16話―2
文字数 2,473文字
辺りは食欲をそそる匂いが立ちこめており、腹が鳴り止まない。早く帰って朝飯にしよう、と考えていると、階段をよたよたと下る老人が目に入った。ニグル族長老でトゥーイの祖父、ヤウィだ。
「おじいちゃん、どうしたの?」
トゥーイは慌ててヤウィに近寄り、体を支える。彼はよそ行き姿のトゥーイを見て一瞬顔をしかめたが、特に問いただすことなく自分達の腕を掴んだ。
「ちょうど探しておったんじゃ。今から屋敷に来てくれんかの?」
「えっ、俺も?」
スコードは驚いて声が裏返る。孫のトゥーイはともかく、ただの側近である自分に用事とは何なのか。ヤウィは二人を支えにしながら階段を戻り始める。
「そうじゃ。お前さん達にとって、大事な大事な話じゃよ」
「今すぐじゃなきゃだめ? お腹ぺこぺこなんだけど」
お前はさっきつまみ食いしてただろうが。口から出かかった文句を押し戻すと、代わりに腹が鳴った。しかし、ヤウィは申し訳なさそうに「すまんのう」と返す。
「昨夜からガウィの気が治まらないんじゃ。早く話をつけとかんと、いつ爆発するかも分からんわい」
トゥーイの顔が一気に青ざめる。短気で神経質なガウィはよく娘を叱っているが、最近のトゥーイは悪目立ちなどしていない。今朝の外出がばれたのか、とも思ったが『昨夜から』ということは、この件は特に関係ないのだろう。
ガウィが怒り狂うのは何故か、そして、自分が呼ばれた理由は何なのか。スコードは悩みと空腹で集中出来ないまま、長老の屋敷へと向かった。
屋敷には誰もおらず、三人は先に着席する。間もなくガウィも到着し、彼の姿が目に入るや否やトゥーイは勢い良く立ち上がり「ごめんなさい!」と叫んだ。
「何故謝る? トゥーイ、また誰かを困らせたのか?」
ガウィは不機嫌そうだったが、叱ることなく席についてしまう。予想外の反応に、トゥーイは慌てふためいていた。
「えっ。お、お父さんが怒ってるっていうから、てっきり、私のせいかなって……」
「はぁ。何もしていなければ、怒る理由などないだろう」
トゥーイは力が抜け、へたりと座りこむ。ヤウィは豪快に笑い、向かいに座る自分達に目を向けた。
「わしの説明不足じゃったな。実は、トゥーイの婿選びをしとるんじゃよ」
「えぇっ⁉」
スコードとトゥーイの声が重なる。途端にガウィの表情が険しくなったが、ヤウィは構わず説明を続ける。
「トゥーイはもう十八じゃ。そろそろ身を固めても良い頃合いでは、と提案したんじゃが……この通り、納得しない奴がおってのう」
ヤウィはちらり、と厄介な目つきで隣を見る。ガウィは行き場のない怒りを滲ませており、スコードは彼が激怒している理由を察してしまった。ガウィは、ニグル族で一番の子煩悩なのだ。
「まだ早すぎる。俺が結婚したのは三十代だぞ、もう少し遅らせてもいいだろう」
「お前は遅すぎたんじゃ! 狩猟部隊を統べるまで結婚しないと言いおって、トナがどれだけ待ったことか……」
両親の事情を聞かされ、トゥーイは顔を赤らめて戸惑っている。スコードは気まずさに耐えかね、口を挟んだ。
「そ、それで、トゥーイの相手は決まったのか?」
「いや。こやつは『自分を倒した男しか認めん』と言い張っておる。狩猟部隊の熟練共に声をかけてみたんじゃが、皆辞退しおった」
ガウィはニグル族最強の戦士である。狩猟部隊は強者のみが入隊を許されるのだが、長であるガウィに敵う者は誰ひとりとしていない。彼は最初から、娘の結婚を許さないつもりなのだ。
ふぅ、と息をつき、ヤウィはこちらに目を向ける。スコードは何故自分が呼ばれたのか悟り、一気に冷や汗が噴き出した。
「わしとしてはお前さんを推薦したい。立派に側近を務めたお前さんなら、トゥーイを幸せにしてやれるはずじゃ。頼む。スコード、こやつの石頭を叩き割ってくれんか?」
殺気にも似た威圧感を放ち、ガウィは静かに睨んでくる。彼とは一度手合わせしたことがあったが、全く歯が立たなかった。いくら彼から指導を受けていたとしても、勝てるとは思えない。だが、スコードは屈することなく、視線を受け止めてみせた。
「分かった。ガウィさん、俺と勝負してくれ」
鋭い目元に明確な敵意が映る。ガウィは怒鳴り散らすことなく、重々しく頷いた。数秒の沈黙の後、隣に座るトゥーイが「ちょっと待って!」と声を上げた。
「みんな、なんで勝手に進めちゃうの? 私、結婚したいなんて一言も言ってないわ!」
「なぁに、別に今すぐの話ではない。それとも、他に気になる奴がおるのか?」
「そ、そうじゃない、けど……」
トゥーイは顔を真っ赤にしながら目を背けてしまう。彼女としては、本人を差し置いて縁談を進めるなど納得出来ないだけなのだろう。拒絶された訳ではないと分かり、スコードはほっと胸を撫で下ろした。
「トゥーイ。俺は、一生かけてお前を守りたい。だからこの勝負、絶対に勝ってみせる」
スコードはトゥーイの側近になるずっと前から、彼女に想いを寄せていた。古い考えに縛られない自由奔放な姿に惹かれ、共に生きたいと願っていた。
面と向かって想いを伝えたのは初めてのことだ。周囲から冷やかされる度に素っ気ない態度で誤魔化していたが、もう隠し通すつもりはない。
真っ直ぐな言葉を受け、トゥーイは恐る恐るこちらに視線を戻す。その瞬間、自分の腹が大きな唸り声を上げた。
「あっはははは! スコ、かっこ悪……あはははは!」
トゥーイとヤウィは腹を抱えて笑い出し、ガウィは顔を引きつらせて必死に耐えている。スコードは一気に恥ずかしくなり、鳴り止まない腹を押さえながら声を荒げた。
「し、仕方ないだろ! こっちは起きてから何も食ってないんだ!」
「もう。そんなんじゃお父さんどころか、おじいちゃんにも勝てないわよ。ほら、とりあえずこれでも食べて」
焼き菓子を口に三枚突っこまれ、スコードは窒息しかける。苦手な甘味に悶える自分を見て、トゥーイは涙を滲ませながら、いつまでも笑っていた。
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