14話―1
文字数 3,008文字
金曜日の夜。閉店間際のスーパーマーケットは、人も惣菜も閑散としていた。たまにすれ違う客は仕事帰りのサラリーマン、もしくは自分と同じく、長時間の実験で疲れた理系学生のどちらかだろう。
この近辺で一人暮らしをする学生、イオは惣菜コーナーを見回し、一つだけ残されたサンドイッチを手に取った。萎びていて美味しそうには見えないが、これしかないのだから仕方がない。
彼はミルド島北部の大学に通う学生である。実家にいた頃は何不自由なく暮らしてきたが、進学後は節約を心がけるようになった。普段は自炊だが、帰りが遅くなる日は調理済みの商品を物色する。この事実を両親に知られたら、『食事はバランス良く採れ!』と叱られてしまうに違いない。
せめて野菜ジュースだけでもつけよう、と店内を引き返す。その時、鈍く光る金色が目の前を横切った。ウェーブのかかった長髪、眼鏡の奥の黒々とした瞳、そして生気のない痩せこけた顔。ほんの一瞬しか見えなかったが、四十代ほどの男性だろうか。
イオは足を止め、その男性の姿を目で追う。彼とすれ違ったスーツ姿の会社員はぎょっと身じろぎ、慌てて距離を取る。その様子には目もくれず、男性は店の外へ消えた。
「す、すみません! さっきの人とはお知り合いですか?」
イオは会社員を慌てて引き留める。彼は怪訝な様子だったが、おぞましい物を見るような目で外の暗闇を睨んだ。
「まさか。でもこの辺りの人なら皆知ってるよ。『穢れた科学者』ローレン・ライズ。男女問わず若い子を攫って暴行した後、実験台にする危険な奴さ」
反芻するように、その名をゆっくりと口にする。会社員は心配そうな顔でイオの肩を叩いた。
「君、見たところ学生だろう? あいつに近づくと危ないから、これ以上関わっちゃ駄目だぞ」
「はい。ありがとうございました!」
丁寧に礼を返し、イオはすぐさまレジに向かう。突然の出逢いに、野菜ジュースのことなどすっかり忘れてしまった。頭の中は、あの妖しげな『穢れた科学者』のことでいっぱいだった。
会計を済ませ、店を飛び出す。イオは駆け足で自宅に戻り、急いでパソコンを立ち上げた。
名前を検索すると、『ライズ研究所』のページが真っ先に表示される。リンクを開くと、研究所の概要が簡潔に書かれていた。どうやら、リバースカンパニーという企業のサイト内ページのようだ。
所長であるローレンの経歴も載っていた。カルク島出身である彼は各地の研究所を転々としていたようだが、約十年前、ミルド島北部にて独立する。住民から聞いたような怪しい噂は当然ながら、書かれていなかった。
新薬の開発がメインだが、人間を含む様々な生物の化学的な基礎研究も行っているらしい。概要を何度も読み返し、イオは興奮に震える。
「間違いない。この人なら、僕の『飼い主』になってくれるはずだ!」
『穢れた科学者』に会いたい。その想いは膨れ上がる一方であり、当分治まりそうにない。イオはサンドイッチに手をつけず、夜通し情報を漁り続けるのだった。
――
翌日の早朝、イオはライズ研究所に足を運んだ。自転車で二十分離れた郊外に位置する、一見すると廃墟のような建物。インターホンはないが、鍵はかかっておらず自動ドアが開く。イオは玄関先で大きく息を吸いこんだ。
「ごめんくださあああぁいっ!」
横に長い廊下に挨拶が響き渡る。数分間の沈黙の後、不機嫌そうな足音が近づいてきた。
「まだ明け方だというのに、いったい何の用かね」
白衣を羽織った金髪の男が目の前に現れる。疲れきった黒目で睨まれ、イオは思わず口元を緩ませた。
「あのっ、僕、イオ・ハウディアっていいます。あなたの助手になりたいんです!」
「助手だと?」
『穢れた科学者』、ローレンは呆れたように顔をしかめる。イオは前のめりになり、更に言葉を続けた。
「大学では生物学を専攻しているので、実験なら出来ます! 何なら実験台に使っても構いません。どうか、僕を助手にしてください!」
「待ちたまえ、いきなり志願されても困る。それよりも何故ここに来たのだ? 研究所員になりたいのなら、設備も人員も整った場所があるだろうに」
諭すように宥められ、イオは我に返る。彼に会えた喜びが暴走し、怪しまれてしまったようだ。息を整え、平静を装いつつ理由を述べる。
「あなたが近所の人を暴行して実験台にしてるって話を聞いたんです。もし助手になれば、思う存分使ってもらえると思って……」
「はぁ。そのような猟奇じみた話、ある訳ないだろう。噂話もいい加減にしてほしいものだ」
ローレンは長い髪を掻き乱す。予想外の反応に、イオは目を丸くした。
「えっ。あの話、本当じゃないんですか?」
「話せば長くなるが……以前、助手が緊急用シャワーをやむ無く使用する事態があってな。その際、突発的に押し倒してしまったのだよ。まったく、性欲というものは何故こんなにも邪魔なのか」
緊急用シャワーとは、化学実験で引火などの事故が起こった際に使用される設備である。イオの通う大学にもあり、いずれも研究室に近い廊下に設置されていたはずだ。
薬品を洗い流すため、シャワーからは大量の水が出る。場合によっては着衣を外す必要もあり、無駄に欲望が刺激されかねない。
「当時は未遂で済んだが、在籍していた助手は全員辞めてしまった。君が聞いた噂は、近隣住民によって尾びれ背びれ胸びれがつけられた結果なのだよ」
「そう、だったんですか……」
逸話が全て作り話だったことに、イオは落胆する。ローレンは眼鏡を指で押し上げ、不審な眼差しをこちらに向けた。
「君の事情は知らないが、私は今後も助手を採用するつもりはない。帰りたまえ」
背中を強引に押され、イオは咄嗟に叫んだ。
「実は僕、『犬』なんです!」
ローレンの動きが止まる。その隙を狙い、イオは彼の両手を取った。
「物心ついた頃から、何故かそういう自覚がありました。親にも友達にも信じてもらえなかったけど、僕、本物の犬のように鼻が効いたり身体能力が高かったりするんですよ」
科学的な根拠もない、にわかに信じ難い話。だがローレンは口を挟むことなく、興味深そうに目を煌めかせている。
「生物学の道に進んだのも、自分の正体が知りたかったから。僕は人間じゃないかもしれないんですよ。研究者なら誰だって、調べてみたいじゃないですか?」
愛嬌たっぷりに、まさに『犬』のように微笑んでみせる。イオはローレンの瞳を覗きこむように見上げた。
「ちなみに、当時押し倒した助手の方って女性でしたか?」
「いや、男だったが」
「そうですか。安心しました」
ローレンは僅かに身じろぎ、一歩後退する。しかし、イオは彼の手をぐっと引き寄せた。
「僕は、あなたの『
掴んだままの手を、自分の股間にそっと擦りつける。彼はそれを食い入るように見つめながら、興奮気味に喉を鳴らす。その姿は間違いなく、逸話通りの『穢れた科学者』に見えた。
「……イオ、だったかな。私についてきたまえ」
ローレンは熱に浮かされたような口調で捲し立て、今度は自分の腕を引いて歩き始める。イオは歓喜に震え、尻尾を振るような勢いで彼につき従った。
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