14話―2
文字数 3,653文字
「ん? あぁ。遠い昔、ゲイのルームメイトに誘われたのがきっかけでな。性欲が邪魔になった際、度々相手になってもらっていた」
ここはローレンの自室。二人はこの部屋にて、一線を越えたのである。ローレンは振り返ることなく、淡々と身支度をしている。行為中の手慣れた雰囲気から「もしかして」と思ったが、やはりそうだったのか。イオは思わず、嫉妬心を燃やした。
「じゃあ、今度からは僕が、そのルームメイトさんの代わりですね」
ローレンは何も言い返さない。イオも着替えを済ませ、彼の傍に寄る。クローゼットには白衣が数着、そして皴ひとつないジャケットとスラックスが丁寧に収納されている。革製のベルトも並ぶ中、光沢のある赤いベルトが目に留まった。
「このベルト、可愛いですね?」
「買ったのはいいが、中々服装に合わせ難くてな。欲しいのなら、持ち帰って構わないが」
「ありがとうございます!」と喜び、ベルトを手に取る。それを見るうちにあることを思いつき、イオはベルトを首に緩く巻いた。
「遠慮なく使わせてもらいますね。どうですか、『犬』っぽく見えるでしょう?」
鏡の前に立ち、くるりと回ってみせる。黒に近い茶色の髪に、真っ赤な
――
ローレンと関係を持った後、イオは早速行動を開始した。
直ちに大学の退学手続きを取り、アパートを引き払って研究所に引っ越した。実家にも連絡を取り、『『飼い主』を見つけたので、もうそちらには戻りません。今までお世話になりました!』と一方的に縁を切った。両親はその後何度も電話をかけてきたが、イオは応じることなく、携帯電話を解約してしまったのである。
助手としての新たな人生が始まり、イオは慌ただしく毎日を過ごした。助手としての業務だけでなく、所内の清掃から炊事、洗濯、買い出しのような家事まで何でもこなした。
化学実験に対する知識も経験も浅く、始めの一ヶ月はローレンがつきっきりだった。しかし、あの朝のような甘い雰囲気とはほど遠く、大学での実験風景とさほど変わらないように思う。
それでも週末になると、ローレンは自分を部屋に呼び出した。だがその行為に『愛』はなく、研究の邪魔になる性欲を解消する時間にすぎない。イオは不満だったが、彼と触れ合っている間はまるで『愛されている』かのように扱われるため、それで充分だった。
そして、イオが助手になってから半年が過ぎ、季節は冬に差しかかろうとしていた。雑用も実験もてきぱき捌けるようになった頃、予想もつかない事件が起きた。イオが実験室に缶詰めになっていた間、ローレンは幼い子供達を連れ去り、研究所に閉じこめたのだ。
「僕という実験台がいるのに、何故そんなことをしたんですか⁉」
騒動が済んだ後、イオはローレンを問いただす。彼は口を閉ざしたまま、苛立った様子で機器に向かっていた。
被害者となった子供は既にいない。イオはショッキングピンクのオウムを連れた子供達と廊下でぶつかり、彼らを追ったが逃げられている。その時は泥棒かと思ったが、後にローレンの行動を知り、愕然としたものだ。
彼曰く、『一般人の能力を遥かに超えたバランス感覚の持ち主がいた。くまなく調査するため連れてきた』とのこと。その理由を聞き、イオは無性に腹が立った。
「ドクター。僕は実験台になるために、助手になったんです。でも、いつまで経っても構ってくれない。挙句の果てに他の人に手を出そうとしたなんて、信じられません!」
ローレンが自分を調べたのは、最初の一週間のみ。簡単な嗅覚テストや運動テストを行った他、薬品サンプルを試すよう指示されたが、それ以来何も行われていない。
すると、目の前の機器がエラー音を出した。彼は呆れたように電源を落とし、こちらを鋭く睨んだ。
「何か勘違いしているようだが、私は君を『実験台』として採用した訳ではない」
予想外の返答に、イオは言葉を詰まらせる。ローレンは近くの椅子に腰を下ろし、長い溜息を吐いた。
「当初は雇うつもりなどない、と言ったが、君は実に良く働いてくれている。器具の洗浄や書類の取りまとめなど、面倒な作業を私の代わりに行うことで、実験の効率が上がっているのだよ」
彼は無表情で淡々と語る。褒められたことなど一度もなく、イオは口を開けたまま無言で混乱していた。
「君の能力についても興味を失った訳ではない。だが、以前サンプルを投与した際、過剰に反応していた。薬品を使用した検査を続けると、身体に負担がかかる可能性が高い。体調不良で抜けられると非常に困るため、検査は一時中断しているところだ」
思えば、以前サンプルを服用した後、急激な動悸と体温の上昇により倒れてしまった。その薬品は『開発中の滋養強壮剤』であり、親会社の社員にも試してもらっていたようだが、危険な反応を示したのは自分のみだったらしい。
ローレンは椅子から立ち上がり、イオの肩に右手を置いた。
「イオ。私にとって、君はなくてはならない存在だ。『
イオは感極まり、涙を溢した。『犬』として傍にいられたらいい、と思っていたが、敬愛する彼に認められたことは、どんなご褒美よりも嬉しいものだった。
「ふぅ、あの少年の一件でストレスが溜まってしまった。今日はもう切り上げるとしよう。イオ、寝室で待っているぞ」
ローレンは長い髪を掻き回しながら、実験室を後にする。イオは「はいっ!」と元気良く返答し、彼の後を追いかけたのだった。
――
誘拐事件から数ヶ月経つ。長かった冬はようやく、終わりを告げようとしていた。
時刻は朝九時。業務前の日課である器具洗浄を行っていると、背後からカツン、カツンという聞き慣れない靴音がした。超音波洗浄機を一時停止して振り返ると、黒いスーツ姿の男がいた。
青いオールバックの髪、滲み出る威圧感。「どこかで見たことがあるな?」と思いながら警戒していたが、彼の細く青い瞳を見た瞬間、イオは目を疑った。
「えっ? ……『蛇』?」
その細く引き締まった体は、確かに蛇を連想させる。しかし自分の中の『犬』は直感的に、『こいつは『蛇』だ!』と叫んでいるのだ。
目の前の『蛇』も自分の正体に気づいたのか、チョーカーサイズに加工した
「なるほど、『犬』か。ドクターが番犬を飼うようになったとは驚きだ」
「番犬の役割は果たしていないがね」
青い『蛇』の背後には、呆れた様子のローレンがいた。イオが『蛇』を威嚇していると、彼は宥めるように声をかける。
「イオ、警戒を解きたまえ。見た目は不審者だが、その者は泥棒ではない。親会社の社長代理殿だ」
彼の役職を聞き、イオは慌てて謝罪する。『蛇』は相変わらず仏頂面のまま、「フィード・アックスだ」と名乗った。
ライズ研究所は、カルク島にある巨大企業、リバースカンパニーの子会社である。社長代理であるフィードはテレビの会見に度々出ており、イオも何度かその姿を見ていた。
研究所を訪れる社員は監査に来る視察部員か諜報部長ぐらいなのだが、話に依ると、フィードはローレンの昔からの知人らしい。
「それにしても、君がここに来るのは昇進して以来だな。今日は何の用かね?」
「諜報部長から『誘拐事件』について聞いている。別件でこの辺りに来たついでに、詳細を聞こうと思っただけだ」
ふん、と苛立ったように鼻を鳴らし、フィードはこちらに鋭い視線を向けた。
「研究のためなら、息をするように不祥事を起こすドクターのことだ。お前を手元に置いたのも、『犬』の性質を調べ尽くすためだろう。今からでも遅くはない。この男から逃げた方が良いのでは?」
彼の背後で、ローレンは文句を言いたげに顔を歪ませている。イオは自信たっぷりに笑みを浮かべ、高圧的な『蛇』に胸を張ってみせた。
「辞めるつもりなんてありません。僕はドクターの『
フィードは再度鼻を鳴らし、何も言い返すことなく実験室を出る。ローレンは早口で「今日の分の実験、進めておいてくれ」と指示を出し、彼の後を追った。
超音波洗浄機のスイッチを入れ、雑用を再び捌き始める。フィードの態度は腹が立ったが、イオは上機嫌だった。彼に言い返した時のローレンの顔は、どことなく照れているように見えたのだ。
人の道理から外れ、周囲から忌み嫌われていても構わない。『犬』にとって、『飼い主』とは自身の命よりも大切な存在である。
独特の倫理観を持つイオもまた、ローレンと同様に『穢れた科学者』なのだろう。しかし、彼自身はその事実に気づくことはない。イオの本性を知るのは、『飼い主』であるローレンだけなのだ。
Faithful assistant or mad scientist
(『犬』は『飼い主』に似るという)
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