10話
文字数 3,296文字
セントブロード孤児院で暮らし始めてから二週間経つ。ミルド島東部の霊園から戻って以来特に何事もなく、穏やかな時間が過ぎていた。
皆が寝静まった深夜。ラウロはひとり、『家』のリビングにいた。暖炉の前のソファーに埋まり、ひたすら絵に没頭する。暖炉の火はとっくに消えているが、身体は熱を帯びている。思わず手元が震え、深く溜息をついた。
「ふぅ……」
ペンをソファーに置き、目の前の闇をじっと見つめる。
日中は何とか集中していられるが、やはり夜になると、フィードのことを思い出してしまう。火が消えても、薪の内側にはまだ熱が残っているように。あの時の想いは、ラウロの心の奥でくすぶり続けているのだ。
『檻』にいた頃から続く『蛇』への性的依存。筆を手にしたその日から、自慰行為を減らそうと努力した。奥深い絵の世界のおかげで少しは我慢出来るようになったが、やはり、欲求は日を追う毎に蓄積する。
「だめだ、我慢出来ない」
ラウロは悔しげに息を吐いた。スケッチブックを傍らに置き、震える手でズボンのチャックを下ろす。その時、背後から低い声が聞こえた。
「ラウロ、こんな時間まで描いてたのか?」
反射的に振り返ると、疲れきった様子のノレインがいた。ラウロは慌てて出しかけた自身をしまう。しかし不審な行動を見て察したのか、ノレインは軽く「ぬはは」と笑った。
「なぁに、恥ずかしがることはない。私も男だからな、気持ちは分かるぞ」
「ル、ルインさんだって、見られたら絶対慌てるくせに」
「ぬはははは、確かに君より取り乱しそうだな!」
彼はラウロの肩をポンポンと叩き、近くの席に腰かける。そして、不意に表情を曇らせた。
「だが、我慢するのは良くないぞ。溜めすぎると身体にも、心にも支障が出る。決して、無理だけはするんじゃない」
やはり、数日間禁欲していたこともお見通しだったようだ。ラウロは苦笑すると共に、弱々しく息をついた。
「抜いちまうと、戻れない気がしてな」
「いや、君なら大丈夫だ。フィードを救うと決めたのだろう? 強い意思さえあれば、踏み止まれる」
「ははっ、ルインさんには敵わねぇよ」
思わず笑みが零れてしまう。[家族]でもあり、『家族』でもある彼に断言されては、不安など手品のように消えてしまいそうだ。
ノレインは「そろそろ休憩でもどうだ?」とキッチンに向かう。きっと原稿執筆の息抜きに来たのだろう。ラウロも彼に続いて席を立った。
「深夜にコーヒーは止めといた方がいいな。ホットミルクにしよう」
彼は冷蔵庫を開け、小さな鍋に牛乳を注ぐ。戸棚からマグカップを取りつつ、ラウロはその姿を眺めた。黄色のセーターに、青いジーンズ。[オリヂナル]の舞台衣装よりゆったりとしているが、体の細さが際立っている。
「(そういえば、この人も受け役だったんだっけ)」
ノレインは妻も子もいるが、うん十年前は『変態』と名高いヒビロと関係を持っていたという。彼らから直接聞いた訳ではないが、メイラとヒビロが今でも修羅場を繰り広げる様子を見ていると、自ずと察してしまうものだ。
確かに『男性らしい』体つきではないノレインは、ラウロの目から見ても色っぽいと思える。ヒビロが長い間彼を想い続けた理由も、分かるような気がした。
「ルインさん。あんたも、ヒビロさんとやったことあるんだよな?」
鍋をかき混ぜる手がピタッと止まる。ノレインは顔を真っ赤にさせてラウロを見た。
「ぁ、あぁ。大きな声では言えないけどな。……ん、ちょっと待て。今『あんたも』って言わなかったか?」
「あっ」
「まッ、まさか、あの時……!」
わなわなと震える彼に、ラウロは「しまった」と心の中で毒づく。銀色のキャンピングカーが故障した日の夜、一人で稼ぎに飛び出した時のこと。フィードに襲われかけたところをヒビロに助けられたのだが、『蛇』との接触で欲が治まらず、彼と朝まで抱き合ったのだ。
帰宅した際、ノレインは自分を一目見て、ヒビロに怒号を飛ばした。『変態』が見せるひと時の
「あの『変態』め! 今度会ったら殴り飛ばしてやる!」
「い、いや、あの時は俺からヒビロさんに頼んだんだ。別に襲われた訳じゃねぇから!」
鍋が音を立て始め、二人は我に返る。ノレインは慌ててコンロの火を止め、マグカップにホットミルクを注いだ。
「それで、何故そんなことを聞いたんだ?」
リビングに戻り、元の席に着く。気まずそうに促され、ラウロは聞きたかったことを思い出した。
「挿れられる快感を知ってるはずなのに、こんなに長い間平気でいられるなんてすげぇな、って思ったんだよ」
青い『蛇』に植えつけられた快楽は、夜が来る度に脳裏を過る。ラウロが知る限り、最も上手い人物はヒビロで間違いない。彼に愛されたノレインも『
「そうか。……平気そうに見えるか」
ラウロの予想に反し、ノレインは苦笑する。彼はマグカップに目を落とし、深く息をついた。
「昔よりはだいぶマシになったが、一度味わったこの感覚は、そう簡単に忘れられるものじゃない。今でも、夜になると身体が疼くことがある」
その背が僅かに震える。やはり、彼も自分同様苦しんでいたのか。
「メイラと[家族]が傍にいるからこそ、私は踏み止まっていられるのかもしれない。もし独りだったら、耐えられなかっただろうな」
ノレインは一呼吸置いて顔を上げ、ラウロの目を真っ直ぐ見た。
「だから君も、苦しい時は私達を頼れ。『家族』だったら良い相談相手になるだろうし、それでも言いにくかったら、私も愚痴につき合ってやるぞ」
締め切り前は無理だがな、とつけ加え、ノレインは豪快に笑う。ラウロも彼につられて吹き出した。
長い間ひとりきりだったせいか、他人に心の内を晒すことなど有り得なかった。だが、ラウロはもう独りではない。汚れた過去を知っても傍にいてくれた[家族]や、うん十年の時を経て得た新たな『家族』がついている。
ナタルだったら、呆れながらもしっかり聞いてくれるだろう。子供達にはこの手の話はまだ早いだろうが、モレノと双子に囃し立てられたらボコボコにしてしまいそうだ。再会した盟友の二人は、飛び上がって驚くに違いない。夫婦の同級生やレントも、自分の気持ちを否定しないはずだ。
想像しただけなのに、各々の反応は手に取るように分かる。ラウロにとって、彼らはかけがえのない大切な存在なのだ。
「ありがとう。俺、今度こそ何とかなりそうな気がする」
「おおッ、それは良かった! だが本当に無理だけはするな。苦しい時は、吐き出していいんだからな」
ノレインは席を立ち、マグカップを持ったまま器用に伸びをする。
「さて、そろそろ戻るとしよう。……おっと、カップと鍋は洗わなくていいぞ。片づけは後でやっておく」
「分かった。ルインさん、原稿頑張れよ」
「あぁ。君も集中し過ぎるんじゃないぞ」
挨拶を交わし、ノレインはリビングを出た。辺りは再び静まり返り、ラウロはぬるくなったホットミルクを一気に飲み干す。
心の中で暴走する欲望は、ノレインと話すうちにすっかり治まった。このような淀んだ感情を持ってはいけない、と思っていたが、彼は蔑むことなく肯定してくれた。きっと同じ経験をしたからこそ、分かってくれたのだろう。
「苦しい時は吐き出していい、か……」
今なら、欲を吐き出しても引きずられることはない。という確信があった。ラウロはマグカップを傍らに置き、再びズボンのチャックを下げる。
フィードも、自分と同じように苦しんでいるはずだ。彼を救うために、もっと強くならなければ。そう願いながら、ラウロは己の欲望と向かい合った。
そしてこの日を境に、ラウロの心は、深い闇から抜け出した。
Release and liberate from my desire
(心を開いて、闇から光へ)
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