4話―2
文字数 2,530文字
「私が初めて貴方とお会いした時、非常に驚いたものです。それまでのチーフはターゲットの女性を次々変えていた、とお聞きしましたから。あの時には既に、貴方だけを見ておられたはずです」
思い当たる節があるのか、ラウロの頬が赤く染まった。
「貴方が失踪されてから、私も、チーフも、ショックで立ち直れませんでした。特にチーフは、仕事に支障が出るほど憔悴なさったようです。それでも、貴方との再会を誰よりも願い、この部屋を改築されました。その後は……ご存じのように、チーフは貴方を、とても大事になさっています」
そんなことない、と言いたげに、ラウロは顔をしかめる。チェスカは哀しげに微笑み、首を振った。
「チーフは、不器用な方だと思います。昔の出来事は頑なに話そうとはしませんが、きっと、自分の想いを伝える術をご存じではないのでしょう」
ラウロは眉根を寄せ、黙って思いつめている。
「貴方が変わられたのと同じように、チーフも変わられました。いえ……貴方が、変えたのです。このようなことは、決してあってはならない。ですが、これだけはお伝えしなければなりません」
チェスカはラウロの、繋がれた両手に触れた。
「チーフは貴方のおかげで、『人の心』を取り戻しつつあります。ゆっくりで構いません。貴方の手で……、どうか、お救いください……!」
鎖が軋む。体の震えが、冷たい拘束を通して互いに伝わる。今すぐにでも鎖を解き放ち、彼を[家族]の下に帰したかった。しかし、行動に移す勇気はない。チェスカは自分自身を激しく罵倒するように、ラウロの手を強く握りしめた。
その時、部屋の扉から開錠音がした。チェスカはラウロの手を離し、何事もなかったかのようにベッドから立ち上がる。フィードが、『檻』に戻ってきたのだ。
「チーフ、お疲れ様です」
「ご苦労だった」
丁寧に挨拶すると、フィードは南京錠を手早く開けながら返答する。彼は脱いだジャケットを椅子の背もたれに投げ、ネクタイを緩めた。
「食事をお持ちしました。タイミングが合わず、申し訳ありません」
「構わない。お前はもう食べたのか?」
「いえ、これからです。では、そろそろ失礼致します」
チェスカはそそくさと『檻』の外に移動し、南京錠をかけ直す。困惑したラウロの視線が痛かったが、逃げるように部屋の扉を閉めた。
合鍵を使って部屋の鍵もかけ直す。チェスカはふぅ、と息をつき、足早に廊下を進んだ。ラウロに全てを打ち明けて良かったのか。今となっては、正解かどうかも分からない。
再び自室のキッチンに戻り、コンロをつけ直す。ビーフシチューはすっかり冷めてしまった。『檻』の中の二人は、今頃どうしているだろうか。想像するだけで鳥肌が立つ。
チェスカは何度か、二人の情事を目撃したことがある。ラウロが失踪する前にも、再び捕らわれた後にも。彼らの様子は、何故か見ている方も興奮してしまう。だが、『檻』の中の彼らを初めて目にした瞬間、チェスカは二人から『愛』を感じたのだ。
昔と比較しても、違いは明らかだった。以前のフィードが求めるのはラウロの『身体のみ』だったが、今は『心まで全部』得ようとしている。ラウロはその要求を、無意識のうちに感じ取っているように見えた。
きっと二人は、自分自身の変化に気づいていないのだろう。フィードの過去を掻い摘んで説明しても、ラウロは耳を塞ぐことなく、積極的に聞き入れようとしていた。彼はもしかしたら、『自身の気持ち』に気づくかもしれない。
ビーフシチューが音を立て始める。チェスカは慌ててコンロの火を弱め、かき混ぜた。
数ヶ月前の出来事を思い出す。失踪したラウロと、社長の妻と娘の捜索を同時並行した時のこと。フィードは元々小食であり、長時間の捜索に加え心労からか、食事を抜くことが多かった。
フィードが数週間ぶりに本社に帰還した時も、チェスカは夕食を差し入れようとした。だが、フィードは自室の前に倒れていた。三日間何も口にしていない、と言われ、チェスカは『食事だけは必ず取ってください』と彼を厳しく叱りつけたのだった。
フィードは『あの男が失踪して以来、調子がおかしい』とも語った。三年前に連れ帰ってから毎晩入り浸っていた彼にとって、無理もない。想像以上に依存していたのか、と愕然としたものだ。
そうなると、衰弱の原因は栄養不足の他にもあるのではないか。気がつくと、無意識に『私の身体を使ってください』と口に出していた。
言葉を失ったフィードに対し、チェスカは淡々と理由を述べた。
『今まで習慣づけていたことを突然お止めになると、禁断症状が出ます』
『ラウロさんがいつお戻りになるか分かりません、それまで我慢なさるとまた今日のような事態になります』
『私の体形はラウロさんに若干似ております、顔さえ気になさらなければ、問題はありません』
それに対し、フィードは『大事な部下に手をつけることは出来ない』と答えた。チェスカは嬉しくなったが、『私はどうなろうと構いません』と断りを入れた。
この言葉に嘘はない。自分はラウロと同じく、『慣れているから』。
「チェスカさん、お帰りなさい」
遠い過去の傷に苛まれていると、眠そうな声に呼び止められる。リビングのドアが開いており、小さな同居人が様子を見に来たようだ。彼女はまた、読書に夢中になるあまり寝落ちしてしまったらしい。
「ちょうど良かった、貴方もお夜食はいかがですか? その様子だと、夕食もまだでしょうから」
「あっ……で、では、いただきます」
彼女はあたふたと狼狽えている。チェスカはフッと笑みを零し、ビーフシチューを二枚の皿に盛りつけた。
「(私が惚れていたのは、ラウロさんだけではなかったのかもしれませんね)」
思い浮かぶのは、繁華街での一瞬の出来事。自分を救った男の姿は、今でも鮮明に覚えている。ラウロと同じように、その男も『助けたい』と思うのだ。
この二人の心は、日を追う毎に変化している。彼らの気持ちが重なり、救われることを心から願いながら、チェスカはキッチンを後にした。
Think back, think again my heart
(心の再考察)
(ログインが必要です)