15話―1
文字数 3,890文字
誰もいない静かな公園に、迷いこむ影がひとつ。ぼろぼろの服をまとった幼い少女は、最後の力を振り絞りベンチに這い上がる。休むことなく走り続けて体は限界だった。目を閉じると、すぐに意識が遠退いた。
彼女は、繁華街に暮らす孤児である。物心ついた頃(とはいっても最近だが)には既に両親はなく、カジノの入る建物でこき使われていた。
しかし数日前、[地方政府]の摘発により建物全体で騒動となった。この混乱の隙に逃げ出したが、彼女には行くあてもなく、生きる気力もなかった。このまま死んでもいい。そう思っていたのだが、どこか遠くから声が聞こえてきた。
「大丈……おや、良かった。気がついたようですね」
目を覚ますと、見知らぬ人の顔が現れた。薄桃色の長い髪を括った、眼鏡姿の女性。だが声は高くはなく、更に頭下の膝の感触はやや硬い。この人物は男性のようだ。
体を起こそうとすると、彼は手で支えながらゆっくりと介助した。辺りは既に暗い。街灯に照らされたその相貌は、どこか優しげだ。
「この時間まで外にいると、ご両親が心配しますよ。お家まで送りましょうか?」
少女は思わず腕を押さえる。痣だらけの体に気づいたのか、その男性の表情が曇った。
「独りきりだったのですね。……では、今日から貴方の『父』になっても良いでしょうか?」
ぼさぼさに伸びた髪に触れられ、少女は言葉を失う。その男性は返答を急かすことなく、綺麗とは言えない髪を優しく撫でている。乱暴に扱われた記憶しかない彼女にとって、初めての感覚だった。
視界が滲み、涙が溢れる。少女は力一杯頷いた。
「まだ名乗っていませんでしたね。私はチェスカと言います。貴方は……お名前は、ありますか?」
カジノでは『お前』としか呼ばれた覚えがない。首を横に振ると、彼は少々思案した後にっこりと微笑んだ。
「『natural』から頭の語を取って、ナト、という名前はいかがでしょう?」
チェスカは少女の目元をそっと拭い、言葉を続ける。
「貴方の色は晴れた空、あるいは海を連想させます。自然に、ありのままに生きてほしい。貴方には、幸せになっていただきたいのです」
彼は少女の髪を一房掬う。頭を洗う暇もなく、そのパステルブルーは汚れでくすんでいる。それでも自分の色を褒められ、少女は嬉しかった。
「ではそろそろ行きましょうか。ナト、これからよろしくお願いしますね」
チェスカに抱えられ、公園を後にする。少女、ナトは彼にしがみつきながら、自分だけの名前をいつまでも噛みしめていたのだった。
――
チェスカの『娘』となったナトは、巨大なビルで暮らすことになった。チェスカは
温かいシャワーを浴び、チェスカの手料理を食べ終わった後は急に意識が遠退き、それから一日近く眠り続けることになる。目が覚めた時には既に、チェスカは養子の手続きを済ませたらしい。
当初は栄養失調気味だったが、日が経つにつれて健康を取り戻す。日中はひとりきりであり、ナトは次第に暇を持て余し始めた。部屋を探険するうちに、本棚が立ち並ぶ書斎を発見する。そこから一冊の本を手に取った瞬間、彼女の人生は大きく変わった。
紙に刻まれた、整然と並ぶ黒い活字。意味は分からなかったが、眺めているだけで心が踊った。帰宅したチェスカに呼びかけられるまで夢中だったらしい。彼は叱ることなく、文字の読み方を教えてくれた。その日から、ナトは寸暇を惜しんで本を読み耽ったのである。
書斎には経済や歴史、自己啓発に関する本が多く、幼いナトには単語の意味も内容も難しいものだった。チェスカがいる間は質問出来たが、彼は部長という立場であり、忙しい時には帰宅時間が深夜になる。そこで『辞書を引いてみては?』と提案され、辞書の使い方を教わった。
分からない単語が出てくる度に辞書で調べ、隣接した単語に目が留まり語彙が増えてゆく。三ヶ月が過ぎる頃には、ナトの知識は大人にも匹敵するレベルとなった。
「チェスカさん。私も、諜報部の仕事を手伝いたいです」
この日は休日。時間が空いた頃合いを狙い、ナトは以前から思っていたことを打ち明けた。ダイニングテーブルで新聞を読んでいたチェスカは顔を上げ、目を丸くさせた。
「驚きましたね。何故、そう思ったのですか?」
彼は即座に反論せず、理由を求めてくる。ナトは向かいの席によじ登って座り、真剣に述べた。
「この数週間、深夜残業が毎日続いていますよね? このままでは過労で倒れてしまいます。雑用でもいいので、私にも何か手伝わせてください!」
チェスカは困ったように微笑み、新聞を置く。席を立ち、自分の真横で膝をついた。
「残業の原因は、大至急調査しなければならない案件があったからですよ。ですが、昨日で粗方済みました。もう心配ありません」
「でっ、でも、明後日からミルド島に出張ですよね? まだ、疲れが残っていたら……」
論理的な理由をまとめられず、ナトは俯く。すると、温かい手のひらが頭に置かれた。
「私を心配してくれたのですね。ありがとうございます」
ナトは顔を上げる。チェスカは嬉しいような悲しいような、複雑な表情だった。
「……もしかしたら、貴方の手が必要になるかもしれません。ナト、どうしても手伝いたいというのなら、出張について来てもいいですよ」
「ほ、本当ですかっ!」
喜びを声に出すと、チェスカは表情を曇らせたままゆっくりと、頭を撫でた。
「ただし、条件があります。外に出る時は『男の子』の格好をしてほしいのです」
「『男の子』、ですか?」
「えぇ。幼い女の子が外を歩くだけでも、危険がいっぱいですからね。貴方を危ない目に遭わせたくないので、出来ればこのままでいてほしいのですが」
チェスカはパステルブルーの髪を優しく掬い上げる。今のナトは肩より髪が長い。更に、社長の一人娘が昔着ていたというワンピースを借りていた。
孤児時代には考えられなかった、『女の子』としての暮らし。手放すのは少し後ろめたいが、大好きな『父』の力になれるのなら、そして『外の世界』に行けるのなら、失っても構わない。ナトはチェスカを元気づけるように、精一杯笑ってみせた。
「本から様々なことを学んだので、それを生かして危険を回避してみせます。私を……いえ。僕を、ミルド島に連れて行ってください!」
チェスカは長い間無言で震えていたが、泣きそうな顔で笑い、ナトを強く抱きしめた。
わがままが通ってしまい、心の中に痛みが走る。だが、否定することなく認めてくれた『父』のためにも、突き進まなければ。ナトは彼の胸の中で、決意を新たにするのだった。
――
チェスカの『息子』となったナトは、『父』と共にミルド島に上陸した。
短く切りそろえた髪、Tシャツに短パン、そして顔が隠れる大きさの白いキャップ。道行く人は誰も、ナトを少女だと思わないようだ。自分ではない誰かに成り代わったかのようで、どこかくすぐったい気分だった。
空港を出た後は、乗用車を借りて港町に移動する。飛行機に乗るのも、海を見るのも初めてであり心が躍ったが、チェスカは何故か、終始憂鬱そうに見えた。
ホテルの客室に到着すると、チェスカは部屋中を隈なく探し回る。その姿を不審に思い、ナトは質問を飛ばした。
「チェスカさん、何を探しているのですか?」
「ちょっと待っててくださいね」
壁に沿って歩きながら、彼は注意深く部屋を一周する。そして安堵したように息をつき、ようやく表情を和らげた。
「盗聴器がないか確認していました。このようなホテルには、コンセントに差すタイプの物がよく隠されていますから。見たところ、この部屋にはないようですね」
盗聴器と聞き、ナトは恐れおののく。チェスカは宥めるように自分の背を摩り、備えつけの椅子に腰かけた。
「さて、今後の段取りを確認しましょう。明日の午前中、[オリヂナル]という団体が港に到着します。彼らはこの町で旅の準備を整えるはず。その隙を狙い、小型の発信機を車体に取りつけるのです」
彼はバッグから、緩衝材に覆われた物体を取り出す。ナトは向かいのベッドに登り、物体に目線を合わせた。
「私は彼らのうちの数名に顔が割れているので、取りつける役目は貴方に任せます。他に確認したいことはありますか?」
「はい。作戦内容は分かりましたが……何故、その団体を追跡するのでしょうか?」
出張の目的は出発前にも説明されていたが、『社長代理の指示です』としか聞いていない。何故尾行までしなければならないのか、理由を知りたくなったのだ。
チェスカは再度憂鬱な表情を浮かべ、自分の隣に座った。
「今回のことは、複雑な事情が絡み合っています。貴方が読んだ本の内容よりも遥かに難しく、理不尽な問題です。それでも、知りたいですか?」
その灰白色の瞳は、物悲しい色をしていた。きっと、彼は計画を実行したくないのだろう。伏せている理由も、自分に聞かせたくないくらい凄惨なものなのだろう。だが、ナトはしっかりとその視線を受け止めた。
「知りたいです。理由を知らないまま動くのは納得出来ませんし、チェスカさんが一人で悩んでいる様子も、見たくありませんから」
彼は驚いたように目を見開き、すぐに緩ませる。被っていたキャップを外され、優しく頭を撫でられた。チェスカはゆっくりと、昔話を読み聞かせるように、その理由を説明し始めた。
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