んで来てそれに手を浸しては頬に触れてやる。そうすると安堵したようにまた静かに眠るのを見つめながら、サラギは舌を打った。

「何もできんな、俺は」

 黒い瞳が見たくて顔を寄せても、その静かな炎は見えない。減らず口が聞きたくて口元に耳を寄せても、苦しげな息が吐き出されるだけだ。人間が脆弱な生き物だということは知っていたのに、何故己はこの時の為に手を打っていないのだろうと悔しかった。

「そもそも、貴様がこういうことは準備するものだろうが」

 人間は病気の時、薬を飲むらしいが、キースの持ち物にそんな物は見当たらない。こうなったとき、キースはどうするつもりだったのか。

「また己を粗末に扱うつもりだったのか」

 魔法使いが言うには、他の人間を一番に考えるのは昔からで、もう悪い癖としか思えない。
『貴方のこだわりが強すぎるんですよ』
 キースの減らず口を思い出して苦笑しながら、ならばと心に決めたことがある。

 ――キースが己の身に無頓着ならば、俺がこだわってやる。

 なんだかんだ文句を言いながらもキースはサラギのこだわった物は大切に扱った。だから、そんな風に、サラギがこだわるキース自身を大事にするといい。目が覚めたら、必ずそう言ってやろうとサラギは強く思った。

 しかし、キースは次の日も目を開けなかった。
 時折欲しがっていた水も欲しがらなくなったので、無理矢理に口を開いて飲ませてはいるが、明らかに衰弱している。ようやく、サラギはこれが「普通」ではないと気付いた。
 もしこのまま目を開けることがなくなってしまったら。
 足元から寒気が襲い、背中を粟立て、頭の先まで冷えていく。人間は、あっけなく死ぬ。そんなことは良く知っていたのに、何故ここまで放置してしまったのだろうかと、サラギは一人吠えた。

「キース、キース!」

 肩を揺らしても、黒い瞳は見えない。

 ――俺は失うのか?

 他の何よりも己を満たす、ただ一つの存在を。人間はこんな喪失を得てなお、生きていけるのかと驚愕する。
 不意に、魔法使いに渡された絵本のことを思い出す。兔は伴侶を病気で亡くし、独りになった。何故か、今、その兔と己が重なって見える。

 ――そんなはずがない。この俺が。

 きっと、何かできることがあるはずだ。だがどうすればいい、どうすれば。まだ魔王として勇者のキースと対峙していた頃はどうだったのだろう。サラギの攻撃を受けて傷つくことなど日常だったはずなのに、次に会ったときのキースはいつでも傷一つなくサラギに対峙した。

「ああ、魔法か」

 回復魔法であればどうだろうか。キースは苦手だと言って、あまり高度なものが使えないらしいが、あの魔法使いならば。

「そうだ、魔法使い」

 何故、気付かなかったのだと己を唾棄しながら、サラギは洞窟から飛び出した。魔法使いはサラギを監視していると言っていた。どのような方法かは分からないが、キースが出かけるときを知っているように現れるからには、その言葉は真実なのだろう。

「魔法使い! どこにいる!」

 眩しい程の晴天の空が辺りを照らしているが、見慣れた光景以外、何も見えはしない。声が届くはずもないのだろうが、それでも今は魔法使いの回復魔法を頼る他、サラギにできることはないのだ。力の限り、叫ぶ。

「魔法使い! ここへ来い!」

 瞬間、胸元に光が宿ったかと思うと、その光がみるみる鳩を形どって、空へと舞い消えた。何が起こったのか息を飲むサラギの前に、やがて金色が現れる。こうも、この金色を待ちわびたことなどない。

「なんだ、お前、私を呼んだか?」

 魔法使いは相変わらず豪華なドレスに身を包み、悠然とサラギを見つめている。憎らしいのは変わらないが、今はそんな感情よりも、安堵が勝った。

「キースの熱が下がらん」
「熱? ああ、だから私を呼んだのか。分かった、見よう」

 魔法使いの言葉を最後まで聞かず、サラギは魔法使いの腕を引き洞窟の中まで駆ける。

「ちょっと待て、乱暴だな」
「早くなんとかしろ! もう四日起きん」

 キースの寝床まで引きずると、魔法使いはキースの様子を伺ってから、魔法を唱えた。

「どうだ、治るか」
「ああ、大丈夫。まあ、すぐに元気という訳にはいかないが、熱は下げておくから、ゆっくり回復させてやれ。食事は?」
「していない」
「だろうな。消化のいい物、あー、柑橘じゃない果物なんかがいい」

 本当にそんなことでキースは良くなるのか疑問だったが、今は魔法使いの言葉を信じるしかないのだろう。魔法使いはしばらくキースに回復魔法をかけていて、確かにキースの顔から苦痛が消えていく。短く荒れていた息が、静かな寝息に変わったときには安堵の息が漏れた。きっと、これで大丈夫なのだろう。
 キースを見つめていた魔法使いが、ぽつり呟いた。

「この子は昔から、時々こうなるんだよ。急に熱が出て、しかも大丈夫大丈夫と言うから性質が悪い」
「何か病なのか」
「いや? 多分、抱え込んだものを抱えきれなくなると熱になって外に出るんだろう」
「死なないのか」
「熱が下がれば大丈夫だ」

 けれど、それではきっと、また同じことが起きるということだ。そんなことになるのに、何も用意していないキースにまた腹がたってくる。

 ――だから俺がなんとかしてやる。

 キースが己に執着しない代わりに、サラギが誰よりもキースに執着する、そうすれば整合性もとれるというものだ。

「それにしても、お前が私を呼ぶのが、キースの為なんてな」

 ふわりとした笑みを浮かべた魔法使いは、初めてサラギに向けて微笑んだ。それを不愉快だとは思ったが、今はそれを口にすることはやめておく。代わりに言いたいことがあったからだ。

「おい。俺に、回復魔法を教えろ」
「は? お前、何言ってるんだ。お前に魔法など――いや、回復魔法など使えない。回復魔法は他の魔法と違って精霊の力を借りる訳じゃない。人間の持っている治癒能力に訴えかけ引きだす魔法だ。何よりも人間の力を信じていないと無理なんだよ」

 それが本当なら、サラギには使えないというのは理解できる。人間の力を信じることなど、人間を否定しているサラギにできるはずもない。けれど、そんなことはやってみないと分からない。

「それでもいいから、教えろ」
「だから無理だって。お前が使えなくてもキースが使えるんだからいいじゃないか、何をこだわっているんだ」
「キースが倒れたときは、俺が治すしかない」

 そうそう毎度、魔法使いを呼びだす訳にもいかないだろう。今回はすぐ来て間に会ったが、毎回そうできるとも限らない。なにより、サラギは己の手でキースを助けたいと思った。
 魔法使いは息を飲んで、目を見開いていた。だが、その口は「応」と言わない。

「頼む」
「た、頼むって、お前が、私に……キースの為に? 阿呆、お前は元魔王だろうが。そんなことで私に頭を下げるのか」
「キサマが言ったのだろう、俺はもう魔王ではなく、魔族でもない。俺は、俺だ」

 金の目が何度も瞬いては、サラギとキースを見比べては、また瞬いた。

「――私は弟子にしか魔法を教えん。お前、私の弟子になれるか? 無理だろう?」

 魔法使いの弟子になる。人間の、弟子。そんなことは考えられない。いくら魔王でなく魔族ですらないと暴言を許しても、人間の下につくなど、できるはずがない。けれどこの魔法使いの回復魔法が使えたなら、この先何があってもキースを治すことができるのではないか。それは酷く甘い誘惑だった。

 ――しかし、弟子などと。

 それも、この魔法使いのだ。魔法を教えさせたあとに消す、ということも、この魔法使いが相手では難しいだろう。どうするべきか、サラギが知らず唸ったときだった。

「そんなこと、しなくいで、くださいよ」

 聞きなれた、けれど通常よりも随分か細い声がサラギの耳を揺らした。風を切る勢いで振り返ると、寝床の中でキースがそっと、その目を開いたところだった。
 久方ぶりに見る黒い瞳に、サラギは急に喉のあたりが苦しくなる。なんとか絞りだした声は少し枯れていた。

「キースっ」

 キースは口だけで微笑んだあと、力ない目でサラギを睨んだ。

「貴方、何、言ってるんですか。マリーの、弟子、なんて」
「ああ、回復魔法が欲しい」
「そんなに欲しいなら、私が、教えます」
「貴様のでは足りん」

 キースの前髪を指で払いのけ額に触れると、熱は随分下がったようだった。あんなに苦しんでいたのに、魔法使いの魔法でこんなにもすぐ治るのならば、どうしてもこの力が欲しかった。

「貴様が悪い」
「――寝込んだりしてすみません。でも、本当に寝ていたら治るので」
「違う、貴様が己に無頓着なのが悪いんだ。どうせこの先も同じことを繰り返すならば、俺だけは貴様に頓着してやる」
「な……」

 絶句するキースに構わず、サラギはもう一度魔法使いを見つめた。甚だ不本意ではあるし、怒りもある。けれど、他に方法がないのならここは屈辱を飲むしかないのではないのか。

「回復魔法を教えろ」
「――本気か」
「っ、駄目です、そんなこと、貴方はしないで! 貴方は変わらぬ貴方で、いいんです」

 キースの叫びは切れ切れだけれど、どこか悲壮だった。きっとまた、己を責めているのだろうが、そんなことサラギは知ったことかと思う。

「俺がそうしたいと思ったから、している。貴様に指示されるいわれもないな」
「どうして、そんなに、回復魔法にこだわるんですか!」

 違うな、とサラギは独りごちた。さっきも口にしてやったというのに、キースは何も分かっていない。どう言えば伝わるのかと、頭を巡らせたが上手い言葉などなく、仕方なしに想ったことをそのまま口にする。

「失いたくない。俺は貴様を失いたくないだけだ。キース、貴様の代わりなど、どこにもない。少しはそれを理解しろ」

 いくら睨まれようが、責められようが、そこはもう譲ることができないサラギの核になってしまっているのだ。自覚したのだから、もう他の誰が何を言おうがサラギには関係ないことだ。
 呆然とサラギの言葉を聞いていたキースがそっと瞬き、その瞼の間から一滴、こぼれる。キースの涙は苦手だ。どうしたらいいか分からなくなる。サラギは黙ってその雫をぬぐうと、そっと口に含んだ。

 と、

「あー、なんだもー、やってらんねえなあ」

 魔法使いが叫び出した。らしくない言葉遣いにキースと顔を見合わせたサラギは眉を顰めて呼んだ。

「魔法使い?」
「マリー?」

 魔法使いは、ばりばりと大仰に頭をかいてから、疲れたようにがっくりと肩を落とす。

「もういいわ、見せつけられ過ぎて胸やけ酷いわ。年寄り相手になかなかだな、おい」
「ま、マリー?」
「無自覚ってのがまた怖いわ、本当、若い者はいいねえ」

 そう言いながら、マリーはドレスをひるがえして背を向けた。

「おい元魔王、お前さ、もうそれ、愛だよ」
「は」

 唐突な言葉に、サラギは目を細める。何故今急に愛の話が出てきたのか、まるで理解できない。

「まあ、だが、お前はそんなものずっと前から知っているんだけどな。キースだけに満たされるとか、そんなの愛に決まっているだろう。無自覚にも程があるわ。その上、キースを失うのが嫌だから嫌いな私に頭下げて回復魔法習うって? とんでもないよ」

 ――これが……なのか?

 ただキースを欲しいと思い、失いたくないと思うこの感情が。だとすれば、そんなものは魔法使いの言うように、随分前から知っている。

「キース、お前もちゃんと向き合え。こんな阿呆みたいに愛されてんだから、ちゃんとそこに胡坐をかくんだ。お前は愛されている、お前が最初で最後と愛した相手からだ。――良かったな」

 それだけ言い残すと魔法使いは霧のように消えてしまった。

「待て、魔法の話はどうした!」

 叫んでもそこには何もなく、サラギの声が響いただけだった。これでは何も解決していないではないか。憤慨しながら舌を打つと同時に、服の裾を引かれた。キースの手が、弱々しくサラギの服の裾を引いているのだ。

「何だ」

 見つめた先、キースは何か言いたげに顎を上げたが、声にならないのか、また目を閉じてしまう。その頬が上気していて、また熱が出たのかと慌てて触れてみるが、熱いのは頬だけで他は大丈夫そうだった。安堵しながら、その頬に口付ける。

「っ、サラギ、あの」
「俺は、貴様を愛しているらしいぞ」

 そう口にすると、体中を何か風のようなものが走った気がした。以前、キースにそう言われたときに感じた身を包む暖かな、けれど他の何とも違う、あふれ出すような衝動に息を飲む。この感覚が愛を知るということなら、これは悪くないとサラギは思った。

「――ぁっ、もう、本当、勘弁してください」

 キースが布団にもぐりこんで隠れた。

「なんだ、怒ったのか」
「違います」
「拗ねた、のか?」
「違いますって。その、照れたんです」

 照れた、また新しい言葉だ。その意味を知るにはキースの顔を見なければならないだろう。病床とはいえ、耐えきれず布団を剥ぐと顔を赤くしたキースが恨めしそうにサラギを見つめていた。今まで感じたことなどなかったが、幼い顔立ちが益々幼く見えて、サラギは声を上げて笑った。

 ――照れた、も悪くない。

 そう強く思いながら。


                        終
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