4話―1
文字数 3,584文字
月が煌々と輝く夜。ダイニングキッチンで料理をする一人の男は、窓から差しこむ無機質な光を眺め、哀しげに微笑んだ。
大容量の鍋で、ビーフシチューがことことと音を立てる。普段より多めに作るのは、もう慣れてしまった。薄桃色の長髪をしっかり束ねた、額縁眼鏡の男。
彼は社長代理フィードの部下であり、諜報班時代からのつき合いだった。フィードが三年前に連れてきた『娼夫』、ラウロの世話をしたこともある。
鍋をかき混ぜながら、チェスカはラウロと出会った日を思い返す。この建物の地下倉庫に閉じこめられた、『路地裏の蝶』。檻を思わせる鉄格子の中で四肢を繋がれ、まるで拷問にかけられているように見えた。
檻の中の『蝶』に睨まれた瞬間、その異様な魅力に惹きこまれてしまった。今思えば一目惚れだったのかもしれない。無性に性欲を掻き立てられたが、それ以上に『助けたい』という想いが心を占めていた。そしてその日から、彼の『世話係』となった。
チェスカはそれ以来、誰もいない時を見計らって檻を訪れ、甲斐甲斐しくラウロに尽くした。だが彼は数ヶ月前、謎の失踪を遂げた。
当時の騒動を思うと、今でも頭が痛む。ラウロに魅了された者は自分を含め大勢いたが、フィードの焦燥感はそれらを軽く上回っていた。更に、社長の妻と一人娘も同時期に失踪し、対応に追われたフィードは日を追うごとに憔悴していったのだ。
ビーフシチューを二枚の皿に盛りつける。一つはフィードの分。もう一つは、再び戻ったラウロの分。バゲット入りの籠もトレイに乗せ、チェスカは部屋を出た。
ここはRC本社の四十九階であり、社宅フロアだ。社宅とは言っても、住民はチェスカと小さな同居人、そしてフィードのみ。数ヶ月前までは社長の妻と娘も住んでいたが、今となっては閑散としていた。
窓のない、薄暗い照明の廊下を進んでゆく。自分の足音以外、何も聞こえない。
数週間前、フィードはラウロを捕らえた。チェスカも応援要員として同行したが、思い出す度に心が掻き乱される。フィードはラウロに深い口づけを施し、その場の全員に『今後は誰にも渡さない』と宣言したのだ。
その言葉通り、ラウロは他の社員が入れないフィードの部屋に閉じこめられた。もう二度と彼に会えないと思っていたが、フィードは『世話係』を継続してほしい、とチェスカに頼んだ。
こうして今も変わらず、ラウロの世話を続けている。チェスカは食事の用意をする度に、改めて実感するのだった。
金属製の扉の前に立ち、静かにノックする。合鍵を使い、チェスカはフィードの部屋に足を踏み入れた。扉の向こうには、もう一つ扉がある。鉄格子の枠が部屋中を囲い、まさに『檻』のようだった。
ラウロが失踪して間もない頃、フィードは部屋の改築を行った。部屋の中に頑丈な『檻』を入れるとは。彼の強い執念は、並々ならぬものだった。
食事を載せたトレイを、壁際の棚に置く。チェスカは懐から『檻』の鍵を取り出した。今夜は天井付近の窓から月の光が差し、手元が分かりやすい。この『檻』には照明がないのだ。
南京錠を開け、扉を開く。金属音に気づいたのか、『檻』中央のベッドの上で、ラウロがおもむろに振り向いた。腰までの長髪がさらりと流れ、滑らかな素肌が露わになる。両手首は拘束されていたが、足は自由であり、彼はシーツの上にぺったりと座りこんでいた。
抜け落ちた表情には、どこか穏やかさを感じ取れる。以前見た鬼気迫る姿はなく、神々しい美しさだけがそこにあった。
「こんばんは。チーフはまだ、お帰りではないのですね」
普段のチェスカは、フィードのことを昔の役職で呼んでいる。もちろん業務上では現在の役職、『社長代理』と呼んでいるが、プライベートでは呼ぶな、とフィードに言われていた。
ラウロもそれを知っているため、『チーフ』と聞くや否や露骨に顔をしかめた。
「このまま帰ってこなけりゃいいんだがな」
「まぁそうおっしゃらずに。食事はいかが致しましょう、お待ちしますか?」
「いや、いい。今すぐ食べたい」
「承知しました」
チェスカはトレイを手にベッドに腰かけ、ビーフシチューをスプーンで掬う。フィードの指示で手首の鎖は外せず、食事の介助が必要なのだ。ラウロはスプーンを口に含むと、僅かに笑顔になった。
「うん、うまい」
彼は黙々と食べ進める。その一心不乱な様子を眺め、チェスカは愛おしげに微笑んだ。ラウロの笑顔を見る度に、心の中に温かい光が差すのだ。
この一見平和な様子は、地下室時代には有り得なかった。ラウロは絶えず泣き叫び、フィードは冷酷なまでに彼を求めていた。
今も辛いはずだが、当時とは明らかに違う。二人を一番近くで見続けてきたチェスカは、そう確信していた。
「ラウロさん、随分変わられましたね」
彼は眉根を寄せた。バゲットを頬張っていなければ、「どこがだよ?」と反論しただろうか。チェスカは笑みを零し、理由を述べる。
「貴方は以前より、よく笑うようになりました」
「あぁー……」
食べ物を飲み下したラウロは、宙を眺めながら納得する。その様子を見て、チェスカは哀しげに目尻を下げた。
「きっと[家族]の皆さんが、貴方を変えてくださったのですね」
ラウロの表情が固まった。失踪後の彼は、[オリヂナル]というサーカス団に身を隠していたのだ。
[オリヂナル]は、身寄りのない者同士が『家族』のように寄り集まる場所。ラウロは捕らわれる際、[家族]だけは見逃してほしい、と懇願した。この短い期間で、彼らは本当の『家族』になったのだ。と、チェスカは思った。
ラウロから笑顔は消え、悲痛な面持ちへと変わってゆく。恐らく、彼は[家族]の下へ戻りたいのだろう。この場は沈黙に包まれる。
チェスカでさえ最近は、本当にこれで良かったのか、疑問に思っている。『助けたい』という願いは、今も変わらない。だが残念ながら、自分の力だけでは何も変えられないのだ。
「そういえば、チーフも昔と比べて、随分丸くなられました」
「え?」
言葉の意味を理解出来ないのか、ラウロはポカンと口を開けた。確かに、普段のフィードは無表情を貫いており、感情は読み取れない。しかしチェスカは、彼の些細な想いも把握出来ている自信があった。
「話は変わりますが……貴方は、チーフの過去をお聞きしたことはありますか?」
ラウロの焦点がぼんやりと遠くなる。必死に思い返そうとしている様子だが、どうやら何も知らないらしい。
「無理もありません。あの方を良くご存知なのは、社長くらいですから。なので貴方には、チーフのことをもっと知っていただきたいのです」
その薄茶色の瞳は困惑したように揺れている。だが興味はあるようで、チェスカは安心して語り出した。
「私がチーフと初めてお会いしたのは六年ほど前、大学生の頃です。就職活動中でしたが、この辺りは治安が良くはなく、柄の悪い者に絡まれることがありました。私の見た目はご覧の通り、女性と見間違えられることが多く……暴行されるかもしれない、と諦めたものです」
花の色に似た薄桃色の長い髪を、丁寧に括った姿。同じく中性的な見た目を持つラウロは、その瞬間顔が青ざめた。
「その時助けてくださったのが、チーフでした」
チェスカは当時を懐かしみ、目元を緩めた。
「あの方は暴漢を追い払った後、何も言わずに立ち去りました。その時は何者か分かりませんでしたが、スーツの襟元に社章が見えたので、彼はRC社員なのだと思いました。この一件が忘れられず、私はRCの採用試験を受け、ありがたいことに内定をいただきました」
ラウロはただ目を丸くしていた。フィードが見ず知らずの人を助けるとは思えない、とでも言い出しそうだ。
「専攻がIT系だったので諜報班に配属されましたが、人員は上長と私のみでした。その上長がチーフです」
ラウロは思わず「えっ」と声を上げた。偶然にしては出来すぎているが、偶然なのだ。
「チーフは当時のことを覚えておられました。無口で無表情なのは変わりませんが、厳しくも的確なご指導もあり、仕事熱心な方だと思いました。一年前でしょうか、諜報班は諜報部に格上げされました。私は諜報部長に、チーフは社長代理に昇格が決まりましたが……これまで通り、あの方は私共を使っておられます」
チェスカは一呼吸置き、声を強張らせた。
「チーフはとても優秀な方ですが、プライベートでの一面は、正直理解出来ません。昔のチーフは相当女癖が悪かった、と噂がありました。……ですが」
ラウロの両腕にそっと触れる。その腕はほどよく、ひんやりとしていた。
「あの方は恐らく、貴方とお会いした日から、何かが変わられたのだと思います」
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