3話―3
文字数 3,598文字
「ん?」
何気なく首を傾げる様子に、胸がズキリと痛んだ。もし伝えてしまったら、彼は自分を拒絶するだろうか。
「僕、……男だよ?」
十秒を超える沈黙。ユノーは驚くことなく、「まさかぁ!」と笑い出した。
「冗談はよせよ。声も姿も、どう見てもただの貴婦人じゃないか!」
「ち、違うってば!」
反論しようと立ち上がった瞬間、いきなり視界が歪んだ。アビニアは訳も分からずその場に倒れる。ユノーが血相を変えて近寄るものの、視界の歪みは止まらない。徐々に寒気と吐き気に襲われ、アビニアは体調の異変にようやく気づいたのだ。
「悪いな、部屋入るぞ」
ユノーはアビニアを背負い、三階の寝室に入る。今までは『部屋に入るな!』と釘を差していたが、止めようにも吐き気が邪魔でそれどころではない。
彼はベッドにアビニアを下ろし、薪ストーブに火を灯す。横になったことで、吐き気は少々和らいだ。二階と三階を忙しなく往復するユノーを眺めながら、ぼんやり思う。
「(そういえば、ここんとこ体が変だったな……)」
体がガタガタと震え出す。急激に熱が奪われるような感覚。毛布がかけられたが、それでも寒気は止まらない。
「大丈夫だ。俺が傍にいるから、今は眠った方がいい」
ユノーはベッドの淵にしゃがみ、アビニアの手を取る。握られた手はじんわりと温かい。体の震えは徐々に治まり、視界がぼやけてくる。
――
気がつくと、呻るような吹雪の音はすっかり消えていた。
外は既に明るい。アビニアは静かに目を開ける。寒気も吐き気も感じず、ゆっくりと上体を起こした。
「うっ」
起き上がった途端、眩暈が再び戻ってくる。すると、耳元で声が響いた。
「まだ起き上がっちゃだめだ」
肩を掴まれ、ゆっくりと寝かされる。アビニアは仰天した。どうやら、ユノーはずっと隣にいたらしい。
「水分は摂った方がいいよな。飲めるか?」
ユノーはアビニアを片手で抱き起こす。水筒を口元に寄せられ、アビニアは少しずつ飲む。ほんのりとした白湯が喉を通り、生き返るような心地がした。
「良かった……一時はどうなることかと思ったよ」
安堵した様子で息をつき、ユノーはアビニアを枕に下ろした。
「まぁ寒かったのもあるけど、最近ずっと夜遅くまで仕事してただろ? きっとストレスが溜まってたんだと思う。また倒れないように、何かあったら相談するんだぞ?」
ストレスと聞き、アビニアは顔をしかめる。「原因は君なんだからね?」と言いたかったが、ぐっと堪えた。
「水が飲めるってことは、スープだったらいけるかもしれないな。待ってろ、すぐ用意してくる」
「待って」
アビニアは咄嗟に呼び止める。ユノーはその場で立ち止まり、振り返った。
「仕事は? 今日って平日じゃないの?」
壁際の時計は午前十時を指している。定休日ではないため、本来なら一階の工房にいるはずだ。しかし、ユノーは当然のように笑いかけた。
「言っただろ、俺が傍にいるって」
彼はそのまま部屋を出た。閉められたドアを呆然と見ていると、また胸が痛み出した。具合が悪い時とは異なる、切ない苦しさ。心臓の鼓動は異常なほど、早く脈打っていた。
アビニアは、訳が分からぬまま胸を押さえる。心臓の鼓動は治まらない。ユノーの一言はいつまでも、頭の中に響いていた。
――
数日後、アビニアの体調は完全に回復した。ユノーはその間仕事を休み、片時も傍を離れようとしなかった。
眩暈を起こした翌日、念のため診療所を受診したが軽い風邪だと言われ、少量の薬をもらうのみだった。ユノーに移るのでは、という懸念も何のその、彼は咳一つしなかった。ストレスが原因、というのは本当なのかもしれない。
仕事が終わり、深夜。アビニアは暗い寝室で衣装を着たまま、ベッドに腰かけた。ユノーは外出しており、アパートには誰もいない。
ぼんやりしていると、ユノーの顔が不意に浮かぶ。ハッと気づき慌てて思考から追い出し、また浮かび上がる。その繰り返しが続いていた。
「何なんだろう、この気持ちは」
心に深い霧がかかったような感覚。アビニアは深く溜息をつく。
その時、ノックの音が聞こえた。視線を向けると同時にドアが開き、ユノーが現れた。その顔は何故か引きつっている。
「おかえり。帰ってたんだね」
何気なく声をかけるが、彼は返事をしない。少し間を置いて、ユノーは緊張したように口を震わせた。
「アビニア、大事な話があるんだ」
ユノーは握った左手に右手を添える。彼は部屋に入ってきた時から、左手を握ったままだ。まるで、何かを大事に持っているように見えて。
「(ま、まさか!)」
アビニアはベッドから立ち、一歩後退る。全身から血が引くのを感じ、心臓が早鐘を打ち始めた。この光景は、今まで何度も目にした『未来』そのものだった。
「お前さんのおかげで、『疫病神』だった俺がここまで変わることが出来た。本当に感謝してる。ありがとう」
アビニアは逃げるように俯く。その笑顔を、今は直視出来ない。
「途方に暮れていたあの時、お前さんを見て雷に打たれたように感じたよ。今思えば、あのサーカスを見た時から、何かが変わるような気がしたんだ。未来を聞きたくてミルド島に来たけど、途中で気づいてしまった。本当は、未来を聞きたかったんじゃない」
話の続きを聞きたくない。耳を塞ごうとしても、体が動いてくれない。
「アビニアに会いたくて……アビニアと一緒にいたくて、ここまで来たんだ」
両手を取られる。反射的に顔を上げてしまい、嫌でも彼が目に入る。
「俺はアビニアのことが好きだ。ずっと一緒にいたい。助けになりたい。だから、結婚、してくれないか?」
心に、一際激しい痛みが走る。
ユノーは握った手を緩め、大粒の黒真珠が乗った指輪を取り出した。それをアビニアの左手薬指にはめる。緩くもなく、きつくもなく、ぴったりだった。
「止めて」
アビニアは彼の手を振り払い、よろよろと一歩下がる。どうしても避けたかった『未来』を目前にして、心を占めるのは嫌悪感ではなかった。嬉しい、という感情を認めたくない。心は真っ二つに張り裂けてしまいそうだった。
アビニアはその場でローブを脱ぐ。ユノーは何やら言いかけたが、言葉を失った。
「言ったはずだよね。僕、男なんだよ?」
滑らかな肌、緩やかな曲線。いかにも女性らしい体つきだが、自分は男なのだ。恐怖に耐えられず、アビニアは俯く。
「お願いだから、これ以上優しくしないで……!」
好きになっちゃうから。最後の一言は、声にならなかった。
涙が頬を伝い、床に零れ落ちる。すると突然、温もりに包まれた。アビニアは顔を上げる。力強く、ユノーに抱きしめられていたのだ。
「男だろうが女だろうが関係ない。俺が愛したのはアビニア、お前さんそのものだ」
ずっと押し殺していた感情が、じわじわと溶け出す。『未来』なんてどうでもいい。彼が相手なら、自分はどうなろうと構わない。アビニアは溢れ出す想いに触れ、ユノーが好き、という事実に、ようやく気づいたのだ。
宝飾品のように輝く灰色の瞳が向けられる。不思議なことに、目に映る光景と流れてきた『未来』の映像が重なって見えた。アビニアはそっと目を閉じる。吹雪の音が響く暗い部屋の中、二人は誓いのキスを交わした。
しばらくすると奥に入りこまれ、拒むことなくそのまま受け入れた。ユノーの動きに無意識に反応しながら、アビニアはこれまで起きたことを思い返す。
何故、『未来』を変えられなかったのか。
覚えている限り、何かしらの行動を起こしても未来を変えられなかったことは一度もない。だが今回、自分は『未来』を回避するために行動しただろうか。
お人好しだ、という自覚はある。だが、出会ったばかりの『疫病神』に同情し、知らず知らずのうちに惹かれていたなど、信じられる訳がない。
――今思えば、あのサーカスを見た時から、何かが変わるような気がしたんだ。
ユノーの言葉を思い出し、アビニアは悔しげに呻いた。出会いは『未来』を見たあの日ではない。それよりも前に、彼は[オリヂナル]に出演した自分を見ているではないか。
愛と希望を運ぶサーカス、[オリヂナル]。居場所を失った者が公演を見ると、人生が変わると言われている。ユノーは偶然にも、この公演後に職を失い孤独となった。彼の新しい居場所はアビニアのすぐ傍にあり、人生が変わったのは、かつて『疫病神』と呼ばれた男だけではなかったようだ。
「アビニア、愛してる」
ユノーは口を離し、愛おしい響きで囁く。アビニアは黙って彼の首に両腕を回し、告白代わりのキスを仕かけた。もう後戻りは出来ない。高笑いする『元凶』が脳裏に浮かび、アビニアは心の中で毒づいた。
「(ルインめ、今度会ったら一発殴ってやる……!)」
Fateful future shock
(変えられなかった未来)
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