魔王の事情4(※)
文字数 11,333文字
◆
魔王は自らの人差し指を見つめていた。
とがった爪に薄青い肌、見慣れたそれに別段思い入れなどがある訳ではない。この指で触れた、キースの頬を思い出しているのだ。
白く柔らかい肌に這う温かな雫をこの指で拭ったのは、無意識だった。キースが泣いていると気付いた時には、この指がその涙を拭っていた。何故なのか分からず、魔王は苛立っている。
泣くという行為は、絶望を感じた時に起こるものだろう。
あの時魔王は久しぶりにキースに触れた。キースがそうしろというからそうしてやっていたのだが、あの時は耐えきれなかった。キースの弟子の前でなかったので、大丈夫だろうとも思った。
気まぐれに吸ってみた弟子の口が、ただの肉の味しかしないことが不思議だった。キースのそれとは違いすぎる。実は、口を吸う時は魔法力を吸っていない。そんな余裕がなくなるからだ。魔王がキースの口を吸うのは、その甘さが欲しくなるからだ。
その都度、キースが小さく震えたり甘く鳴いたりすることに欲情しているのはもう認めた。殺気を含んでいない目が何か言いたそうに魔王を見つめてくるその何ともいえない感覚にぞくぞくと体が震えるのは欲情でなくて何なのだと思う。
――このままだと、抱いてしまうかもしれん。
あのキースがそれをやすやすと受けるはずがない。無理にそうすれば魔王は殺されるだろう。
キースには黙っているが、魔法らしいものを一つ、魔王は使えるようになっていた。
小さな火種を呼びだすだけの、キースに聞けば子供が覚えるような魔法だという。一度やり方を見せて貰って、呪文を覚えた。精霊と契約する程の力ある魔法ではないので、呪文を唱えれば、魔法力があり、才能のあるものなら使えるのだとキースは言った。
まさか、魔王がそれを試すなど思いもしていないのだろう。
キースから与えられる魔法力は魔王がその体を保っていられる分量ぎりぎりだ。そこに魔王は少しずつ、キースから吸い取った分を蓄積してきた。指先に触れるのが今の所一番効率がいい。
魔法力を取り込み始めると、本来の力が蘇ってきているのも朗報だ。魔力を血液のように体中に巡らせていた代わりに、今は微かながら魔法力をいき渡らせることができるようになっている。
キースの弟子からは精霊との契約方法を聞き出し、簡単な冷気を魔法として呼び出せないか試してもいる。
それでもきっと、キースの本気には敵わないだろう。
まだ、時間が必要だった。
魔王は指先を見つめる。
何故、キースが泣いたのか、まるで分からないからだ。
苦しげに、けれど明らかに艶を含んでキースは魔王の行為を受け止めている。そして絶望を抱いた。
力で振り払うなど、容易いだろうに。
けれどキースはそれをしない。
そのくせ、触れれば甘く鳴いて絶望する。
――まるで分からん。
そしてそれは、その度に動揺してしまう自分自身にも言えることだった。
「あのさ、あんたちゃんと謝った?」
キースの弟子が小屋の壁を張りながら無遠慮に問うてくる。
「何のことだ」
「だから、キース様の機嫌悪かったやつ」
謝った記憶はない。口を吸って触れたら、キースが泣いた。それを弟子に言うつもりはない。黙っていると、弟子が困ったように続ける。
「なんか機嫌悪いの直ったみたいだけど、今度は元気ないじゃん、キース様」
元気がないとはどういうことだろうと思う。弟子は魔王が黙っていることに構わず、続けた。
「あんた、何かしたのかよ」
キースのことがよく分からない。それはキースが人間だからだろう。だとすれば、この男なら解決できるのかと、魔王はまじまじと弟子を見つめる。金の髪。大工として使える。名は何と言ったか。魔王はどうしても、キース以外の人間を覚えられそうもない。
――コレならキースのことが分かるとでも?
「な、なんだよ」
見つめられてばつが悪いのか、弟子はもじもじと下を向いている。
「キースは泣いた」
魔王がそう口にした瞬間に弟子が、がばりと顔をあげて魔王を睨む。よく躾けられた犬だ。
「てめえ、何したんだよ!」
「何も」
「んな訳ねえだろ! あのキース様が、泣く、なんて」
「人間が泣くのは絶望した時だろう」
「え、ああ、まあ、けど、それだけじゃねえよ。悲しかったり痛かったり、あと嬉しかったり」
「嬉しい?」
キースの顔を思い出すが、喜んでいるようにも思えなかった。やはりあれは絶望だろうと思う。
――触れることがいけないのか。
「どうしたらいい」
「はっ、え、あんた、オレに、相談してんの?」
うるさい弟子をぎろりと睨み倒すと、弟子は面白そうに笑う。不愉快だ。
「やっぱ謝るしかねえと思うけど」
「馬鹿か」
この魔王が、キースに謝るはずがない。泣かせたのは自分だろうがそれを悪かったと詫びるというのか。
――この俺が。
「それはない」
「けど、あんたが泣かせたんだろ!」
「知らん」
顔を背けて座り込むとサボるなと言われる。
小屋作りには使える男だが、使えなかったら殺している所だと思う。暗殺術を教えるように言われているから、少しずつ教えているが、なかなか腕も上がらない。キースとは比べるべくもないような人間だ。魔法を使えるようになったら、真っ先に殺してやろうと思っている。
――違う、俺はキースを殺す。
そのつもりで、耐えがたい道化のような暮らしすら受け入れているのではないか。いつの間に、その決意が緩んだのか。それは魔王を酷く狼狽させた。
「あ、キース様!」
弟子が遠くからやってくるキースを見つけて手を振っている。それにつられて振り向くと、キースも手をあげて応えている。いつもと変わらない、ゆるい笑い顔だ。これを元気がないと断定できる理由を、やはり教えてほしいものだと思う。
「お疲れ様です」
キースは笑いながら果実を差し出してきた。
「一休みしませんか」
「あー、オレはもうちょっと仕上げてからにするっす」
「オーガは休みませんか」
キースの目が魔王に向けられる。やはりいつもと変わらないように魔王には思えた。
「あーでも、蜜柑は食いてえなあ」
弟子がキースの手元を見て笑い、キースも笑いながらその蜜柑を弟子の口元に差し出す。
「このまま食べられますよ」
「え、いや、そんなキース様の手からなんてそんな」
「はい、どうぞ」
キースが無理矢理に蜜柑を弟子の口に押し込み。弟子は嬉しそうに頬を染めながらそれを口にした。キースの指が弟子の口に少しだけ触れる。
途端に、苛立った。
キースの手を掴んで弟子から引き剥がすと、そのまま口に含む。蜜柑の酸味と同時に、柔らかな甘みが広がり、魔王はそのままキースの指に舌を絡ませた。
「な、何してるんです!」
キースは顔色を変えて魔王を蹴り飛ばした。油断していた魔王は作りかけの小屋の床に転がってしまう。酷い屈辱に眉を顰めてキースを見上げると、目を見開いて怒りに唇が震えている。さすがにこれは分かった。
「怒ったのか」
「貴方が妙なことするからです!」
「ソレには怒らなかった」
「は? ワグは私の手を食べなかったでしょう」
「き、キース様」
弟子が怒りに震えるキースの肩を支えていることも、気にいらない。身を起こした魔王はその腕を払いのけ、また怒鳴られた。
「何ですか、貴方はもう! ワグに謝ってくださいね」
「キース様、オレは大丈夫なんで」
払いのけてやったのに、弟子の手が今度はキースの腕を掴んでいる。袖をまくりあげた上服から覗く素肌の腕を直接掴んでいる。滑らかで肌触りのいい、魔王が好むキースの肌に、弟子は何ら文句も言われずに触れている。
むしょうに腹立たしい。
魔王が少し触れても怒るのに、弟子だと大丈夫なのか。
知らず、声になった。
「キース、貴様は俺とソレを同格に扱うのか」
キースが首を傾げ、弟子が息を飲んだ。なんだと思う間もなく、弟子がぽつり呟く。
「なんかヤキモチみたいっすね」
こうるさい犬だ。
――嫉妬だと? この、俺が。
魔族のなれの果てである下等生物に、魔王である存在が嫉妬など許されない。
「邪魔だ」
よくよく思えば、この弟子が来てからキースはおかしくなった。これさえいなくなれば、何の問題もなくなって順調に魔法力を集めることができるようになるのではないか。それはいたく単純な答えだった。魔法使いへの借りなど、とうに果たした位の時間はたったはずだ。
「もう、殺す」
本来の力などなくとも、キース以外の人間ならば容易く殺す自信はある。魔王は作業用ののこぎりを掴むと目を見開いている弟子に向かって振り上げた。
「何をしてるんですか!」
キースが素早く剣を抜き、魔王の一撃を受け止める。火花が散り、その衝撃で弟子は土に転がった。一息で殺せる存在なのに、そこまでが遠い。
「ワグに手を出させる訳がないでしょう」
「ソレは元々俺を殺しにきたのだろう。殺されるのを待ってやる義理もない」
「この私が、させるとでも」
のこぎりごと押し返される力が強くなる。やはりまだ、キースに打ち勝つ力はない。微塵の弱さも見せないキースの黒い瞳で睨まれると自らの力なさに苛立って仕方がなくなる。それと同時に、涙を流す程の弱さを抱えた瞳も、見たくなる。
――どうなっている。
少なくとも、今、弟子を殺すのは無理そうだった。
舌を打ちながらのこぎりを投げ捨てると、キースも剣をおさめた。その足元で弟子が目を輝かせてキースを見ている。キースはこの犬に優しい言葉でもかけるのだろう。
苛立ちが頂点に達した魔王は黙って踵を返した。こんな所にいつまでもいては、また弟子に切りかかってしまう。そうすれば今度こそ、キースに斬り伏せられるかもしれない。
後ろからキースの呼び声がしたが、振り返ることもせずに魔王はその場をあとにした。
苛立ちを抱えたままで森に入ると、その苛立ちのままに咆哮する。
音の衝撃で木々がざわめくのを見ていると少しは落ち着いた。腕をふるって何本か木を切り倒し蹴りあげ、魔界の炎を呼ぶ。何もかもを消してしまいた程の苛立ちだった。もちろん、魔界の炎は呼べず蹴りあげた木はそのまま地面に叩きつけられたが。
魔王は自嘲する。
魔力も使えず、人間の発見した魔法などに頼ってまで生きながらえて、それで満足なのか、と。
人間界が欲しい気持ちは変わりないが、こんな意味の分からない苛立ちまで抱えて、それでも人間界にこだわる意味があるのか、と。
最初は自分をこんな目に合わせたキースを殺してやればそれでよかった。しかし、キースと過ごすうちに、やっぱり人間界が欲しいと思うようになった。
――それで今はどうだ?
分からない。もう何もかもが、分からない。
魔王はしばらく、そのままで立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたのか、気付けば辺りは薄暗くなっていた。洞窟に戻る気にもならず、けれどこんな所で寝る気にもならない。それもこれも、全てキースのせいだと思うと、また苛立ってくる。洞窟に戻ったら、二人を洞窟から追い出して寝てやると思いつつ、まだ帰る気にもならないので、落ち葉に種火の魔法で火をつけ、焚き火をする。
月がでている地上の夜は、魔界よりも随分明るい。闇そのものの深さが違う。それでも随分人間界の明るさに慣れた目が、光を求めているのだろう。
薪に使った枯れ枝が火に炙られて弾ける音も、嫌いではなかった。
背中で、枝が折れる音がする。気配に目を細めて、魔王は呟いた。
「キースか」
薄暗い森の中から、青白い顔をしたキースが姿を見せた。しばらく見合ったまま、時間だけが過ぎる。
先に沈黙を破ったのは、キースだった。
焚き火の前で腕を組む魔王に寄って立ちながら、ぼんやりと口を開いた。
「いつの間に、火を起こせるようになったんですか」
「子供でもできるのだろう?」
「……ああ、あの魔法を使ったんですか、凄いな、魔法力を使える魔族なんて聞いたこともないのに」
黙っていたことを怒っているのかと思ったが、キースの表情は穏やかで、そんな風にも見えない。ただぼんやりと火を見つめている。
「何か用事か」
「ああ、ワグに叱られたので」
「貴様が」
「そう。私って貴方に冷たいんですって」
「アレは馬鹿なのか」
「優しいんですよ。貴方にさえも優しい。あの子のような人を優しいというんです」
枝の爆ぜる音がする。風が吹くとキースが身を震わせたから、引き寄せると、突き放された。
分からない、とつくづく思う。
「まだ、覚悟が足らないんです」
キースの絞り出すような声が震えている。泣いているのかと顔を掴んで見たが、涙は流れていなくて、ほっとした。泣かれると、どうも調子が狂う。
キースは顔を掴まれたままで、まっすぐ魔王を見つめた。
「さっき、何故急にワグを殺そうとしたんですか」
「アレが俺を殺そうとしているからだと言っただろう」
「でも、今までは相手にしていなかったじゃないですか。何故、急に」
「邪魔だったからだ」
これまでも、鬱陶しいと思うことはあったが、さっきは急激に邪魔だと思ったのだ。それ以外に理由などない。それを言うのも面倒で魔王は黙り込む。けれどそれを許さないかのように、キースの目が魔王を見つめてくる。
大きな黒い目の奥に、誰にも見せないような激情の炎がある。人間の中では随分幼い顔立ちなのだろうに、そんなことを忘れさせるほどの激しい熱を向けられ、見惚れる理由は、美しいからだ。いつまでも見ていたい気にさせる。
この瞳をくりぬいて宝石のように扱ったとしても、それは二度と同じ美しさを見せないことも、もう分かっていた。この瞳が美しいのは、キースの一部だからだ。
「魔王、そんな風に見つめられたら、私は、望んでしまう」
キースの頬が震える。掴んでいた手を放すとキースは唇を噛んで、顔を背けた。黒髪の襟足から覗くうなじの白さが今日はやけに映える。思わずそこに噛みつくと、キースは弾かれるように震えて、鳴いた。
「あっ」
それだけで煽られる。舌を這わすと声をあげることはもう知っている。魔王はキースの首筋をざらりと舐めあげた。
「い、っ、やめ、ろ」
舌で味わってもキースの肌はいい。噛みついて歯が柔らかい肉に沈んでいく感触も、極上の果実を食んでいるようで、いい。それでいて声も甘い。
もう認めるしかない。キースは特別なのだ。
他の誰にも代わりはない。
自らを滅ぼした憎い存在であるから尚、そう思うのかもしれない。
「ま、おう、よせ、これ以上は」
「貴様が本気で殺しにくるまでは――もう止めん」
服の前を掴んで背を丸めるキースの首筋から項を何度も噛んでは舌を這わせ、少しずつ爪で掻いて服を裂いた。はらりとはだけた上服から覗く背骨に爪を這わせると、キースは大きくかぶりを振る。
「ま、って、魔王、貴方、何故、こんなこと」
「分からん。貴様が煽るのが悪い」
キースは小さく呻いてから、おもむろに魔王に向き直る。魔王の愛する黒い瞳が、甘く揺れてい
る。
――……愛? そんなはずがない。
自らの思考を叱咤してキースの顎を掴む。その手は払いのけられなかった。
「もう諦めたか」
口の端で笑うと、キースは決意を秘めたような声でそっと、言った。
「覚悟を、決めたので」
「俺に屈する覚悟か」
キースは何も答えず、代わりだといわんばかりに魔王の口に唇を合わせた。思わぬ行動に一瞬驚いたが、魔王はそのままキースの口を吸った。
相変わらず甘い。けれど、これまでよりもキースが魔王に身を預けて舌を絡めてくるので、より甘かった。
――これが覚悟、か?
ぞくぞくと身体中を這いあがってくる支配欲にかられてキースの口腔を思うさまに蹂躙すると、キースは時折心細げな喘ぎをあげた。それがまた、快い。
「ん、ぁ、ぁ」
この声をもっと聞きたくて口を解放すると、キースの体がずるりと地に崩れ落ちた。
自分をたたきのめしたキースが、今は足元にいる。笑いだしたい程に痛快なのだが、それよりも息が乱れて仕方がない。発情期はまだのはずだが、その時よりも欲情している。キースが弱々しい目で魔王を見上げてくる、それだけで熱に浮かされたようになるのは何故なのか。
もうそんなことを考える余裕すらなかった。
地面にキースを押し倒すと、のしかかって服を裂いた。服などあってもなくても関係ないと思っていたが、キースの肌を味わうには邪魔な布だった。キースが身を竦めて、何かを耐えるように眉を寄せ目を閉じる顔もたまらない。
「怖いか」
もっと、怖がればいい、俺だけにその顔を見せればいい。支配欲と征服欲と、独占欲に気付き、魔王はようやく気付いた。
――弟子の言ったことは少しは正しかった。
「キース、俺がアレを邪魔だと思ったのは」
「っ、は、ぁ……え、何、です?」
「貴様は、俺だけの獲物だからだ」
だから、他の誰にだろうと触れさせるつもりはない。
「貴様を、抱くぞ」
このキースを他の誰がそんな風に扱えるというのか。
不意に、キースが魔法使いに向かって叫んでいた言葉を思い出す。
『この世界で私の全てを受け止めたのは魔王しかいない』
――そうだ、俺しかいない。
だからキースは魔王を殺さない。
やけにはっきりとした確信だった。
「――嬉しそう、ですね」
息を乱したキースが魔王を見つめた。その首を爪で掻き赤く浮いた線に舌を這わす。キースは声を噛みながら唇を噛んでいる。
「嬉しい? まあ、そうかもしれんな。貴様のそんな顔を見るのは、悪くない」
「私は、男です」
「知っている。人間の女はすぐに壊れたが、貴様なら大丈夫だろう?」
「私も人間ですよ」
弱々しかったキースの目に一瞬、殺意のような激情が灯って、魔王は尚更に煽られた。こんな目をするくせに、今すぐ殺せそうな顔もする。どちらもキースだが、このどちらの顔も見たことのある人間がどれほどいるだろうか。きっといないだろう。自分だけが知るキースの顔をもっと見たい。
「貴様が人間かどうかなど、どうでもいい」
キースは目を見開き、息を飲んだ。激情の灯っていた目がゆらり揺れて、こぼれ出す。これは苦手だ、と魔王は慌ててその雫を拭った。
「泣くな。どうすればいいか分からなくなる」
魔王の言葉に、キースは益々目を見開いて、雫はとめどなくこぼれた。
「貴方、それ、私には、ものすごい告白に聞こえますけど」
「知らん」
「もう、本当に、私は――」
驚きに開ききっていた目をすうと閉じて、キースはひそやかに微笑んだ。焚き火の炎に照らされた顔は、酷く美しいと魔王は思った。
そのまま半身を起こしたキースが、唇を重ねてくる。同じ熱量を返しながら、キースの腕が首に絡みついてることに気付き、熱が上がった。
欲しいという欲求は止めどがない。
「んっ、あ、魔お、ぅ」
舌を絡めたままで咥内から引きずり出し、赤いそれに指を咥えさせ爪を立てる。痛みに眉を顰めたキースは、それでも魔王を殺しにかかってはこない。
「んっ、痛」
キースの口から指を引きぬくと、爪をたてた場所を丁寧に舐めた。それだけでキースの体は跳ねあがる。快楽をこらえなくなった体は存外だらしない。下服の上から股間の肉を嬲ると、キースは声もなく喉をそらして跳ねた。
「いやらしい体だ。これが勇者か?」
キースは必死で顔を隠そうとするが、そんなことは許さない。顔を覆っている腕を掴んで地面に縫いつける。紅潮した頬の上には欲に煽られただらしない目がある。こんな顔もできるのかと、魔王はぞくぞくと体を震えさせた。
声を漏らすまいと唇を噛んでいるのが余計に扇情的だとは知らないのだろう。
「もっと、見せろ」
キースの両手を頭の上で一つに束ねて、もう一度下半身の肉を嬲る。邪魔な布を裂いて直に触れると、キースは噛んでいたはずの唇を僅かばかりほころばせた。
「ぁ……っ」
触れるだけでこれでは、先が思いやられる。こんな過敏な体で魔王を受け入れたら、キースは欲に堕ちるのではないかと少しばかり危惧する。そんなキースが欲しい訳ではない。
「存外、色に弱いのだな、キース。女を抱いたことがないのは本当だったか」
言葉で嬲ってみると、キースは唇を噛んで魔王を睨んでくる。欲に浮かされている瞳の奥に、今にも魔王を刺殺してしまう程の殺気を見て、魔王はにやりと笑った。
――こうでなければ。
これならば、存分に楽しめる。
握っていた肉を嬲る。声を噛んだキースの息だけが荒く響いて、魔王を煽る。キースがすぐに顔を背けてしまうのが惜しくて顔を寄せ、すぐ側で囁いてやる。
「愛らしいな、勇者」
「やめっ、そう、よぶ、な!」
こんな風にいたぶられながらそう呼ばれるのは屈辱だろうと思うからこそ、そう呼ぶのだ。つくづく勇者は色ごとに疎いのだろう。
魔王とてそこまで好色ではなく、むしろ年中発情期である人間の方が色欲は強いだろう。人間より遥かに長寿である魔族は数十年に一度の発情期しかない。人間の女を抱いてみたのは戯れだった。
それでも、キースのことは抱き潰してみたかった。
「貴様が悪い」
耳を食んで、手の中の肉を一層嬲ると、キースはか細く鳴いて、果てた。
「――っ、!」
手の中で震える脆弱な体を、どうしても欲しいと思う。
肩で息をしながら、キースがようやく目をあけた。欲に打ち勝つ強さはまだあるようで、安堵する。
「魔王っ、もう、満足だろう」
「そんなはずあるまい。言っただろう、抱くと」
「そんなこと、私は男で」
「男でも抱ける。知らんのか?」
「知って、いる、けど」
「体の造りは、そう人間と変わらん。貴様の体内に俺を注ぐ」
キースの体が震えた。ここまでされてようやく、この先を想像でもしたのだろう。キースの中を自分で満たせるかと思えば、魔王も震えた。これ以上の快楽があるだろうか。
「む、無理」
「多少は壊すかもしれんな」
「困る、そんなことは」
「ならば、殺せ。貴様は本気になれば俺を殺せるだろう? そうしないのは、貴様がこれを望んでいるからだ」
キースがはっとしたように瞬いて、息を吐く。
「そう、でしたね。私は覚悟を決めたのでした」
思い出したような丁寧語が気にいらない。もっと理性など捨てた、さっきまでの顔が見たくて、魔王はキースをうつ伏せに組み伏せた。首の後ろを押さえて全ての布を剥ぐ。晒された白い肢体が艶めかしい。屈辱に耐えかねたキースが鋭く唸るのも欲情をそそる。
「魔王っ、こんな姿は嫌、だ!」
「いい格好だ。覚悟を決めたのだろう? 受け入れろ」
背骨を爪でなぞりたどりついた先を割る。魔王を受け入れるには明らかに小さすぎる孔に爪をたてると、キースの手に炎が集まるのが分かる。魔法を呼んでいる。
「焼かれてはたまらん」
爪を立てるのをやめると、キースが叫んだ。
「痛いのは、嫌、です」
そうは言われても痛くしないことは不可能だ。キースから手を放して腕を組み策を練るが、そのまま貫く意外の方法など、知らない。
キースが身を起こして服をかき集めるのを横目で見ながら、魔王は小さく唸った。ここまできて抱けないなど、あってたまるものかと思う。キースとて炎を呼ぶまでは抵抗一つしなかったのだ。
「逃がさんぞ」
「分かっています」
キースは握りしめていた服の中から小瓶を取り出して、うつむく。
「これは軟膏ですが、きっと何もないよりは……」
キースは消え入りそうな声でそう言うと、小瓶の軟膏を手にとって、自らの孔に指を這わせた。
「っ」
痛みなのか眉を寄せ、目を細めるキースが酷く扇情的で耐えられなくなる。
「貸せ、俺がやる」
抱き寄せたキースの手から小瓶を奪うと、キースがしていたように軟膏を指に絡め、孔に塗りこんだ。
「ああっ」
甘く鳴いたキースが座ったままで魔王の首にすがりつき、びくびくと体を跳ねあがらせる。それをもっと見たくてゆっくりと軟膏を塗りこむ度に、キースはより強く魔王にすがりつきながら、高らかに鳴いた。
「あ、っ、いやだ、こんなのは、耐えられない」
「その割に、悦い顔をしている」
「早く、もう――」
「あまり色に狂うな、キース。それではつまらん」
「勝手なこと、っぁ、ん、をっ!」
これがあのキースか。
もう何度目かもわからない感慨に満たされながら、魔王はキースの腰を抱いて持ち上げ、自らの上に落とした。軟膏でほぐしたとはいえ、密量はどうにもならない。小さな孔を苛みながら貫くと魔王の首にすがりついているキースががくがくと震えた。
「ああ、痛っ、こんな、ことっ」
「初めてか」
「あっあっ、当然、だ――貴方でなければ、誰が、こんなことを、許すと」
キースの声が震える。
魔王はごくりと息を飲んだ。
『貴方でなければ、誰が、こんなことを、許すと』
キースの声が何度も頭を巡って、そして魔王の中の何かを壊した。
息が乱れる。浅く貫いていたものを、キースの奥深く穿って、悲鳴をあげるキースの口を塞いだ。舌を吸いながら、キースの腰を揺らすと、体を貫くような痺れが全身を走った。
「あっ、んっ」
「キース、キース!」
耳を食んで首を噛む。
「あっ、いや、まお、う」
「俺だけか、俺だけが、貴様を、こんな風に」
「そう、だと、言っている!」
どうしてその言葉がこんなにも心地よいのか。
人間全てを愛していると言うその口が、魔王だけには抱かれることを許すと言う。
そのことに、おそろしく満たされていく。
前魔王を打ち倒した時すら、ここまで満たされはしなかった。もっと何かが欲しくて人間界を欲した。
それすら凌駕するこの満足感は何なのだと思う。
魔力を失って、弱ったのか。
人間界にいすぎて、狂ったのか。
そうでなければ、こうもキースを――。
――俺は最早、これだけが欲しい。
この感情を何と呼ぶのか、恐ろしすぎて聞くこともできない。おそろしい。ただ、この満たされる安寧がおそろしかった。
すがりついてくるキースを引き剥がして、その顔を見下ろす。キースは濡れた目で魔王を見つめ、囁いた。
「一度だけ……最初で最後だから、言わせて」
濡れた目に強い光をたたえたままで、キースがそっと口を開く。
「貴方を、愛している」
その言葉の意味を魔王は知らない。愛など人間の妄言に過ぎない。けれど、キースの声が風のように体を駆けていく。魔王の中で小さな渦を起こしたそれは身体中を包んだ。
――これは、なんだ?
体を駆ける風の尾を掴めば、もっとキースを得られるのかもしれない。キースの顔を見つめて薄く開かれた口の隙間から、続く言葉を待つ。
その瞬間、だった。
突如として現れた冷気が魔王の頬をかすめ飛んだ。
一瞬で我を取り戻したキースが魔王から跳ねのき、服と剣を掴んで木の影に隠れた。魔王は舌を打ちながら振り返る。
そこには殺意をたたえた目で魔王を睨む、弟子が立っていた。
魔王は自らの人差し指を見つめていた。
とがった爪に薄青い肌、見慣れたそれに別段思い入れなどがある訳ではない。この指で触れた、キースの頬を思い出しているのだ。
白く柔らかい肌に這う温かな雫をこの指で拭ったのは、無意識だった。キースが泣いていると気付いた時には、この指がその涙を拭っていた。何故なのか分からず、魔王は苛立っている。
泣くという行為は、絶望を感じた時に起こるものだろう。
あの時魔王は久しぶりにキースに触れた。キースがそうしろというからそうしてやっていたのだが、あの時は耐えきれなかった。キースの弟子の前でなかったので、大丈夫だろうとも思った。
気まぐれに吸ってみた弟子の口が、ただの肉の味しかしないことが不思議だった。キースのそれとは違いすぎる。実は、口を吸う時は魔法力を吸っていない。そんな余裕がなくなるからだ。魔王がキースの口を吸うのは、その甘さが欲しくなるからだ。
その都度、キースが小さく震えたり甘く鳴いたりすることに欲情しているのはもう認めた。殺気を含んでいない目が何か言いたそうに魔王を見つめてくるその何ともいえない感覚にぞくぞくと体が震えるのは欲情でなくて何なのだと思う。
――このままだと、抱いてしまうかもしれん。
あのキースがそれをやすやすと受けるはずがない。無理にそうすれば魔王は殺されるだろう。
キースには黙っているが、魔法らしいものを一つ、魔王は使えるようになっていた。
小さな火種を呼びだすだけの、キースに聞けば子供が覚えるような魔法だという。一度やり方を見せて貰って、呪文を覚えた。精霊と契約する程の力ある魔法ではないので、呪文を唱えれば、魔法力があり、才能のあるものなら使えるのだとキースは言った。
まさか、魔王がそれを試すなど思いもしていないのだろう。
キースから与えられる魔法力は魔王がその体を保っていられる分量ぎりぎりだ。そこに魔王は少しずつ、キースから吸い取った分を蓄積してきた。指先に触れるのが今の所一番効率がいい。
魔法力を取り込み始めると、本来の力が蘇ってきているのも朗報だ。魔力を血液のように体中に巡らせていた代わりに、今は微かながら魔法力をいき渡らせることができるようになっている。
キースの弟子からは精霊との契約方法を聞き出し、簡単な冷気を魔法として呼び出せないか試してもいる。
それでもきっと、キースの本気には敵わないだろう。
まだ、時間が必要だった。
魔王は指先を見つめる。
何故、キースが泣いたのか、まるで分からないからだ。
苦しげに、けれど明らかに艶を含んでキースは魔王の行為を受け止めている。そして絶望を抱いた。
力で振り払うなど、容易いだろうに。
けれどキースはそれをしない。
そのくせ、触れれば甘く鳴いて絶望する。
――まるで分からん。
そしてそれは、その度に動揺してしまう自分自身にも言えることだった。
「あのさ、あんたちゃんと謝った?」
キースの弟子が小屋の壁を張りながら無遠慮に問うてくる。
「何のことだ」
「だから、キース様の機嫌悪かったやつ」
謝った記憶はない。口を吸って触れたら、キースが泣いた。それを弟子に言うつもりはない。黙っていると、弟子が困ったように続ける。
「なんか機嫌悪いの直ったみたいだけど、今度は元気ないじゃん、キース様」
元気がないとはどういうことだろうと思う。弟子は魔王が黙っていることに構わず、続けた。
「あんた、何かしたのかよ」
キースのことがよく分からない。それはキースが人間だからだろう。だとすれば、この男なら解決できるのかと、魔王はまじまじと弟子を見つめる。金の髪。大工として使える。名は何と言ったか。魔王はどうしても、キース以外の人間を覚えられそうもない。
――コレならキースのことが分かるとでも?
「な、なんだよ」
見つめられてばつが悪いのか、弟子はもじもじと下を向いている。
「キースは泣いた」
魔王がそう口にした瞬間に弟子が、がばりと顔をあげて魔王を睨む。よく躾けられた犬だ。
「てめえ、何したんだよ!」
「何も」
「んな訳ねえだろ! あのキース様が、泣く、なんて」
「人間が泣くのは絶望した時だろう」
「え、ああ、まあ、けど、それだけじゃねえよ。悲しかったり痛かったり、あと嬉しかったり」
「嬉しい?」
キースの顔を思い出すが、喜んでいるようにも思えなかった。やはりあれは絶望だろうと思う。
――触れることがいけないのか。
「どうしたらいい」
「はっ、え、あんた、オレに、相談してんの?」
うるさい弟子をぎろりと睨み倒すと、弟子は面白そうに笑う。不愉快だ。
「やっぱ謝るしかねえと思うけど」
「馬鹿か」
この魔王が、キースに謝るはずがない。泣かせたのは自分だろうがそれを悪かったと詫びるというのか。
――この俺が。
「それはない」
「けど、あんたが泣かせたんだろ!」
「知らん」
顔を背けて座り込むとサボるなと言われる。
小屋作りには使える男だが、使えなかったら殺している所だと思う。暗殺術を教えるように言われているから、少しずつ教えているが、なかなか腕も上がらない。キースとは比べるべくもないような人間だ。魔法を使えるようになったら、真っ先に殺してやろうと思っている。
――違う、俺はキースを殺す。
そのつもりで、耐えがたい道化のような暮らしすら受け入れているのではないか。いつの間に、その決意が緩んだのか。それは魔王を酷く狼狽させた。
「あ、キース様!」
弟子が遠くからやってくるキースを見つけて手を振っている。それにつられて振り向くと、キースも手をあげて応えている。いつもと変わらない、ゆるい笑い顔だ。これを元気がないと断定できる理由を、やはり教えてほしいものだと思う。
「お疲れ様です」
キースは笑いながら果実を差し出してきた。
「一休みしませんか」
「あー、オレはもうちょっと仕上げてからにするっす」
「オーガは休みませんか」
キースの目が魔王に向けられる。やはりいつもと変わらないように魔王には思えた。
「あーでも、蜜柑は食いてえなあ」
弟子がキースの手元を見て笑い、キースも笑いながらその蜜柑を弟子の口元に差し出す。
「このまま食べられますよ」
「え、いや、そんなキース様の手からなんてそんな」
「はい、どうぞ」
キースが無理矢理に蜜柑を弟子の口に押し込み。弟子は嬉しそうに頬を染めながらそれを口にした。キースの指が弟子の口に少しだけ触れる。
途端に、苛立った。
キースの手を掴んで弟子から引き剥がすと、そのまま口に含む。蜜柑の酸味と同時に、柔らかな甘みが広がり、魔王はそのままキースの指に舌を絡ませた。
「な、何してるんです!」
キースは顔色を変えて魔王を蹴り飛ばした。油断していた魔王は作りかけの小屋の床に転がってしまう。酷い屈辱に眉を顰めてキースを見上げると、目を見開いて怒りに唇が震えている。さすがにこれは分かった。
「怒ったのか」
「貴方が妙なことするからです!」
「ソレには怒らなかった」
「は? ワグは私の手を食べなかったでしょう」
「き、キース様」
弟子が怒りに震えるキースの肩を支えていることも、気にいらない。身を起こした魔王はその腕を払いのけ、また怒鳴られた。
「何ですか、貴方はもう! ワグに謝ってくださいね」
「キース様、オレは大丈夫なんで」
払いのけてやったのに、弟子の手が今度はキースの腕を掴んでいる。袖をまくりあげた上服から覗く素肌の腕を直接掴んでいる。滑らかで肌触りのいい、魔王が好むキースの肌に、弟子は何ら文句も言われずに触れている。
むしょうに腹立たしい。
魔王が少し触れても怒るのに、弟子だと大丈夫なのか。
知らず、声になった。
「キース、貴様は俺とソレを同格に扱うのか」
キースが首を傾げ、弟子が息を飲んだ。なんだと思う間もなく、弟子がぽつり呟く。
「なんかヤキモチみたいっすね」
こうるさい犬だ。
――嫉妬だと? この、俺が。
魔族のなれの果てである下等生物に、魔王である存在が嫉妬など許されない。
「邪魔だ」
よくよく思えば、この弟子が来てからキースはおかしくなった。これさえいなくなれば、何の問題もなくなって順調に魔法力を集めることができるようになるのではないか。それはいたく単純な答えだった。魔法使いへの借りなど、とうに果たした位の時間はたったはずだ。
「もう、殺す」
本来の力などなくとも、キース以外の人間ならば容易く殺す自信はある。魔王は作業用ののこぎりを掴むと目を見開いている弟子に向かって振り上げた。
「何をしてるんですか!」
キースが素早く剣を抜き、魔王の一撃を受け止める。火花が散り、その衝撃で弟子は土に転がった。一息で殺せる存在なのに、そこまでが遠い。
「ワグに手を出させる訳がないでしょう」
「ソレは元々俺を殺しにきたのだろう。殺されるのを待ってやる義理もない」
「この私が、させるとでも」
のこぎりごと押し返される力が強くなる。やはりまだ、キースに打ち勝つ力はない。微塵の弱さも見せないキースの黒い瞳で睨まれると自らの力なさに苛立って仕方がなくなる。それと同時に、涙を流す程の弱さを抱えた瞳も、見たくなる。
――どうなっている。
少なくとも、今、弟子を殺すのは無理そうだった。
舌を打ちながらのこぎりを投げ捨てると、キースも剣をおさめた。その足元で弟子が目を輝かせてキースを見ている。キースはこの犬に優しい言葉でもかけるのだろう。
苛立ちが頂点に達した魔王は黙って踵を返した。こんな所にいつまでもいては、また弟子に切りかかってしまう。そうすれば今度こそ、キースに斬り伏せられるかもしれない。
後ろからキースの呼び声がしたが、振り返ることもせずに魔王はその場をあとにした。
苛立ちを抱えたままで森に入ると、その苛立ちのままに咆哮する。
音の衝撃で木々がざわめくのを見ていると少しは落ち着いた。腕をふるって何本か木を切り倒し蹴りあげ、魔界の炎を呼ぶ。何もかもを消してしまいた程の苛立ちだった。もちろん、魔界の炎は呼べず蹴りあげた木はそのまま地面に叩きつけられたが。
魔王は自嘲する。
魔力も使えず、人間の発見した魔法などに頼ってまで生きながらえて、それで満足なのか、と。
人間界が欲しい気持ちは変わりないが、こんな意味の分からない苛立ちまで抱えて、それでも人間界にこだわる意味があるのか、と。
最初は自分をこんな目に合わせたキースを殺してやればそれでよかった。しかし、キースと過ごすうちに、やっぱり人間界が欲しいと思うようになった。
――それで今はどうだ?
分からない。もう何もかもが、分からない。
魔王はしばらく、そのままで立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたのか、気付けば辺りは薄暗くなっていた。洞窟に戻る気にもならず、けれどこんな所で寝る気にもならない。それもこれも、全てキースのせいだと思うと、また苛立ってくる。洞窟に戻ったら、二人を洞窟から追い出して寝てやると思いつつ、まだ帰る気にもならないので、落ち葉に種火の魔法で火をつけ、焚き火をする。
月がでている地上の夜は、魔界よりも随分明るい。闇そのものの深さが違う。それでも随分人間界の明るさに慣れた目が、光を求めているのだろう。
薪に使った枯れ枝が火に炙られて弾ける音も、嫌いではなかった。
背中で、枝が折れる音がする。気配に目を細めて、魔王は呟いた。
「キースか」
薄暗い森の中から、青白い顔をしたキースが姿を見せた。しばらく見合ったまま、時間だけが過ぎる。
先に沈黙を破ったのは、キースだった。
焚き火の前で腕を組む魔王に寄って立ちながら、ぼんやりと口を開いた。
「いつの間に、火を起こせるようになったんですか」
「子供でもできるのだろう?」
「……ああ、あの魔法を使ったんですか、凄いな、魔法力を使える魔族なんて聞いたこともないのに」
黙っていたことを怒っているのかと思ったが、キースの表情は穏やかで、そんな風にも見えない。ただぼんやりと火を見つめている。
「何か用事か」
「ああ、ワグに叱られたので」
「貴様が」
「そう。私って貴方に冷たいんですって」
「アレは馬鹿なのか」
「優しいんですよ。貴方にさえも優しい。あの子のような人を優しいというんです」
枝の爆ぜる音がする。風が吹くとキースが身を震わせたから、引き寄せると、突き放された。
分からない、とつくづく思う。
「まだ、覚悟が足らないんです」
キースの絞り出すような声が震えている。泣いているのかと顔を掴んで見たが、涙は流れていなくて、ほっとした。泣かれると、どうも調子が狂う。
キースは顔を掴まれたままで、まっすぐ魔王を見つめた。
「さっき、何故急にワグを殺そうとしたんですか」
「アレが俺を殺そうとしているからだと言っただろう」
「でも、今までは相手にしていなかったじゃないですか。何故、急に」
「邪魔だったからだ」
これまでも、鬱陶しいと思うことはあったが、さっきは急激に邪魔だと思ったのだ。それ以外に理由などない。それを言うのも面倒で魔王は黙り込む。けれどそれを許さないかのように、キースの目が魔王を見つめてくる。
大きな黒い目の奥に、誰にも見せないような激情の炎がある。人間の中では随分幼い顔立ちなのだろうに、そんなことを忘れさせるほどの激しい熱を向けられ、見惚れる理由は、美しいからだ。いつまでも見ていたい気にさせる。
この瞳をくりぬいて宝石のように扱ったとしても、それは二度と同じ美しさを見せないことも、もう分かっていた。この瞳が美しいのは、キースの一部だからだ。
「魔王、そんな風に見つめられたら、私は、望んでしまう」
キースの頬が震える。掴んでいた手を放すとキースは唇を噛んで、顔を背けた。黒髪の襟足から覗くうなじの白さが今日はやけに映える。思わずそこに噛みつくと、キースは弾かれるように震えて、鳴いた。
「あっ」
それだけで煽られる。舌を這わすと声をあげることはもう知っている。魔王はキースの首筋をざらりと舐めあげた。
「い、っ、やめ、ろ」
舌で味わってもキースの肌はいい。噛みついて歯が柔らかい肉に沈んでいく感触も、極上の果実を食んでいるようで、いい。それでいて声も甘い。
もう認めるしかない。キースは特別なのだ。
他の誰にも代わりはない。
自らを滅ぼした憎い存在であるから尚、そう思うのかもしれない。
「ま、おう、よせ、これ以上は」
「貴様が本気で殺しにくるまでは――もう止めん」
服の前を掴んで背を丸めるキースの首筋から項を何度も噛んでは舌を這わせ、少しずつ爪で掻いて服を裂いた。はらりとはだけた上服から覗く背骨に爪を這わせると、キースは大きくかぶりを振る。
「ま、って、魔王、貴方、何故、こんなこと」
「分からん。貴様が煽るのが悪い」
キースは小さく呻いてから、おもむろに魔王に向き直る。魔王の愛する黒い瞳が、甘く揺れてい
る。
――……愛? そんなはずがない。
自らの思考を叱咤してキースの顎を掴む。その手は払いのけられなかった。
「もう諦めたか」
口の端で笑うと、キースは決意を秘めたような声でそっと、言った。
「覚悟を、決めたので」
「俺に屈する覚悟か」
キースは何も答えず、代わりだといわんばかりに魔王の口に唇を合わせた。思わぬ行動に一瞬驚いたが、魔王はそのままキースの口を吸った。
相変わらず甘い。けれど、これまでよりもキースが魔王に身を預けて舌を絡めてくるので、より甘かった。
――これが覚悟、か?
ぞくぞくと身体中を這いあがってくる支配欲にかられてキースの口腔を思うさまに蹂躙すると、キースは時折心細げな喘ぎをあげた。それがまた、快い。
「ん、ぁ、ぁ」
この声をもっと聞きたくて口を解放すると、キースの体がずるりと地に崩れ落ちた。
自分をたたきのめしたキースが、今は足元にいる。笑いだしたい程に痛快なのだが、それよりも息が乱れて仕方がない。発情期はまだのはずだが、その時よりも欲情している。キースが弱々しい目で魔王を見上げてくる、それだけで熱に浮かされたようになるのは何故なのか。
もうそんなことを考える余裕すらなかった。
地面にキースを押し倒すと、のしかかって服を裂いた。服などあってもなくても関係ないと思っていたが、キースの肌を味わうには邪魔な布だった。キースが身を竦めて、何かを耐えるように眉を寄せ目を閉じる顔もたまらない。
「怖いか」
もっと、怖がればいい、俺だけにその顔を見せればいい。支配欲と征服欲と、独占欲に気付き、魔王はようやく気付いた。
――弟子の言ったことは少しは正しかった。
「キース、俺がアレを邪魔だと思ったのは」
「っ、は、ぁ……え、何、です?」
「貴様は、俺だけの獲物だからだ」
だから、他の誰にだろうと触れさせるつもりはない。
「貴様を、抱くぞ」
このキースを他の誰がそんな風に扱えるというのか。
不意に、キースが魔法使いに向かって叫んでいた言葉を思い出す。
『この世界で私の全てを受け止めたのは魔王しかいない』
――そうだ、俺しかいない。
だからキースは魔王を殺さない。
やけにはっきりとした確信だった。
「――嬉しそう、ですね」
息を乱したキースが魔王を見つめた。その首を爪で掻き赤く浮いた線に舌を這わす。キースは声を噛みながら唇を噛んでいる。
「嬉しい? まあ、そうかもしれんな。貴様のそんな顔を見るのは、悪くない」
「私は、男です」
「知っている。人間の女はすぐに壊れたが、貴様なら大丈夫だろう?」
「私も人間ですよ」
弱々しかったキースの目に一瞬、殺意のような激情が灯って、魔王は尚更に煽られた。こんな目をするくせに、今すぐ殺せそうな顔もする。どちらもキースだが、このどちらの顔も見たことのある人間がどれほどいるだろうか。きっといないだろう。自分だけが知るキースの顔をもっと見たい。
「貴様が人間かどうかなど、どうでもいい」
キースは目を見開き、息を飲んだ。激情の灯っていた目がゆらり揺れて、こぼれ出す。これは苦手だ、と魔王は慌ててその雫を拭った。
「泣くな。どうすればいいか分からなくなる」
魔王の言葉に、キースは益々目を見開いて、雫はとめどなくこぼれた。
「貴方、それ、私には、ものすごい告白に聞こえますけど」
「知らん」
「もう、本当に、私は――」
驚きに開ききっていた目をすうと閉じて、キースはひそやかに微笑んだ。焚き火の炎に照らされた顔は、酷く美しいと魔王は思った。
そのまま半身を起こしたキースが、唇を重ねてくる。同じ熱量を返しながら、キースの腕が首に絡みついてることに気付き、熱が上がった。
欲しいという欲求は止めどがない。
「んっ、あ、魔お、ぅ」
舌を絡めたままで咥内から引きずり出し、赤いそれに指を咥えさせ爪を立てる。痛みに眉を顰めたキースは、それでも魔王を殺しにかかってはこない。
「んっ、痛」
キースの口から指を引きぬくと、爪をたてた場所を丁寧に舐めた。それだけでキースの体は跳ねあがる。快楽をこらえなくなった体は存外だらしない。下服の上から股間の肉を嬲ると、キースは声もなく喉をそらして跳ねた。
「いやらしい体だ。これが勇者か?」
キースは必死で顔を隠そうとするが、そんなことは許さない。顔を覆っている腕を掴んで地面に縫いつける。紅潮した頬の上には欲に煽られただらしない目がある。こんな顔もできるのかと、魔王はぞくぞくと体を震えさせた。
声を漏らすまいと唇を噛んでいるのが余計に扇情的だとは知らないのだろう。
「もっと、見せろ」
キースの両手を頭の上で一つに束ねて、もう一度下半身の肉を嬲る。邪魔な布を裂いて直に触れると、キースは噛んでいたはずの唇を僅かばかりほころばせた。
「ぁ……っ」
触れるだけでこれでは、先が思いやられる。こんな過敏な体で魔王を受け入れたら、キースは欲に堕ちるのではないかと少しばかり危惧する。そんなキースが欲しい訳ではない。
「存外、色に弱いのだな、キース。女を抱いたことがないのは本当だったか」
言葉で嬲ってみると、キースは唇を噛んで魔王を睨んでくる。欲に浮かされている瞳の奥に、今にも魔王を刺殺してしまう程の殺気を見て、魔王はにやりと笑った。
――こうでなければ。
これならば、存分に楽しめる。
握っていた肉を嬲る。声を噛んだキースの息だけが荒く響いて、魔王を煽る。キースがすぐに顔を背けてしまうのが惜しくて顔を寄せ、すぐ側で囁いてやる。
「愛らしいな、勇者」
「やめっ、そう、よぶ、な!」
こんな風にいたぶられながらそう呼ばれるのは屈辱だろうと思うからこそ、そう呼ぶのだ。つくづく勇者は色ごとに疎いのだろう。
魔王とてそこまで好色ではなく、むしろ年中発情期である人間の方が色欲は強いだろう。人間より遥かに長寿である魔族は数十年に一度の発情期しかない。人間の女を抱いてみたのは戯れだった。
それでも、キースのことは抱き潰してみたかった。
「貴様が悪い」
耳を食んで、手の中の肉を一層嬲ると、キースはか細く鳴いて、果てた。
「――っ、!」
手の中で震える脆弱な体を、どうしても欲しいと思う。
肩で息をしながら、キースがようやく目をあけた。欲に打ち勝つ強さはまだあるようで、安堵する。
「魔王っ、もう、満足だろう」
「そんなはずあるまい。言っただろう、抱くと」
「そんなこと、私は男で」
「男でも抱ける。知らんのか?」
「知って、いる、けど」
「体の造りは、そう人間と変わらん。貴様の体内に俺を注ぐ」
キースの体が震えた。ここまでされてようやく、この先を想像でもしたのだろう。キースの中を自分で満たせるかと思えば、魔王も震えた。これ以上の快楽があるだろうか。
「む、無理」
「多少は壊すかもしれんな」
「困る、そんなことは」
「ならば、殺せ。貴様は本気になれば俺を殺せるだろう? そうしないのは、貴様がこれを望んでいるからだ」
キースがはっとしたように瞬いて、息を吐く。
「そう、でしたね。私は覚悟を決めたのでした」
思い出したような丁寧語が気にいらない。もっと理性など捨てた、さっきまでの顔が見たくて、魔王はキースをうつ伏せに組み伏せた。首の後ろを押さえて全ての布を剥ぐ。晒された白い肢体が艶めかしい。屈辱に耐えかねたキースが鋭く唸るのも欲情をそそる。
「魔王っ、こんな姿は嫌、だ!」
「いい格好だ。覚悟を決めたのだろう? 受け入れろ」
背骨を爪でなぞりたどりついた先を割る。魔王を受け入れるには明らかに小さすぎる孔に爪をたてると、キースの手に炎が集まるのが分かる。魔法を呼んでいる。
「焼かれてはたまらん」
爪を立てるのをやめると、キースが叫んだ。
「痛いのは、嫌、です」
そうは言われても痛くしないことは不可能だ。キースから手を放して腕を組み策を練るが、そのまま貫く意外の方法など、知らない。
キースが身を起こして服をかき集めるのを横目で見ながら、魔王は小さく唸った。ここまできて抱けないなど、あってたまるものかと思う。キースとて炎を呼ぶまでは抵抗一つしなかったのだ。
「逃がさんぞ」
「分かっています」
キースは握りしめていた服の中から小瓶を取り出して、うつむく。
「これは軟膏ですが、きっと何もないよりは……」
キースは消え入りそうな声でそう言うと、小瓶の軟膏を手にとって、自らの孔に指を這わせた。
「っ」
痛みなのか眉を寄せ、目を細めるキースが酷く扇情的で耐えられなくなる。
「貸せ、俺がやる」
抱き寄せたキースの手から小瓶を奪うと、キースがしていたように軟膏を指に絡め、孔に塗りこんだ。
「ああっ」
甘く鳴いたキースが座ったままで魔王の首にすがりつき、びくびくと体を跳ねあがらせる。それをもっと見たくてゆっくりと軟膏を塗りこむ度に、キースはより強く魔王にすがりつきながら、高らかに鳴いた。
「あ、っ、いやだ、こんなのは、耐えられない」
「その割に、悦い顔をしている」
「早く、もう――」
「あまり色に狂うな、キース。それではつまらん」
「勝手なこと、っぁ、ん、をっ!」
これがあのキースか。
もう何度目かもわからない感慨に満たされながら、魔王はキースの腰を抱いて持ち上げ、自らの上に落とした。軟膏でほぐしたとはいえ、密量はどうにもならない。小さな孔を苛みながら貫くと魔王の首にすがりついているキースががくがくと震えた。
「ああ、痛っ、こんな、ことっ」
「初めてか」
「あっあっ、当然、だ――貴方でなければ、誰が、こんなことを、許すと」
キースの声が震える。
魔王はごくりと息を飲んだ。
『貴方でなければ、誰が、こんなことを、許すと』
キースの声が何度も頭を巡って、そして魔王の中の何かを壊した。
息が乱れる。浅く貫いていたものを、キースの奥深く穿って、悲鳴をあげるキースの口を塞いだ。舌を吸いながら、キースの腰を揺らすと、体を貫くような痺れが全身を走った。
「あっ、んっ」
「キース、キース!」
耳を食んで首を噛む。
「あっ、いや、まお、う」
「俺だけか、俺だけが、貴様を、こんな風に」
「そう、だと、言っている!」
どうしてその言葉がこんなにも心地よいのか。
人間全てを愛していると言うその口が、魔王だけには抱かれることを許すと言う。
そのことに、おそろしく満たされていく。
前魔王を打ち倒した時すら、ここまで満たされはしなかった。もっと何かが欲しくて人間界を欲した。
それすら凌駕するこの満足感は何なのだと思う。
魔力を失って、弱ったのか。
人間界にいすぎて、狂ったのか。
そうでなければ、こうもキースを――。
――俺は最早、これだけが欲しい。
この感情を何と呼ぶのか、恐ろしすぎて聞くこともできない。おそろしい。ただ、この満たされる安寧がおそろしかった。
すがりついてくるキースを引き剥がして、その顔を見下ろす。キースは濡れた目で魔王を見つめ、囁いた。
「一度だけ……最初で最後だから、言わせて」
濡れた目に強い光をたたえたままで、キースがそっと口を開く。
「貴方を、愛している」
その言葉の意味を魔王は知らない。愛など人間の妄言に過ぎない。けれど、キースの声が風のように体を駆けていく。魔王の中で小さな渦を起こしたそれは身体中を包んだ。
――これは、なんだ?
体を駆ける風の尾を掴めば、もっとキースを得られるのかもしれない。キースの顔を見つめて薄く開かれた口の隙間から、続く言葉を待つ。
その瞬間、だった。
突如として現れた冷気が魔王の頬をかすめ飛んだ。
一瞬で我を取り戻したキースが魔王から跳ねのき、服と剣を掴んで木の影に隠れた。魔王は舌を打ちながら振り返る。
そこには殺意をたたえた目で魔王を睨む、弟子が立っていた。